第130話 時間を冒涜するもの

 

 エリザベートは再び走り出した。目指すは、すべての元凶となった場所だ。


 マリアが死に、クレアも恐らく……。


 エリザベートは頭を振って悪い考えを追い出す。

 

 学院のどこへ行っても、騎士と”予言の民”たちが戦っている。逃げ惑う生徒たちに交じり、停止した殺し合いの間を抜け、懇親会の会場、そして舞踏会の会場でもあるホールへと向かう。


 あの階段こそ、すべての元凶だ。エリザベートは砂利道を通り、アーチをくぐって会場に入った。ホールは生徒たちの避難場所となっているのか、特に戦闘が激しく、死体の山が築かれていた。エリザベートは騎士と、”予言の民”と、両方を乗り越え、停止されている”今”まさに閉じられようとしている扉の間を滑り込んだ。


 エリザベートはホールを縦に抜けた。ホールには飾り付けがしてあった。マリアが教えてくれた通り、ここでは今日、催しごとが行われていたのだ。レクリエーションの楽しさから、戦場へ急転直下か。どんなに地獄のような気分だっただろう。


 アフタヌーンティーの乗ったテーブルの陰に、見覚えのある顔があった。自分の取り巻きだった女だ。ベルナデッタ・ド・ヘンリエット・ゴッドロープ・オライリー。伯爵令嬢も男爵令嬢も、使用人さえも平等に、ここでは死ぬのだ。


 エリザベートは以前自分が落ちた階段の端に立つ。「笑える」と零したが、顔はなにも笑っていなかったし、愉快な気分にもなっていない。


 ここで感じるのは、逃げたくなるほどの忌避感だけだ。背後に地獄があった。この状況は彼女の中で、遡行前のあの瞬間とリンクしている。


「今から私は世界一馬鹿なことをするのかもしれない」


 オクタコロンに殺されようと、ここで自分でしようと、遡行は発生する。にもかかわらず、マリアもクレアも自分を逃がそうとて、死んだ。


 殺されるのと、ここで死ぬの。そんなに違いがあるのか? エリザベートは、自問自答する。


「意味ならある。殺されないで、思い通りにならないで死ぬのは、私にとって、有意義だ」


 ここから飛び降りれば時間の遡行が発生する。そうすればマリアはまだ生きている。クレアもまだ生きている。クレアは今度は近くにいてくれるだろう。マリアもまた、声をかけて隣にいさせればよい。


「あとはこのクーデターが起きないようにしないといけない。それからオクタコロンのことも……」


 クーデターが起きるのがこの時期なら残されている時間はあって四か月といったところ。古代遺跡の一件などを考えれば計画自体はもっとずっと前からあったことになる。


 自分に止められるか? いや、そんなこと考える必要はない。止めるように動かなければどのみち止められやしない。


 エリザベートは足にぐっと力を込める。


 躊躇はあった。恐怖もあった。


 けれどそれも、オクタコロンの後ろから迫る音を聞いた瞬間に、より大きな恐怖によって飲み込まれた。後に残っているのは、虚数的な勇気だけだった。


 アイリーン・ダルタニャンのようにはいかない。使命感が今はエリザベートを突き動かしてはくれるけれども、きっとまた恐怖し、混乱し、癇癪を起すだろう。


 エリザベートは助走をつけ、階段から飛び降りた。あの日、あの時、躓きから宙を舞ったときと同じように。ただあの時とは違って、靴が脱げたりはしなかったけれど。


 死にたくない! 驚くほどそう、魂の芯から叫びたくなる。


 地面に半透明の巨大な時計が現れる。もうじきエリザベートは硬い大理石の床で首を折るのだ。


「馬鹿だな。違うよ」


 その時、メアリー・レストの声がした。


 地面に激突しようとする瞬間、時計からメアリー・レストの腕が現れ、エリザベートを抱きとめた。そのまま彼女を引っ張って、時計の中へと消えていく。


 オクタコロンが追いついて来る。その足には真新しい血がついている。だが、エリザベートにはたどり着けない。


 その時にはもう、二人とも”この時間”にはいないからだ。

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