7-9 教師として

 保健室のにおいはあまり好きではない。

 それでも足を運んだのは、麻奈美を見舞う以外に何もない。

 見舞う──それは少し違うのかもしれない。麻奈美は本当に辛そうにしていたし、芝原の授業から逃げたのも演技ではないと千秋が言っていた。

 傷つけた本人が顔を出すのは見舞うとは言わない。どちらかと言えばお詫びだ。

『麻奈美が泣くようなことは、絶対にしないでほしい。これだけは、頼む』

 いつか平太郎に言われた言葉を芝原は思い出した。

 麻奈美を泣かせるつもりはない。

 それでも泣いてしまうのは、本当のことを言っていないからだ。

 けれど本当のことを言ったところで、今更信じてもらえるだろうか。

 コンコン──

 ドアを開けると、席について書き物をしていた先生が顔を上げた。

「あら、芝原先生……やっぱり、あなたなんですね」

「やっぱり、って?」

「去年の文化祭の時のこと、私まだ覚えてます。倒れた川瀬さんを運んできてくれたの、先生でしたよね。今のあなた、あの時と同じ顔ですよ」

 言葉に詰まる芝原を見て、保健の先生は、ふふ、と笑った。

「私、用事がありますのでしばらく席を外します。誰か来ても先生じゃ対応できないと思いますので、鍵を掛けておいてくださいね」

「ああ、はい……」

 それじゃ、と手を振って出ていく先生に、芝原は本当の意図に気付いて頭を下げた。


「先生──何しに来たんですか」

 麻奈美はベッドに腰掛けていた。

「何って、様子を見に……隣、座っても良いか?」

「……どうぞ」

 近くに椅子がなかったので、ひとり分空けて隣に座った。

「もう、大丈夫なのか?」

「はい。体は元気ですよ、ずっと」

 麻奈美の言葉は普段より冷たかった。

 芝原のほうを見ようとせず、櫛で髪を梳いていた。

「先生、前にも聞いたんですけど」

 やはり麻奈美は芝原のほうを向こうとしない。

「本当に──私に嘘ついてないですか」

「ついてないよ。つく理由もないし」

「本当ですか? それも嘘じゃないですか?」

「教師が生徒に嘘ついてどうするんだ。第一、僕は──マスターから、麻奈美ちゃんを泣かせるなって何回も言われてる。言われなくてもそんなつもりないけど、麻奈美ちゃんは結局、泣いてしまってる」

「先生が、本当のことを言ってくれないからです。私なんか、先生から見たらまだまだ子供なんですよね。昔のことも、全然話してくれなかったし、先生の、好きな人だって……私に関係ないから、話してくれないんですよね。私を泣かすなって言われてるから、その人の話はしないんですよね。私のこと好きだって言ってたのも、それは──」

「麻奈美ちゃん以外に好きな人なんていないよ」

 予想していなかった言葉に、麻奈美は初めて芝原のほうを見た。

 驚いて何か言おうとした口は何も発することが出来ず、視線も芝原から外した。

「今のももちろん、嘘じゃない」

 恐る恐る麻奈美が振り返ると、芝原は真剣な顔をして麻奈美を見つめていた。

「う──うそ、ですよね」

「嘘じゃない。嘘だと思うなら、マスターに聞いてみると良い。進路指導の先生でも良い」

「でも、おじいちゃんは、そんなこと一度も……聞いても、知らないって」

 平太郎はいつも、麻奈美の質問には答えてくれなかった。

 知っていることでさえ、教えてくれなかった。

「知らなかったら、あんなにいつも目くじら立ててないよ。僕がちゃんと話したのは最近だけど、たぶん、気付いてたと思うよ」

「本当に……本当なんですか。嘘じゃなくて冗談って、言うんですよね」

「言わない。僕が好きなのは、麻奈美ちゃんしかいない」

「先生──」

「今は先生じゃない。麻奈美ちゃんのことを生徒と思ったこともない」

 芝原は麻奈美を強引に引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。

 麻奈美は思いっきり顔を埋められ、少し苦しくなった。

「先生……苦し……離して……!」

 それでも芝原は麻奈美を離さなかった。

「ずっと好きだった──五年間、ずっと。麻奈美ちゃんには何回も助けてもらって、本当に嬉しかった。僕のことも好きだって言ってくれて……でも、僕が黙ってたから麻奈美ちゃんは苦しんだかもしれない」

 芝原は言いながら、ようやく麻奈美を解放した。

「僕も苦しかったんだよ。ずっと言いたかった。やっと言えて……楽になったよ」

 本当に楽になったのか、芝原は急に笑顔になった。

 それでも麻奈美は笑えない。

「どうして、黙ってたんですか。先生になる前なら」

「どっちみち、ここの教師になるつもりだったから。ここの先生が厳しいのは麻奈美ちゃんも知ってるだろうし、僕も、それは守るつもりだったから」

「で、でも、今……」

 今の芝原の行動は、星城の教師として全く相応しくない。

「僕が言ったこと信じてないみたいだったから」

「だって、先生は、私のこと……生徒に変わりない、って……」

「そりゃ、他の生徒の前では教師として答えないといけないから」

「私、生徒ですよ。それにあのとき──お店で友達に、ダメだ、って言ってましたよね」

「ああ──あれは、彼女には出来ない、っていう意味だよ」

 やっぱり、彼女にはなれない──卒業しても変わらない──。

「今はどうすることも出来ないけど、気持ちは変わらないから。松田さんに聞かれたよ。麻奈美ちゃんを一人の女の子として見たことあるか、って。あの時は、何回もある、って答えたけど──」

 麻奈美は何も言わず、ただ芝原の言葉を待った。

「ずっとだよ。麻奈美ちゃんは生徒である以前に、僕にとって、大切な女の子。マスターに話を聞いてた頃から、ずっと気になってた。大夢で話すようになって、やっぱり気になって……なのに、全然応えられなくて、ごめん」

 謝ってから、芝原は麻奈美に向き直った。

「さっきも言ったけど、まだしばらくは、何も出来ない。だけど、もし、麻奈美ちゃんが待っててくれるなら、僕は──絶対、迎えに行く。そんなに遅くはならない」

「むか……、それは、先生が」

「先生じゃないよ、今は。僕は今、麻奈美ちゃんを彼女にすることしか頭にない」

「せ、芝原さん……本当に、信じて良いんですか?」

「だから、ずっと好きだったって──こら、何回も言わせるんじゃないよ」

 芝原は照れながらゲンコツで軽く麻奈美をつついた。右からつつくと左に逃げ、左から攻めると右に逃げた。

 何回も繰り返している間に、麻奈美は笑顔を取り戻した。

「もう、子供扱いしないでください」

「ははは。お互いさまだよ。……拗ねた顔も、可愛いな」

「──先生のバカ」

 言葉では怒りながら、麻奈美は芝原に寄り添った。もちろん彼は麻奈美を抱きしめた──さっきのような乱暴さはなく、まるで本当の恋人のように。

 いつになるかはわからないけど芝原は必ず麻奈美を迎えに来る。

 その日を夢見る少女が一人、その先を行く大人が一人。

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