巻き戻り令嬢のやり直し~わたしは反省など致しません!~
柏木祥子
一章 回転遡行令嬢の反省
第1話 時間が巻き戻ったのであれば
零れたミルクは戻らない。これはよくある話。廊下の調度品やシャンデリアのガラス細工、そして洋ナシのガナッシュ。地面に落ちて割れたそれらを、買い直すことができたとしても、そこで浪費されるそれこれの構成要素や、落としてしまったことへの責任、なにより時間は――どれだけお金や権力を持っていても直すことはできない。時間は不可逆だ。行う先に固まるので、どれだけ歪な形をつくっていようと、やり直すことはできない。
走ったときに、エリザベートは食事の乗った台にぶつかった。廊下に置かれていたフランデール地方の艶やかな壺にも。ホールのシャンデリアの、一番入口の扉から遠いガラス細工も、もうすぐ破壊される予定だ。
エリザベート・デ・ルイス・コーネリウス・マルカイツ。聖ロマーニアス王国の王侯貴族である彼女は、父を”王の指”の一人であるグザヴィエ・デ・クリスティアン・ルイス・マルカイツとし、母はかつて王国中の芸術家が己のカンバスに納めんとした美女、クリスタル・デ・マルセール・ルイス・マルカイツである。
父からは意志の強さの見える黒い瞳を、母からは燃えるような赤毛を受け継ぎ、両方から王国で有数の権威を引き継いだ彼女は、今やそのすべてを失いかけていた。瞳には充血が走り、絶えず涙が浮く。髪は彼女自身がさきほどかき乱したせいであちこちに跳ねている。
そして権威。
王国で有数の権威を持つエリザベートは、同じかそれ以上の権威を持つ人物と結婚するはずだった。実際にあと四年、なにごともなく過ごすことができれば、彼女はこの国の女王への路線へ乗れていただろう。
過去を見ることは出来ない。
過去については語るしかない。
だから語ろう。取るに足らない過去について。
エリザベート・デ・ルイス・コーネリウス……もとい、エリザベート・デ・マルカイツは十の頃、この国の王子であるシャルル・フュルスト・マルティシニアン・ロマーニアン――こちらは、一般にはシャルル王子と呼ぶことが多い。苗字も含めて呼ぶものはまずいない――これと、婚約した。
婚約自体は彼らの幼いころから決められていたことだ。彼らも何度か、社交界などで顔合わせをしたことがあった。だから正式に婚約が決まっても、驚いたりすることはしなかった。
ただ、明らかな温度差はあった。エリザベートはまるで、シャルルに一目ぼれでもしたかのように、恋人のように振る舞いたがった。四六始終同じところにいたがったし、彼が誰かと話をしていると、横から入り込んで会話を奪い取ることがしばしばあった。
一方のシャルルは、十の子供にしては、かなり冷めていた、と言わざるを得ない。政略結婚であることはわかっていたから、エリザベートに特別の愛情も求めないし、自分から与えようとも思っていなかった。
ある日、シャルルが王室の庭である歴史家の書いた叙述詩を読んでいると、エリザベートが現れて、「こんにちは。シャルル様」と挨拶をした。シャルルはエリザベートを一瞥して、一つ、ため息をすると、本を逆さにして傍に置いた。
「まあ、ドゴール氏の叙述詩ね。シャルル様はもうそんなものまで読めるのね。私も家庭教師のかたに薦められて開いたことはあるのだけど、ちっともわからなかった」
「ちっともわからないなら話に出さないほうがいい。意味がないから」
会話とすればこんなもので、二人はまったく気が合ってなどいなかったが、いつも一緒にはいたので、基本的には仲良く見られていた。
学園に通い始めて、それぞれがそれぞれの家から出るようになると、プライベートの場での交流は減り、また年齢とともに二人は変化した。
シャルルはエリザベート以外の学友を手に入れて、随分と社交的に、また明るくなったし、多少はエリザベートと積極的に話すこともあった。
反対にエリザベートは、学園でよく権威を振るっていた。シャルルを相手にしているときは、傅くような態度をとるが、他の人々と話すときはまったく横柄で、怜悧だった。彼女たちが高等部に入るころには、周りの人々は元のエリザベートをほとんど忘れていたし、シャルルもエリザベートとはまた、幼少期とは別の理由で話さなくなってしまった。
それでも彼らは婚約者同士だったが、これも一人の少女の登場によって、簡単に揺らいでしまった。
少女の名前はアイリーン。アイリーン・ダルタニャン。僻地の貧乏男爵の娘で、育ちは平民同然。しかし、こういった物事にありがちな天使のような心と、何人もの精神も逆なでしない容姿を持つ。それから、独特で偏った教養も。
シャルルはアイリーンと文学についてよく語り合った。はじめにシャルルが目をつけたとき、アイリーンが読んでいたのは、偶然にもあの日、エリザベートがわからないといったあの叙述詩であった。
二人は急速に仲を深め、その間柄は冷めきった婚約を解消する噂がたつまでになっていく。二人の仲を嫉妬したエリザベートは、仲間たちやときには自分の手を汚してアイリーンに嫌がらせを行う。
エリザベートはシャルルにはばれていないと考えていたし、アイリーンもまたシャルルに心配をかけまいとそれを隠していた。
それが結実したのが、高等部二年の最後に行われた学祭の最後の舞踏会である。エリザベートはとても機嫌がよかった。シャルルが学祭をまわる相手を、アイリーンではなく自分にしたからだ。アイリーンの手回しで舞踏会の食事に平民街の料理が含まれていることは気になったが、それを推してもこの状況は悪くない。
そう思っていたのもつかの間。シャルルは踊りだす前に、エリザベートの手を握りしめた。それはそれは強い力でだ。エリザベートを逃がさんとするその手を、彼女は痛みをかんじながら、しかしそれが情熱であればと喜びに変えた。
シャルルがエリザベートをじっと見た。そして、アイリーンのことも。
「エリザベート。いや、エリザベート・デ・ルイス・コーネリウス。貴女の行いを看過することは、最早できまい」
エリザベートはしばらく、なにを言われているかわからなかった。
会場を見渡すと、自分の知っている人々がいた。
彼女を学園に入るときから守り続けていた騎士、シャルルの学友たち、アイリーン・ダルタニャン。
彼らはエリザベートを断罪し、エリザベートは婚約破棄を言い渡された。ひとつ、罪が告げられるたび、エリザベートはシャルルから逃げようともがいた。しかしシャルルは彼女を離さない。とうとうすべてを言い終え、離された手首にはくっきりと愛する人の手形がついている。
いまやその意味を持つとは言えまいが。
エリザベートは走り出した。これが現在。ガナッシュののっていたテーブルが倒れ、調度品の壺は割れる。そして――。
「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったのに!」
叫び声をあげるエリザベートが階段に差し掛かった時、彼女は正面の扉からはいってくる人物に眼をとめた。黒い強い意志を宿す男性と、彼女と同じ燃えるような髪を持つ女性。彼らを見た瞬間、エリザベートはつんのめってカーペットに躓き、階段を転がり落ちた。このさい、足から抜けていった彼女の靴がはるか天井のシャンデリアまで届き、入口から最も遠い装飾を欠けさせた。言うに及ばず。彼女自身は、階段を転がり落ち、最後の段に強く頭を打ち付け、命を落としたのである。
だが、これはそれほど意味を持たない。
なぜなら彼女自身の目から見たとき、事実は全く違っている。彼女自身が目にした光景は、反転、カーペット、痛み、天井、シャンデリアへ届く靴、カーペット、天井、自分を追ってきた何者か、両親、それから巨大な半透明の時計だった。
(――え? なに?)
彼女が前後不覚から奇々怪々へ陥るとき、なにもわからないまま彼女は時計の中へ吸い込まれ、大いなる回転に巻き込まれる。
そして、時間は巻き戻る。
もしそうであれば、意味がない。時間が巻き戻ったのであれば、ガナッシュなど。美味しいということ以外は、なんの意味もないのだ。
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