第128話 そうそしてそれが私の後悔 前
ガガッ。ピーッ。ガガッ。ピーッ。ガガッ。
オクタコロンの身体からは、聞いたこともないような耳障りな音が鳴っていた。金属擦れの音に似ているが、もっと奇妙で、この世の物とも思えない音だった。
それはオクタコロン自身にとっても快い音とは言えないものなのか、オクタコロンには”顔”はないものの、先ほどまでの勝ち誇った空気は失せ、不快感や焦燥感があたりをうろついている。
「逃げるな……ガガッ……そう……だ……。そう簡単に……ガガッ。逃がしたり…………ピーッ」
なにを言っているのか半分も聞き取れないが、オクタコロンは相当追い詰められているようだ。まさかこの場面で”人質”なんてものを使ってくるとは。
それもジュスティーヌやコンスタンスといった比較的エリザベートが好意的に接する相手ではなく、裏切り者のクレア・ハーストだとは。
(そうなんだよ。そのはずなのに)
エリザベートは歯ぎしりをして、動かないクレア・ハーストを睨みつけた。
(どうしても、簡単には動けない……)
エリザベートはマリアの亡骸はまだ胸から流れ出し、砂利の上を這う血から眼を逸らした。
もうずいぶん前だ。クレアが実家から消えてしばらくしてから、マリアから言われていたことがある。
「去った人を責めても、不毛なだけです」
そのときエリザベートは、コンスタンスが何もできないことに、まだ慣れていなかった。散歩中に服を枝にひっかけたエリザベートは、簡単な裁縫だからとコンスタンスにとれかけたカフスを直すよう伝えた。裁縫道具を持って不器用を発揮しているメードを本越しに見て、エリザベートはクレアのことを思い出した。
マリアは隣に立って、エリザベートが手を握り込んでいるのに気が付くと、彼女の手をやんわりと握った。そして、そう言ったのだ。
見透かされたことにむかついてエリザベートは腕を振り払ったが、マリアの言葉は正鵠を射ていた。エリザベートはクレアを思い出し、クレアだったらあんなの簡単にやってのけるのにと考えたのだった。エリザベートにとってそれは、自分を裏切るのと同じだった。その怒りの矛先は、今はいないクレアに向いていた。
「彼女をあまり責めないであげてください」
マリアは、クレアか、コンスタンスにか、どちらともとれるように言った。どちらかわからない、と思って時点でエリザベートは、やはりクレアのことを忘れていない。ますます複雑な顔になったエリザベートを置いてマリアはコンスタンスの手から裁縫道具を奪うと、戦場ではよくやっていたと言ってちくちくと縫ってしまった。それは概ね丁寧になされていたが、あと少し雑なところもあって、エリザベートはそれもわざとなのかどうか、詰問すれば彼女は何というだろうと思った。
アイリーンがエリザベートにとっていついかなるときも地雷であるのなら、クレアはずっと心に刺さっている棘だった。クレアはエリザベートと長く一緒にいた。いすぎたと言ってもいい。エリザベートの取り繕いを見破れるクレアは、エリザベートの近くにいてはいけない存在だった。
エリザベートはいつもクレアを裏切り者だと言ったが、マリアやコンスタンス、ジュスティーヌは、それを本気にしたことはない。
エリザベートでさえも、そうだった。自分が、マリアの犠牲を以てしてもそこから動くに動けないという事実が示すように、エリザベートにはまだクレアに対する想いがあった。
「は、は、は、そうだろう・う・う・う」少し回復したらしいオクタコロンが先ほどよりは流暢な声で話す。「お前は最期の最期に・に・に、この娘の名前を呼んでいたからな・な・な・な・な」
「なにを……言ってる?」
「憶えて――ガガガガ、まったく、ないんだな。な。な。ふう。ようやく気分がよくなってきたぞ」
まだ全然動けないけど、とオクタコロンは付け足した。
「憶えてないんだな。まあ、そうか。そうだった。お前の頭の中にいたんだから」
「待って。なにを言ってるの? 憶えてないって、なにを?」
オクタコロンは意外そうな顔をして、エリザベートを見た。それは恐らく、完全に忘れているわけではないということを確認した意外さで、オクタコロンがただふかしでエリザベートを動揺させようとしたわけではないという事実を補強している。
それよりなにより、エリザベートは確かに、なにかを忘れていることを、思い出した。その手掛かりが今までにもあったことを含めて。
だがそれを思い出そうとすると、背筋が凍り付く。心の奥底に、それ以上深堀するのはやめろと懇願する自分の姿がある。だけれど、それを知ってしまった以上、かさぶたをはがそうとする子供のようにエリザベートは、記憶のびんの蓋を、引っ掻き始めてしまうのだ。
「そこまでにしてください」
混乱した思考は諫める声でクリアになった。
今度はオクタコロンが混乱する番だ。
「次から次へと……全然思い通りにいかないじゃないか」
クレア・ハーストが自分に突きつけられた脚を掴み、喉から離した。
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