3-5 枝先に揺れる

 大学の授業が終わってからいつもと違う方向に足を運ぶのは、病院にいる平太郎を見舞うためだった。軽い骨折だったのですぐに退院できるとは聞いているが、それでも芝原は病院へ通った。いつもお世話になっている人を、放ってはおけなかった。

「すまないね。君にまで心配かけて」

「いえ。心配させてください。それにここは、すぐに来れますから」

 大学と同じ敷地ではないが、附属病院なので割と近くにある。

「勉強はどうだ? 出来るのか?」

 平太郎のその問いに、芝原は一瞬、息を止めた。そしてすぐに吐き出して、口を開いた。

「あそこ以外では、落ち着いて勉強出来ません。家も、大学も、図書館は勉強禁止で……だから昨日、麻奈美ちゃんにお願いしたんです」

「何を? ……あそこを、使うのか」

「すみません、順番が逆になってしまいました」

「いや──構わんよ。そうなるだろうと思っていたからね」

 入院して大夢を閉めることになったとき、平太郎が最初に気になったのが芝原の勉強場所だった。大夢をオープンさせたのは自分の趣味でもあるが、芝原に勉強場所を提供するためでもあった。

「君にも店の鍵を渡そうと思ってたんだが」

「──そんなことできません!」

「そう言うと思って、渡さなかったんだよ」

 平太郎は引き出しに手を伸ばし、中から鍵を取り出した。

「麻奈美が学校へ行ってる間はどうするんだ?」

「僕も大学があるし、少しくらいなら時間は潰せます」

「本当に良いんだな?」

 平太郎は芝原に鍵を見せたが、彼は受け取ろうとはしなかった。

「昨日、麻奈美の友達が来てくれてね」

 鍵を引き出しに戻してから、平太郎は芝原のほうを向いた。

「修二君と、女の子が二人だったかな」

「しゅうじ君……?」

「ああ、中学から麻奈美と一緒でね。麻奈美を追って星城に入ったらしいよ」

「へぇ……」

「まぁ、麻奈美は修二君には興味ないらしいけどね」

 珍しく芝原は平太郎への返事をなかなか思いつかなかった。麻奈美の学校での生活を想像し、修二という人物の影を浮かべた。

 麻奈美が共学に通っている以上、それは不思議ではなかった。

「私が教師だった頃の話になってね」

 平太郎は、芝原とは違うことを考えていたらしい。

「なに、君のことは言ってないよ。星城は授業は難しいし、いつも宿題が多いっていう話でね。麻奈美があそこに合格したのはほとんど奇跡だったよ。だから本当は、店の手伝いをする時間があれば、勉強してもらいたいんだけどねぇ……」

「浅岡が、麻奈美ちゃんは成績が伸びたって言ってましたよ」

「ははは。そうだな」

「偉いと思いますよ。お店の手伝いもタダでやってるし」

「君だったら、そうだな……三日で辞めるかな。そもそも無償でとは言わないな」

 ははは、と平太郎は笑った。

「──当時の僕なら、そうですね。もちろん、今はちゃんと働きますよ」

「わかってるよ、君には随分、世話になってる。どういう風の吹きまわしだろうねぇ……こんな時が来るなんて、知ってたか?」

「いえ。僕も、ビックリしてます。本当に、感謝しています」

「……麻奈美にか? 麻奈美は、君を知らなかったんだけどな」

 芝原が麻奈美の存在を知ったのは、高校三年の春だった。当時、麻奈美は中学校に入ったばかりで、平太郎がよく小学生時代の麻奈美のことを生徒たちに話していた。

「麻奈美は自慢の孫だよ。男の子にも人気みたいでねぇ……修二君なんか、何回もふられてるらしいよ」

「……何回も?」

「ああ。麻奈美は言わないけど、友達が教えてくれてね。修二君はしょっちゅう麻奈美を誘ってるのに……こないだも、自分の誕生日も忘れてお店に来たそうだよ」

 平太郎が言うのは、麻奈美の誕生日パーティーのことだった。店の飾りつけを見るまで麻奈美は誕生日を忘れていたし、片付けもすると言ってきかなかった。麻奈美を家まで送ってから芝原が店に戻った後、平太郎は片づけをしながら台の上でバランスを崩した。

「あのときも、君に助けられたな」

 平太郎は申し訳なさそうに溜息をついた。包帯で巻かれた右足を静かに見つめた。

「麻奈美にはまだ──言ってないんだな?」

「はい……やっぱり、言えません。昨日、言おうとしたんですけど……ダメでした。言い方が悪かったのかもしれないですけど、麻奈美ちゃん、僕の素性を知らなくても怖くないって、笑ってました」

「ふぅん。そうか」

 そう言ってから平太郎は窓の外を見た。枝の先についていた葉が、風に吹かれてどこかへ飛んだ。

「わかってると思うが……強くならないと、どうなっても知らんぞ」

「──はい。わかってます」

「卒業式のときの写真を麻奈美が見てたよ。君とのことを聞かれた──助けてやって欲しいとだけ言っておいたよ」

 けれど麻奈美は、芝原の何を助けるのかは全く分かっていない。麻奈美が芝原の過去を知ったときどういう反応をするのかを、芝原は想像したくなかった。

 今のように話してはくれないかもしれない。

 話さないどころか、避けられるかもしれない。

 避けて──敵になるかもしれない。

「大切なのは、君がどういう態度をとるかだよ。麻奈美だけにじゃない、みんなにな。麻奈美は君の味方になるだろうと私は思うが……。甘くは見るなよ。自分が通ってた学校のことくらい、わかるだろう。PTAの目が光ってるからな」

「僕が──行く前に、言っとくべきですか?」

「いや。わからん。それに、言えと言われてすぐに言えるのか? 成り行きに任せればいいだろう。まぁ……準備は万全にな」

 芝原は何も答えなかった。膝に乗せた両方の拳を、無意識にぎゅっと握った。

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