第9話 雲行きがあやしい


 通りすがりのボルドー伯爵様が言っていたように、ゼンフィール侯爵家の庭は想像していたよりすごかった。

 木は高くて枝は広く伸びている。芝生は滑らかで、花壇の花は完璧な色の配置。普段、芸術的なものに興味を持たない私ですら、なんて美しい光景だろうと見惚れてしまう。

 このお屋敷の木、とっても登り甲斐がありそう。

 そのうち、こっそり登らせてもらおうかな……などと考えた時に、視界の端に何か見えた気がしてそちらを向く。

 庭の端、涼しげに灌木が枝を伸ばしているその根本に、黒いものが見えた。じっと見ていると、ひょいと頭を上げて私を見た気がした。

 犬だ。

 それも大型の猟犬のような大きさで、大きな耳はぴんと立っている。遠目にもしなやかな体型で、さらりとした毛は長いようだ。

 都会の美しい貴族邸宅の庭で猟犬を放し飼いにするとは思えないから、あれは愛玩犬のふりをした番犬だろう。

 ……無断の木登りはやめた方がよさそうだ。

 私は少しがっかりした。


 でも落胆は長くは続かない。

 だって、用意されていたたお菓子が素晴らしいからっ!

 美味しそうなのは当たり前で、花とか動物とか、そういう可愛らしい形をしていた。食べてしまうのが惜しいくらい。ま、私はうっとり見惚れた後に、パクパクと食べましたけど。

 お茶は香りが良くて、ちょっとお子様な味覚な私でも美味しく感じていた。

 こんな天国のような場所があるなんて……きれいな格好をしてお上品に過ごす時間も悪くないなと、いきなり迷子になって凹みかけていた私は、少しどころではなく浮かれていた。


 ……つい先程まで、自分でも笑ってしまうほど浮かれていたんだけど。

 今、なんとなく首を傾げたい気分になっている。



「そのお菓子、気に入ったかな? 多分このお菓子も気に入ってくれると思うんだけど、どうだろう」


 そう言って笑いかけてくれるセレイス様は、あいかわらず優しい。

 お皿にどんどんお菓子を載せてくれる。

 でも、つまりずっと私の隣に座っているってことで、私の相手しかしていない気がする。

 それでいいの?

 本来のお相手であるオクタヴィアお姉様は、ゼンフィール侯爵様と難しそうな話をしていた。もちろん私はその話に入れないから、一人ぼっちにならないようにセレイス様が相手をしてくれているのだと思う。


 でも、セレイス様は何が楽しいのかニコニコしている。

 お菓子はとても美味しいし、遠くの皿に盛られたものに手を伸ばすのもどうかと思うので、セレイス様がどんどん乗せてくれるのは嬉しい。でも、ずっと私の相手をしていていいのかなぁ?と少し思い始めているところで。

 それでも食欲に負けてモグモグと食べていると、セレイス様がふわっと笑った。


「リリーはとても美味しそうに食べるね。かわいいな」

「そ、そうですか?」


 気の利いた会話ができなくて、つい食に走ってしまっているだけなんだけど。これが領地の屋敷なら、メイドたちから小言の一つや二つもらっている。

 それをいいように解釈してくれるなんて、優しい人だなぁ……。


「本当にかわいい。……素晴らしい女神様だ」


 ……ん?

 耳がおかしいのかな。

 今、変な言葉が聞こえた気がする。


「ねえ、リリー・アレナ。僕は君に会って、やっと呼吸を始めたような気がするよ」

「……え?」

「君との出会いは本当に衝撃的だった。まさかこの世に君のような存在がいたなんて、信じられなかったよ。……会えなかった三日間、僕は気が狂いそうだった。でもそんな苦しみ、君を見ていると忘れてしまうんだ」


 ……セレイス様は何を言おうとしているんだろう。

 私を見つめるセレイス様の目が、何だか怖い。


「さっき、君の手を握っているボルドー伯爵を見て……あの男を殺してやりたいと思ったよ」


 へ、へぇ……。

 それは、ずいぶんとまた物騒なお話で。というか今のも冗談、なんですよね? 王都の貴族様の冗談は高度でちょっとドキドキしますねっ!

 ……そう思いたいのに、じわりと冷や汗を感じる。

 なんというか……真っ黒な目だけがギラギラと輝いている。それに、なぜそんなに熱い吐息を漏らしているんだろう。とても……とても嫌な感じがする。


 ほのかに動揺しながら、私はお茶を飲もうとする。

 でもカップは空になっていて、壁際に控えていたメイドさんが優しく注ぎ足してくれた。

 ……そう、すぐ近くにメイドが控えている。なのに、お姉様の婚約者である人が、うっとりと私を見つめている。いやいや、おかしいよね!?


「今日再会して、改めて思い知ったよ。君は美しい。この世の女神だ。……君が望むなら、今すぐ君の前に平伏してもいい」


 ……やっぱり私の耳がおかしくなっているっ?

 もしかして、旅の途中で呪いをかけられていたのかな! うん、きっとそうた、そうに違いないっ!

 そうでなければ、オクタヴィアお姉様の妹である私が、こんな言葉を聞くはずがないよねぇっ?!


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