第六話 破れない約束
夕飯時、ローズは今日あった出来事についてウィリアムになんとか話をしようと試みた。でも、どうしてだかそれは上手くいかなかった。
「ローズ、悪いがもう一回言ってくれるか?」
「だから、上の階に住んでるあの人たちは――!」
そこまで言った途端、ローズの上唇と下唇はばちりと合わさってしまう。その悔しさから顔を歪めたのを舌でも噛んだと思ったのか、ゆっくり食べなさい、とウィリアムが嗜めた。ローズはどうにかあの家で見た事や、父親の身に起こったが彼が忘れてしまった事を説明しようとしたが、そうする度に口が勢いよく閉じてしまうのだった。一度なんて舌が外に出たままそうなってしまい、なんて顔をするんだ!と怒られてしまった。
「もういい、黙って食べなさい」
しまいにはそう怒られ、ウィリアムは聞く耳を持たなくなった。そうなると、ローズは黙ってサーモンのソテーをちみちみと口に運ぶしかない。骨が多くて食べづらかった。
きっと、あの家にいた時に、余計な事を話したりしないようイーサンがおかしなまじないをかけたのだ。一体どうすればウィリアムに真実を伝えられるのだろうか……。
「そうだ、ローズ。明日ラウラに会いに行くからな」
「……え!?」
ウィリアムの提案に、ローズは勢いよく顔を上げる。ラウラとはローズが追い出したベビーシッターの事だ。
「ラウラを傷つけたんだ。当たり前だろう?」
「ちょっと切っただけよ!」
「前髪をばっさり、はちょっとなのか? イーサンの話じゃ反省してるって事だったが、あれは嘘か?」
しまった。ウィリアムは事の真相についてよく知っているようだ。せっかくイーサンの説明で父親からの雷が落ちるのを避けられたのに、余計な事を言ってしまった。結局そこから数十分、みっちり怒られる羽目になった。
「ローズ、明日はそんな態度でいないでくれよ? きちんと彼女に謝るんだ。いいな?」
次の日、ローズはウィリアムに連れられ、ラウラの勤務先の駐車場で会う事になった。昨日ぶりにあった彼女はばっさりと髪を切り、おでこが丸見えになるほどの短髪になっている。ベビーシッターは複雑な顔で、自分の目の前に立った小さな女の子を見下ろした。ローズは駐車場の隅にある草むらに目を向け、何か面白い、気の紛れる物がないだろうかと見渡した。
「ローズ」
父親が後ろからせっついてきて言葉を促したので、ローズはちらちらと相手の顔色を窺った。
「……みじかい方がにあってるわ」
「ローズ!」
ラウラが顔を引きつらせる。ウィリアムに強く肩を掴まれた。思った事を言っただけなのに、大人とは難しい生きものだ。
「また伸ばすつもりよ」
威圧を込めて放たれた相手の言葉に、ローズはまた目を逸らす。……ならいいじゃないか。
そんな態度が表に出ていたのか、ウィリアムは娘に代わって慌てて謝罪の言葉を口にした。
「本当にすみませんでした。美容院代はこちらで支払いますので」
「いえ、どうぞお構いなく。子どものした事ですから」
ラウラは大人らしく、顔に薄い膜を一枚貼りつけたみたいに冷静な態度でそう言った。それでもどこかしら、怒りの表情がにじみ出ているような気がする。
「ただ、もうこの子の面倒を見ることは出来ません。私にはとても難しい子です」
「それは、はい……」
その言葉にウィリアムは項垂れたが、ローズは正直ほっとしていた。彼女とはどうも馬が合わないような気がしていたし、これからも顔を合わさないといけないとなると、やはり気まずいものがある。
「この子も、私の事を嫌ってると思いますし」
「……きらいじゃないわ」
ラウラとウィリアムは、揃ってローズを見下ろした。
「ただちょっぴり、悲しかっただけよ。わたしはパパもママも大好きよ。ママのことは全然おぼえてないけど、パパの聞かせてくれるママが好き。……ママのかわりなんていらないわ。パパがいてくれれば、それでいいの」
「……そうだったのね」
ラウラは座りこみ、ローズに目線を合わせてくれた。
「あなたの気持ちを知らずに、勝手な事してごめんなさい」
「ううん、わたしも髪を切ることなかったわ。本当にごめんなさい……」
「もういいのよ」
ローズがちらりと相手の顔を窺うと、もう彼女の面に張り付いていた薄い膜はどこかに消え去っていた。ローズは上目遣いでラウラを見やり、とびきり愛想の良い顔をしてにっと笑う。
「あと、やっぱりみじかいのにあうと思うわ」
「ふふ、ありがとう」
そうして、二人は握手をしてお別れした。
アパートに帰ってくると、ウィリアムは階段を上りながら溜息をついていた。足に鎖と鉄球でも付けられたように、足取り重く、意気消沈した様子で肩を落として階段を上っている。
「ラウラには断られたし、他のベビーシッターを探すにも時間がかかるし、明日からどうしよう……」
「だいじょうぶよ、パパ。わたし一人でだってちゃんとおるす番できるわ!」
しかしウィリアムはげっそりとした顔でローズを見つめるだけだった。
「やぁ、おかえり」
ふいに頭上から声がして目を向けると、上階に続く階段の途中に、今日も黒いスーツを着込んだイーサンがいた。皺一つないツヤツヤのスーツに細身のネクタイを締め、背筋は一本芯が通ったように真っ直ぐに、しかし優雅な足取りで階段を降りてくる。ただのボロアパートの階段が、舞踏会の社交場か何かのように見えた。
ローズは上階の男を警戒し、父親の足下へと隠れる。
「随分と暗い顔をしているようだけど、大丈夫?」
「あぁ、いや、実はローズの次のベビーシッターが決まってなくてね。明日も会社を休まないとと思って……」
「それは大変だね」
イーサンは長い指を細い顎に沿わせて一撫ですると、唇の両端をゆるりと上げて微笑んだ。
「良ければ、うちでローズを預かろうか?」
「え?」
「昨日の話じゃ、女性のベビーシッターは嫌がるんじゃないかな? その点うちなら男ばかりだし、毎日誰かしらは家にいるから。もちろん、君とローズがいいならだけど」
ローズはすぐさま、そいつは悪い魔法使いよ!と叫ぼうとしたが、あいにく口が開かなかった。あぁ、なんて忌々しい! 悔しさに頬の内側を噛むしかない。
「いや、でも……本当に? 俺としては助かるけど、でも、この子は本当にお転婆で……」
「あぁ、皆子どもの世話は慣れてるから大丈夫だよ。言う事を聞かせる方法は心得てる」
腹も黒い魔法使いがにっこり笑って見下ろしてくるので、ローズはぞっとした。
イーサンは胸元から名刺を取り出すと、それをウィリアムに手渡した。それを見たウィリアムは明るい声を上げる。
「イーサンは学者なのか、すごいな! 専攻は何を?」
「精神分析が主だね。人の心が僕らの研究対象なんだ」
「他の二人も研究を?」
「あぁ、二人とも同業者だよ。それぞれに協力しあう事で都合のいい事も多くてね。ルームシェアしてるんだ」
「はー、立派だなぁ」
ローズは嫌な予感がした。一見して、イーサンは人を信頼させるに足る見た目をしている。端正の取れた背格好、のりの効いたスーツ、胸元もきっちりと締められてネクタイはきゅっと合わさったベストの中へ。スラックスは彼の長い足の流れに沿って完璧な曲線を描き、黒い革靴には一点の曇りもない。長い黒髪は常に完璧な配置で顔の輪郭を縁取っていて、きりりと涼しいヘーゼルの瞳は、しかし笑うと子犬のように愛嬌のある顔になる。
そして彼の内面についてもいっぱしの人間である事が今、証明されたわけだ。博学で、人の心の機微にも精通しており、しかも子どもの世話も得意。問題行動を起こしがちな娘を預けるのには申し分ない。そんな父親の心の声が、ローズには手に取るように分かった。
しかしウィリアムも社会の荒波に揉まれてきたいっぱしの大人の一人でもある。そうそう早計な決定をして、自分や自分の家族に被害が及ぶようなヘマはしない。何か都合の悪い事実を隠していないか、もっと情報を引き出す必要があると思ったようだった。
ウィリアムは自分の胸ポケットへと名刺をしまった。
「でも本当に大丈夫か? 小さい子が家にいると、君らの研究の邪魔になるんじゃないかな?」
「そんな事はないよ。昨日少しだけどローズと話してみて、とても利発で面白い子だと思ってね。僕らとしても、彼女に僕らの研究の手助けをしてもらえないかと思ってるんだ」
「ローズが君らの手伝いを?」
「あぁ、昨日もローズがいてくれてとても助かったんだよ。彼女の方も、僕らの研究の手伝いをしてくれるって約束をしてくれたしね」
ね?とイーサンがにっこり笑うのだが、当然、ローズはあの家であった出来事について何も話せやしないのだった。
「そうだったのか……」
「ローズとしても僕らの研究にとても興味を持っていたようだし、何か教えられる事もあるかもしれないよ」
「へぇ」
その言葉に、ウィリアムは感心したように娘を見下ろした。
「ただその、タダという訳にはいかないだろう? 学者の先生たちを雇うのに、どれだけかかるものなのかな?」
美形な男相手にどこまで通用するものか分からないが、ウィリアムがめいっぱいの愛嬌を顔に浮かべて尋ねると、イーサンはその疑問をさらりと吹き飛ばしてしまった。
「お金はいらないよ」
「いやいや、さすがにそんな訳にはいかないだろう!」
「金銭の授受で君の信用が買えるなら受け取ってもいいが、僕らとしては本当にいいよ。さっきも言ったけど、ローズには僕らの研究の手伝いもしてもらいたいからね。それに、これは自慢のように思わないで貰いたいんだけど、僕らが生活するのに足る実入りは他にきちんとあるから、どうか心配しないで」
「いやでも、さすがにタダというわけには……」
「対価はきちんと貰っているよ? ローズや君と過ごす時間を貰えるのは、君が思ってる以上に僕らにとって価値があるものなんだ」
ね?と笑顔を浮かべるイーサンの顔は、ウィリアムのなけなしの愛嬌など霞んでしまうほど眩しかった。ご機嫌に尻尾をふる犬の前からご褒美を取り上げてしまえる人間が、世界で一体どれだけいる事だろう。案の定、ウィリアムもご褒美を取り上げられない内の一人だった。
「本当に、いいのかな……? 君らの厚意に甘えさせてもらって……」
「もちろんだよ。どうしてもと言うなら、今度コーヒーでも奢ってくれ」
「……じゃあ、お願いするよ! いやぁ、今月に入ってもう三人もベビーシッターが変わってたものだから、本当に助かる!」
「ご近所だろう? 困った時には助け合わないとね」
こうして休日を除き、ウィリアムが出勤する朝九時から、仕事が終わって帰宅する十八時までの間、ローズはイーサンの家に預けられる事になった。
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