第二十九話 役はない
その日、迎えにきたウィリアムが家の玄関を開けた途端、ローズはすぐさま父親の足へとしがみついた。
「どうした? ローズ」
呼びかけられても何も言わず、ただぐりぐりと小さく丸い頭を抱えた足に押しつけている。ウィリアムは、眠くてぐずっているだけだと思ったようだった。でも本当のところは、今日あった恐ろしい出来事を父親に話すことが出来ずに苦しかったのだろう。恐ろしかった、悲しかった、傷ついて、傷つけてしまった。それら全てがローズの小さな体の中に押し込められ、吐き出す術がない。どうにか父親に伝わってほしいと思うのに、しかしその苦しみを察してもらえる筈もない。家に着くまで我慢しなさい、と言われてしまっているのが、イーサンには少し哀れに思えた。
「今日もありがとう、イーサン。何か問題はあったかな?」
「いいや、何も」
いつものように、白々とそう嘘をつく。躊躇いもなく、ローズに不満げな目を向けられても、微塵も心が揺らぐ事はない。
どうしてかその事が、今日に限っては奇妙に思えるのだった。自分はなんて奇妙な男なのだろう、愛想の良い笑みを顔に貼り付けたまま、イーサンはそんな事を思う。
「……ねぇパパ、今日は一緒のベッドで寝てもいい?」
ローズが甘えた声で父親に言う。
「どうしたんだ? 今日のローズは赤ちゃんみたいだなぁ」
ウィリアムのその返事に、ローズはしょんぼりとする。その顔にほだされた父親の様子が、イーサンからは丸見えだった。へにゃりとウィリアムの顔がとろける。
「いいよ。今日は一緒のベッドで寝ようか」
しょうがないなぁなんて言いながら、実際は甘えてもらえるのが嬉しくて仕方がない。わざわざ膝を付いて小さなローズを抱きしめるほどだったので、そんな事は確認するまでもなくすぐに分かった。その光景があまりに幸福で、あまりに辛かった。
どうして今日に限ってこんな事を思うのか、イーサンは自分が奇妙に思えて仕方がなかった。ローズが父親に甘えるのも、父親がローズに甘いのも、いつもの事なのに。
なのに今日に限って感じるこの感情は、一体何なのだろうか?
「妬けちゃうね」
冗談のようにそう吐き出せば、ウィリアムが、いいだろう?と謎に誇らしげな顔を向けてくる。イーサンはそれに、ただ笑い返した。
「それじゃ、イーサン。また明日」
「イーサン、またね」
「……あぁ」
階段の上から、親子が下りていく姿を見送る。その姿がどうしてか、自分を置いていった母親の後ろ姿に重なって見えて仕方なかった。
どうしてそんな事を思うのか、イーサンには分からなかった。分からなかったが、彼らとの間に何か高い壁のようなものを感じて、それがどうにも奇妙に思えてしまうのだ。奇妙で、不可解で、そして不快な壁だった。
イーサンが家に戻らない事を不思議に思ったのか、ローズがふいに階段の途中で足を止める。彼がまだそこにいる事に気付くと、父親の手を離して一人、上階へと戻ってきた。くりくりとした緑の目で顔を見上げ、そして首を傾げる。
「イーサン、どうしたの? 元気ないわ」
僕にも分からないんだ、心の中でそう言って、イーサンはまたいつもの余裕の笑みを顔に貼りつけ、軽い調子でこう言った。
「さっきの、僕にはしてくれないの?」
さっきの?とローズがさらに首を傾げる。少ししてはっと気づくと、ローズはぐいとイーサンの袖を引いた。
「しゃがんで」
冗談のつもりで言ったのに、本気にされてしまった。言われたとおり、イーサンはその場に膝をつく。
「ぎゅー!」
小さな腕が首にしがみついてきて、めいっぱいの力でハグをされた。ごまかしで言っただけのつもりだったのに、その瞬間、イーサンの胸にはぐらぐらと熱い何かがこみ上げてきて、思わずその小さな体を強く抱きしめ返してしまった。その後も何故だか離れがたく、なかなか離してあげられなかった。
腕の中でくぐもった声を上げ始めたので、イーサンはようやくして腕の力を緩める。ぷりぷりと怒る女の子の顔を予想していたが、腕の中から抜け出した彼女と目が合うと、彼女はじっとイーサンの顔を見つめていた。
「……苦しいの?」
緑の瞳が不思議そうに見つめているのを、イーサンはただ笑顔を浮かべて返した。
「君のおかげで、少し楽になったよ」
おやすみ、とローズの背を押し送りだす。ローズは何度もイーサンの方を振り返っていたが、やがて父親に連れられ自分の家へと帰っていった。
ガチャン、と階下の扉が閉まる音がする。
「可哀想なイーサン」
イーサンは背後を振り返る。自分の家の扉前に、マーリンが立っていた。
「家族ごっこは楽しい?」
魔女は意地の悪い笑顔を浮かべている。
「家族の一員になれるかも、なんて、そんな勘違いをしては駄目よ? あなたにはそんな役、与えられていないもの。何になれるっていうの? ねぇ、そうでしょ?」
勘違いしては駄目よ、魔女はそう繰り返す。
「あなたはあの輪の中には入れてもらえないの。どんな役だって当てはまらないもの。仲間には入れないの、絶対」
「……そんな嫌がらせを言うために、わざわざ出てきたのか?」
魔女はただにっこり笑うだけ。くるりと踵を返し、家の中へと戻っていく。
ガチャンと扉が閉じると、イーサンは一人、階段上に立ちつくしていた。
「……言われなくても、分かってるさ」
ぽつりとした呟きが、階下に向かって落ちていった。
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