第16話原新田のクマとタマ
お市を伴って静岡に戻ると俺は義元のおっさんの所に会いに行った。
「お主の申す通り、越後で長尾景虎が軍を起こした。
狙いは坂東であろう。北条から兵を出すよう頼まれるかもしれん」
「景虎の所は家中の統制が取れているわけではないからな。揚北衆とか揚北衆とか」
阿賀野川北岸に盤踞している揚北衆は「鎌倉以来」のプライドが高くて守護だろうが守護代だろうが関係なく「うやまって」と思ってるからな。
「目障りな彼らを景虎がどうしたいのかは布陣でわかるというわけか」
「そういうことだ。義元のおっさん。
今のところ空手形ではあるが、景虎の鼻先に餌はぶら下げてある。
後は景虎の考え次第でどうとでもすればいい」
俺は義元のおっさんと事後の処理について話し合うと白薔薇騎士団の練兵場へと向かう。
練兵場では氏真が井伊谷の次郎法師と共に騎士団の訓練を看ていた。
挨拶もそこそこに俺は氏真らと騎士団の現状について話し合う。
「越後の虎が動いた」
「ああ、父上から聞いている。で、どうするんだ?」
「どう、とは?」
「坂東への援兵のことだ。北条家に助けいくさを頼まれるだろうが、騎士団を出すのか?」
団員の訓練を監督しながら氏真が小声で問う。
「まさか。
銃も弾薬も揃っていない上に訓練途中の部隊を戦場に投入するわけがなかろう。
初陣は派手な勝利で飾らんと騎士団の価値が高まらん」
「それを聞いてほっとしたわ」
そんな会話を聞きつけた若い団員の一人が俺に話しかける。
年の頃は十代前半の終わりくらいだろうか。
茶色がかった髪の頂点から疑問符状のアホ毛が生えているのが特徴的だった。
「オレたちもいくさに出るずら?」
「銃と馬と隊の練度が調ったらな。それまでは訓練漬けだ」
「それ聞いてほっとしたべ。
勝ち味の薄いいくさに出ても何の稼ぎにもならねぇだ」
「そういえばまだ名を聞いていなかったな。名は何と言う?」
「ん? オレか? オレは沼津の西の原っちゅうところから来た熊だ。 そんで今、そこで訓練してるのがオレの妹の玉だ」
指さされた方を見ると銃剣で素振りをしているショートカットの少女が目に入る。
猫のような眼をした活発そうな少女だった。
「熊、どうしてまた足軽になろうと思ったんだ?」
「いくさに出て槍働きすれば稼げるだ」
熊の答えを聞いて俺は思わず彼女を見てしまう。
「オレだけじゃなく他の村の女衆にも足軽になるやつはいるだ」
「怖くはないか」
「いんや。
野盗に村さ襲われて逃げ回るよりは槍持って戦えるだけいくさの方がマシだ。
いくさ場なら一緒に戦うやつが居るし死ぬときも一人じゃねぇ。
たった一人で野盗から逃げ回る方が怖ぇだ」
「そうか」
何の気負いもなくさらりと話す原の熊を見ていたら、ラビア王国の民のことが思い出された。
奴隷としての生よりも人間としての死を重んじるあたりが似通っているせいで特に重なって見えてしまう。
無駄死にはさせられないな……
熊の姿に俺はそう感じた。
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三国峠で景虎の本隊は停止した。
「彼らを先に行かせて良かったのですかな?」
同行する近衞前嗣が長尾景虎に問う。
「仕方あるまい」
軍議の際に乱取りを禁ずると命じた途端、会議が紛糾した。
略奪をアテにして出兵してきた諸将が抗議の声を上げる。
「飢饉の中を食い繋いでゆくためには食糧を持った者から殺してでも奪い取るしかない」と主張する配下の者たちの説得に窮した景虎は
自身の率いる本隊が進駐するまでの間のみ諸将の略奪に目を瞑ると決めた。
「うおおおおおおおおおおおっ」
この先の農村での略奪に胸躍らせた将兵たちが早い者勝ちとばかりに峠を駆け下りてゆく。
その姿を近衞前嗣は冷ややかな目で追っていった。
「景虎殿の指図に従わぬ者どもを先に行かせるとは考えましたな。
これで家中もすっきりと一つに纏まりましょう。
もしかしてそれが狙いですか?」
前嗣の問い掛けに景虎は無言で答える。
「ですがこの策は長尾殿らしくはありませんな。
誰ぞからの入れ知恵によるもので?」
毘沙門天からの指示であると素直に告げることも叶わず、景虎は己の軍勢から先行しようとする諸将の隊をただじっと静かに見送っていった。
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