第四話 魔法使いとの約束

 ローズはぽかんとした顔をして、その後きゅっと眉間の皺を寄せた。

 大人にはよくある嘘だ。子どもなら簡単にだまされると思って、ローズの見た事や経験のない事をしてみせると、なんでもかんでも魔法のせいにしたがるのだ。叱られなかった事で株が上がったところだったのに、やはりイーサンも周りの大人と同じなのだとローズはがっかりする。そんな感情がもろに顔に出ていたが、しかしイーサンは一切の動揺を見せる事なく、余裕のある笑みを浮かべている。


「わたしが子どもだからって、なんでも信じると思ってるんでしょう?」


 可愛げのない子どもだ、そんな事を言われるかもしれないとローズは思った。が、口を開いたイーサンが放った言葉はローズの予想とは違っていた。


「ローズ、君は今いくつ?」

「……四さいよ」

「じゃあまだ君の知らない事が世の中にはたくさんあるだろう」

「えぇ、そうね。でもなんでもかんでも大人の言うことを聞いていればいいだなんて思わないわ」


 それを聞くと、イーサンは軽く声を上げて笑った。


「確かに、君の言うとおりだ。でも僕は、君を叱るためにそう言ったわけじゃないよ」

「そうなの?」

「ローズ、君はとても賢いけど、君にはまだまだ見えていないものがたくさんある。僕はそう言いたかったんだ」

「どういうこと?」

「大人は、なんて一括りにして考えてしまっては事の本質を見誤る。誰の言葉を信じ、誰の言葉を疑うか、君は慎重に吟味しなければならない」


 急に難しい言葉を使われ、ローズはまた眉を寄せる。イーサンはそれに笑ったが、決してローズを馬鹿にしたようなふうではなかった。


「君の言っている事は真実である反面、間違ってもいる。君はベビーシッターが感じの悪い人に見えたのだろうけど、僕にはそればかりの人だとは思えなかった。鈍感ではあるが、愛のある人にも見える」

「……そんなふうには思わなかった」

「人の心は君が思っている以上に複雑で分かりづらいものだ。君は怒鳴りながら喜ぶ人がいる事も、悲しみに暮れる事を心から欲する人がいる事もまだ知らない」

「そんな人がいるの?」


 イーサンは腰を屈め、またローズの顔を覗きこむ。彼のヘーゼルの瞳は茶と緑の炎を抱き、じりじりとローズの元へと忍び寄ってきた。


「君は慎重に吟味しなければならない。誰が本当の事を話し、嘘をついているか」


 ローズが黙ったままなのを見て、イーサンはすっと姿勢を正して離れていった。


「それから、僕が言った事も真実だ」

「……なんの話?」

「君は慎重に吟味する必要がある」


 イーサンの視線がついとそれて、壁紙をみつめる。ローズもつられてそちらを見ると、壁にはイーサンと自分の影が映っていた。イーサンの影が立ちあがり、被っていたシルクハットを取って優雅にお辞儀をしてみせる。隣に座ったイーサンにまた視線を戻すが、彼は座ったままで、頭にシルクハットは被っていない。

 ローズはぽかんと口を開けた。


「どうやってるの?」

「どうやってると思う?」


 席から立ち上がり、ローズは壁を触りにいった。壁紙の白い小花の上にイーサンの影が映っている。その影の膝辺りをさわさわと撫でてみるが、感触はただの壁紙だった。ふいにイーサンの影が動いて、ローズの影の手を握る。すると、まるで本当に手を握られているような圧迫感を感じ、ローズは慌てて手を引いた。


「どうやってるの?」


 ローズは男を振り返り、再度尋ねる。だがイーサンはただ微笑を浮かべているだけだ。しばらくそのまま彼を見つめ続け、やがてローズはその顔に満面の笑みを浮かべた。


「ご近所さんが魔法使いなんて、すてき!」


 そう言って、ローズは小走りに席へと戻る。イーサンは彼女のために椅子を引いてやった。


「ねぇ、ほかにはどんなことができるの!?」

「色々だよ。でも魔法使いは、誰から構わず魔法の力を見せたりしないんだ」

「どうしたら見せてくれるの?」


 イーサンは人の好い笑みを浮かべたまま、ローズの顔を覗きこむ。


「君にある事を手伝ってほしいんだ」

「あること?」

「なに、難しい事じゃない。君のパパと、度々おしゃべりさせてくれるだけでいい」

「パパと友だちになりたいの?」

「君のパパの想い玉が欲しいんだ」


 おもいだま?とローズは首を傾げる。イーサンはポケットから、先ほどコーヒーカップに入れた、光る何かが入っていた小瓶を取り出した。


「これに入っていたのが想い玉だ。人の想いを心から取りだしたもので、さっきコーヒーに入れたのは、甘い苺のショートケーキを食べて感動している女の子の想いだよ。とろけるように幸せな気持ちになっただろう?」

「とっても甘かったわ! おもいによって味がちがうの?」

「全然違うよ。僕らは君のパパの心に興味がある。彼の想い玉が欲しい」


 それは問題ない事だろうか? ローズはすぐに判断できなかった。ローズの顔に困惑の色が浮かんだので、イーサンはさらに言葉を続ける。


「何も危険な事や痛い事なんてしないさ。ただ僕らが君のパパとおしゃべりさせてくれる機会をくれれば、それだけでいいんだ。その機会を作る、出来る限りの手伝いを君に頼みたい。そうすれば、君にまた不思議で面白いものを見せてあげよう」

「……おしゃべりするだけね?」

「あぁ、約束だ」


 それなら問題ないだろうと、ローズは頷いた。それを見て、イーサンは一層嬉しそうに目を細める。


「この約束は僕らか君の、どちらかがルールを破るまで有効なものとする。いいね?」

「わかったわ。パパとおしゃべりさせてあげるかわりに、わたしは魔法を見せてもらう」

「あぁ、そうだ。それから、ここで見た事や僕らの正体については誰にも話してはいけない」

「それもやくそく?」

「いいや、違う」


 イーサンは胸ポケットからスティックタイプのリップを取り出すと、優しく丁寧にローズの口にそれを塗りだした。知らない男の人からそんな事をされるのはもちろん初めてで、ローズはドキドキしてしまう。二往復ばかり小さな唇を行き来させると、イーサンはそっとローズの顔から手を離した。ローズは取り澄ました顔で、にこっと笑顔を作ってみせる。

 するとまたイーサンは右手をローズの口元に持っていき、今度は指先を合わせて何かを摘まむような仕草をした。一直線に横へとスライドさせる。お口にチャック、そんな仕草だった。


「君にこれは破れない」


 イーサンのヘーゼルの瞳が、怪しく光った気がした。途端、ローズの上唇と下唇が引っついて、剥がれなくなった。ローズは驚き、ぱちんと自分の口に手をやる。大きく口を開けてみようとするが、開いたのは歯だけで、唇が開かない。舌で押し開こうとするが、柔らかい壁をいくら押してみても駄目だった。指でこじ開けようとするも、しっかりと縫い付けてしまったように開かない。


「君はこの家で見た事を、この家の外の者には絶対に話さない。いいね?」


 笑みを浮かべたままのイーサンが、ローズにだんだんとつめ寄ってくる。ローズは叫び声を上げたかったが、口が引っついていて叶わなかった。慌てて首を縦に振ると、パッと口が開いて、そのあまりの勢いに、思わず息をめいっぱい吸いこんだ。


「パパ!!」


 息を吐き出すままにそう声を上げると、ローズは椅子から転げ落ちる勢いで飛び降りる。足が絡んで手をつくが、くんずほぐれつそのままに、階段下の廊下へと繋がる扉に飛びついた。しかしどうしてか、ノブを回しても扉はびくともしない。視線を上げると、扉の上にイーサンの影が張りついていて、逃げ道である扉を押さえつけていた。


「あけて! あけてよ!!」


 そう叫ぶと、イーサンの影がふいと横の壁へと身を滑らせる。勢いよく扉が開き、ローズの体は廊下へと放り出された。

 席から立ちあがったイーサンがローズの後を追ってくる。ゆっくりと近づいてくる影のような黒い男に、ローズは恐怖を覚えた。


「パパが帰ってくるまで待っていないとだろう?」


 イーサンはローズの方へと手を伸ばしてくる。ローズはその手から逃れるとすぐさま駆け出し、今度は真紅の廊下へと続く扉のノブを回す。幸いな事に、こちらの扉はすぐ開いた。しかしおかしな事に、廊下を進めど進めど、一向に玄関扉が近づかなかった。もう少しで玄関へ到達する頃合いになってようやく、それが何故なのか分かった。

 扉が縮んでいるのだ。廊下の中ほどまで来た時にはローズが通るのがやっとの大きさだったのが、走っている間にも扉はみるみる小さくなり、そうして玄関にたどり着いた時には、すっかり消えてなくなっていた。


「ローズ、ちゃんと待っていないと駄目だろう? 君のパパが迎えに来るまで」


 背後から黒い影が覆い被さってくる。ローズは震えながら、ゆっくりと後ろを振り返った。イーサンの影が廊下の天井を覆い隠して、真っ黒に塗り潰している。

 パパの言い付けを勝手に破ってはいけなかった。知らない大人に声をかけられても、決して付いていってはいけなかったのだ。人の好い顔をしている者が、真実良い人であるかなど分からないのだから。

 黒いスーツに身を包んだ魔法使いは、ゆっくりとローズの方へと手を伸ばしてくる。


「魔法使いと"約束"をして、逃げられると思っているのかい?」


 ローズは声の限りに悲鳴を上げた。


 いつの間にか陽も沈み、夜の帳が落ちている。影が小さな子ども一人をその懐に包み隠してしまっても、気づく者は一人もいない。

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