日下部美月の苦悩(前編)


 私の名前は日下部美月。『裏世界』ではルーナプレイナ・アスモデウスと名乗っていた上級悪魔である。

 悪魔軍の幹部である私は、『表世界』の人間を滅亡に追いやるために送り込まれた。

 しかし、上級悪魔である私に敵などいない。そう思って意気揚々と乗り込んできたはずなのに……『表世界』にたどり着いてすぐに命の危機に陥ることになった。


 私が降り立った場所は深い山中であり、まるで人気のない場所だったのだ。裏世界から出てくる場所は選べない。

 裏世界の悪魔は魂の身の存在であり、肉体を持っていない。そのため、表世界では人間の身体に憑依しなくては存在を保つことができないのだ。

 魂のまま彷徨っていれば、1時間と経たずに消滅してしまう。すぐにでも人間を見つけ出して憑依する必要があった。


 魂だけの状態で必死になって山中を飛び回るも、器となる肉体はいっこうに見つからない。力の弱い悪魔であれば動植物にも憑依できるが、私のような上位悪魔は人間でなくては器にすることができなかった。

 このままでは消滅してしまう。悪魔軍でも10本の指に入る実力者の私が、こんな間抜けな死に方をしてしまうなど誰が思っただろう。

 私は嘆き、悲しみ、絶望し……それでも最後まであきらめることなく器を探した。


 そうして、あと少しで消滅するというところでようやく見つけたのが『日下部美月』である。美月は崖下に倒れており、すでに魂は肉体から離脱して仮死状態となっていた。

 一緒に両親の死体もあったのだが、こちらは損傷が激しくて器にすることはできない。消滅を免れるためには、美月の身体に憑依するしかなかった。


 やむを得ず『日下部美月』となった私であったが……それからは苦労の連続だった。

 魂が消滅しかけたことで悪魔の力の源である『邪力』が底をついている。回復には何年もかかるだろう。

 おまけに肉体が弱すぎる。5歳児の身体では人類を滅ぼすどころか、野良猫にだって返り討ちに遭ってしまう。

 私は仕方がなしにタダの子供を演じることになったのである。


『大丈夫よ、美月。お姉ちゃんが一緒にいてあげるからね?』


『ほら、美月。一緒に散歩に行こっ!』


『今日は私が面倒見てあげるわ。そんなに不安そうな顔をしないでよ!』


 美月には3人の姉がいた。

 悪魔の目から見ても器量良しで、将来的には男が放っておかないであろう容姿の娘達である。


 彼女達は必要以上に美月に構ってきて、頼んでもいないのに遊びに誘ったり、面倒を見ようとする。

 それはきっと、悪魔になったことで白くなった髪や赤くなった瞳を意識してのことなのだろう。

 本質を見抜くことなく勘違いをして、本当に愚かな人間共である。


 だが……そんなことを思っていられたのは1年ほどだった。

 私は自分の意思とは無関係に世話を焼こうとする姉達に、次第に絆されてしまったのである。

 3人の姉は自分達も両親を失っているというのに、美月の前では決して涙を見せようとはしなかった。末の妹を心配させまいと、美月はもっと辛いのだからと、涙を堪えて隠れて泣いている。

 そんな姉達を見ているうちに……本当に人間は滅びるべき存在なのか、疑わしくなってしまったのだ。


 悪魔には家族はいない。愛情という概念もない。

 私達が持っているのは力の大小による優劣のみ。強い者が上に立って支配し、弱い者は隷属する――ただそれだけが悪魔にとっての人間関係だった。

 それ故に弱い人間ばかりの表世界を侵略することにしたのだが……人間は確かに弱かったが、悪魔が決して持っていない温かな絆を有している。


『日下部美月』として生きているうちに、私は愛情も友情も持っていない悪魔がつまらないものであるように感じられ、人間を滅ぼすことに否定的になってしまったのだ。


『私は悪魔であることを捨ててもいいのではないかしら? 悪魔をやめて、人として生きていったほうが幸せなのではないかしら?』


 そんな迷いを抱くことが、すでに革命だった。

 表世界への侵略は最高位悪魔の意思。それに背いて、自分の『幸福』などというものを優先させるなど、悪魔としてはあり得ないことである。


 そうして悪魔としての存在理由が揺らいでいく私だったが……日下部家の姉達への愛情を抱くにつれて、疎外感に苛まれるようになっていった。


『私はしょせん偽物じゃない。本物の日下部美月ではないわ』


 3人の姉が愛しているのはあくまでも『日下部美月』である。私ではない。

 私は本物の美月の居場所を奪って、ここに立っているマガイモノなのだ。


 姉を愛するほどにかえって孤独を感じさせられる。

 いったい、いつまでこんな絶望が続くというのだろう。


 身体も育ち、邪力だって戻ってきた。

 いっそのこと、このまま日下部家から出奔して1人で生きていった方がマシなのではないか?

 私がそんなことを考えていた時……その少年は現れた。


『君が美月ちゃんか。僕のことはお兄ちゃんだと思ってくれていいよ!』


 八雲勇治。当時12歳。

 後に『お兄様』と呼んで恋い慕うことになる唯一無二の男子との邂逅であった。

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