第12話 謎の井戸


 その人物は、明るい昼間だというのに頭からすっぽりフードをかぶっていて、人目を避けるように顔を伏せていた。そのいかにも怪しげな風体で、せかせかと歩いている。


 距離を置いてこっそり観察していると、その不審者は立派な木がある廃屋の塀の前で足を止めた。そこは塀が壊れて、人がかろうじて通れるほどの隙間ができていた。

 これはあやしい。

 そう思いながら見ていると、不審者はキョロキョロと周囲を確かめてから、するりと隙間から中へと入っていった。


 ……すごく怪しいな。

 思いっきり怪しすぎて、好奇心が私を駆り立てる。こっそりと足を忍ばせ、気配を殺し、生まれ育った領地で得た全技術を駆使して、私は不審者の後を追って中に忍び込んだ。



 壊れた塀の中は、予想通りの光景が広がっていた。

 雑草が生い茂っている一方で、鬱蒼と茂りすぎた木々の下では日光が完全に遮られてしまって、ほとんど何も生えていない。

 不審者に驚いて飛び立った小鳥たちは、気配を殺している私には気付いていないようで、のんびり地表に降りたり小枝を飛び回ったりしている。

 この小鳥たちのくつろぎ方、やはりここには人が住んでいないようだ。


 そろりそろりと進むうちに、さっきの不審者がを見つけた。フードを深くかぶったまま、古い井戸を覗き込むように立っている。


 あの人、何をしているんだろう。

 無性に気になって、こっそりと雑草の中を移動して、よく見える位置まで回り込んだ。

 どうやら井戸に向けて何か言っているらしい。でも、私には何も聞こえない。


 おかしい。

 あの口の動かし方、それに大きく息をつくような肩の動き。

 どう考えても「叫んでいる」ように見える。なのに、かなり近づいているのに何も聞こえなかった。

 何気なく周りを見ると、不審者の近くでは小鳥が砂浴びをしていた。やはり私だけが聞こえないわけでもないようだ。


 しばらくして、不審者はくるりと井戸に背を向けた。

 不思議なことに、最初に見かけた時の怪しさ全開の雰囲気が消えていた。フードを被ったままの胡散臭い姿なのに、何だか清々しさすら感じる。

 口元が微笑んでいるせいだろうか。

 まるで……そう、まるで全ての怨みつらみを放出し切ったかのような、そんな爽やかさだ。


 明るい雰囲気になった不審者は、軽やかな足取りで塀の方へと戻っていった。そのまま外に出るようだ。

 でも、今度は後を追わなかった。



 あの不審者のことは、もうどうでもいい。

 今の、興味の対象は井戸だ。

 どうみても叫んでいたのに、何も聞こえなかった井戸。

 ……ストレスが消え去ったようなあの足取りを見て、私はピンときた。それを確かめなければ。主に好奇心のために!


 まず、そっと井戸に近寄いてみた。近くから見ても、井戸はごく平凡な井戸にしか見えなかった。

 本来は蓋がついていたみたいだけど、木の板が朽ちてしまって、閉まっているのは半分以下の状態になっている。

 子供が遊びに来る場所ならとても危険だ。ここは滅多に人が来ないようだけど、ぽっかりと暗い空間が深々と続いていた。

 底まで見えない。井戸にしては深すぎる。怪しい。


 私は小石を拾って井戸の内壁を狙って投げてみた。

 小石は狙い通りに壁に当たって落ちていく。でも、何も音はしない。

 次に、手を叩いてみた。まずは井戸の内部に身を乗り出して。次は井戸の石積みの枠の上で。さらに一歩離れた場所で。


 井戸から一歩離れて、ようやく手を叩く音が聞こえた。

 それまでは、手のひらがピリリと痛むほど叩いているのに、全く音がしなかった。


「……ふむ。つまりこれは、音を吸い込む井戸なのかな?」


 私は気取った姿勢で呟くと、にやりと笑った。

 早速、井戸に向けて思いっきり叫んだ。「あー!」とか「ヤッホー!」とか叫んだはずなのに、私の耳には何も聞こえない。

 振り返ると、ちょうど通りかかった猫がのんびりと歩いていた。

 私が大きな声を出して、動物があんなにのほほんとしているなんてあり得ない。領地にいた頃は、声だけでうさぎを狩るとまで言われた私だからね!


 ふふふ。実にいいものを見つけてしまった。

 この不思議な井戸、最大限に活用させてもらいましょう!


『……クズは滅びろっ!』


 井戸の奥に向けて思いっきり叫んだ。


『二十四歳のいい大人のくせに、十六歳の小娘の手に触って喜ぶなぁぁぁっ!』

 

 腹の底から叫んでいるのに、何も聞こえない。

 ああ、なんて素晴らしい! 私のためにあるようなストレス解消場所です!

 さらにクズ男への不平不満を叫びながら、私は喜びに浸っていた。

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