妻がうるおう日


 ~ 三月三十日(水) 妻がうるおう日 ~

 ※川上之嘆せんじょうのたん

  過ぎ去る時間への嘆き




 河和こうわの宿をチェックアウトして。

 海鮮食べ放題の網焼き屋で、遅めの昼飯をたらふく食べた後。


 腹ごなしに海沿いをのんびり散策してから。

 電車で北へ。


 知多半島を北上して。

 太田川へ到着したころには。


 真っ赤に染まった空が。

 視界一杯に広がっていた。


「こっちが……、西?」

「うるさい」


 昨日の失敗をネタに。

 日がな一日からかい続けてくる。


 そんなこいつは。


 舞浜まいはま秋乃あきの


 おかげでずっと、秋乃はご機嫌なんだけど。

 もちろん、俺としては嬉しくはない。


 だが、ここまでバッチリ計画通り。

 今日こそムードのある夜景の中で。


 秋乃に、彼女になりたいですと言わせてみせる!


「よし、こっちは二部屋取れてたな」

「よかった……」


 ビジネスホテルなる宿にチェックインを済ませて。

 荷物を部屋に放り込んですぐに外に出る。


 ここから、上手く時間を調整しないと。


「メシはいらないよな?」

「う、うん……。さすがにまだ、タコでお腹一杯……」


 そうだよな。

 店のお姉さんが腹を抱えて笑い出すほど。


 タコばっかり皿によそってたもんな、お前。


「最終的には、足一本まるっと焼いてみませんかとか言われて」

「うう」

「調子に乗って二本も食いやがって……」

「今更だけど、エビとか貝とかも食べたかった……」

「ほんと今更だな!」


 呆れた話だが。

 いい学びを得た。


 過ぎ去った時間は戻らない。

 チャンスはその場で生かさないといけない。


 俺は、秋乃から学んだことを実践するため。

 こいつの手を引いて、目的の場所へと急ぐのであった。



 ――太田川に沿って建ち並ぶ高炉と工場群。

 その光に照らされた夕焼け空が、えも言われぬ色彩を放つ幻想的な光景。


「あ……、赤紫に光ってる……」

「すげえなこれ」


 さらに川面に光が反射して。

 幻想的な世界へ俺たちをいざなうのであった。



 うっとりと工場夜景を見つめる秋乃。

 絶好のロケーションを作ることには成功した。


 ……だけど。


「それなり有名な場所だったか……」

「え? それは、そう。これだけ綺麗なら有名になると思うけど……」


 いや、そういう意味じゃなく。

 俺が言いたいのは、俺たちの周りに集まった人の群れの事。


 小川の流れる小さな公園のベンチからだと。


 まるでライブ会場。

 肝心のステージが、人と人との間からしか見えん。


 思わず漏れたため息に。

 ようやく秋乃が意図を汲む。


 すると耳元に口を寄せて。

 小さな声で囁いた。


「一緒に夜景を楽しむ人がいっぱいいて、残念だったね?」

「いや、まいったな。これほどとは」

「……でも、凄く幻想的。……結構、ドキドキしてるかも」


 おお。

 なんて嬉しいこと言ってくれるんだお前。


 でも、そんなセリフ吐かれたら。

 こっちがドキドキするわ。


「そそそ、そう? いや、カンナさんに教わらなかったら、工場夜景なんて思いつかなかったけどな!」

「ううん? 立哉君が連れて来てくれた……」

「ま、またまた! でもこれなら、ムードもばっちりだろ? OKしたくなるだろ?」


 慌てふためいて。

 思わず結論だけ求めた俺を見て。


 秋乃はクスクスと笑い出す。


 夕闇の中だというのに。

 光り輝くその笑顔は。


 俺から、さらに語彙を奪い取っていく。


「OKしたくなるかどうか?」

「お、おう」

「それを聞かなければ良かったかもしれないけど……、ねえ?」

「そ、そうか、聞かない。聞かないから、聞かせて欲しい」

「……へたぴい」


 そう言いながら。

 秋乃は手近なはっぱを一枚摘んで。


 俺の頭にひょいと置く。


「狐みたいに、華麗に騙さないと……」

「そう言われても」


 慣れてないと言っているだろうが。

 あるいはこの旅行中、しつこく繰り返したら慣れるのか?


 ひとまずひとつ、深呼吸。

 こういう時はどうすればいいんだろう。


 きっと楽しい未来予想図。

 そんなものを想像してもらえばいいのかな。


「……じゃあ、じっくりとこの綺麗な景色を見ながら。想像してもろて」

「ふむ」

「きっと楽しいから」

「ふむふむ」


 そう伝えると、秋乃は素直に夕景へ目を落とす。

 すると、白い陶器のような頬に。

 次第に朱が差し始めた。


 これは。

 いい感じなのか?


 未だ量り切れぬ俺としては。

 いま、軽く開いた秋乃の口から。


 なにかムードのある言葉が聞けるとありがたいのだが……。


「あのプラントが生成した資材をここで加工して……。きっと、廃材はここで処理……。実に美しい」

「うはははははははははははは!!! ムードもへったくれもねえ!」


 おいおい、お前がムードを台無しにしたんじゃねえか。


 追加の葉っぱを何枚乗せる気だ。

 もう騙せんて。


 今日の所は、これまでかな。

 でも、明日頑張れそうな経験値を確かに稼げたような気がする。


 俺は、肩の力を抜いて秋乃に微笑みかけると。

 こいつも察してくれたようで、肩をすくめて苦笑い。


 じゃあ、もうちょっと景色を眺めてから帰ろうか。

 そう思った直後に。



「うひゃい!?」


 ……俺は。


 秋乃を、植え込みの中に突き飛ばした。


「あれ? 確かにこっちから聞こえたと思うんだけどな……」

「どうしたんだい、急に?」

「いや、聞き覚えのあるバカ兄貴のバカ笑い声が……」

「あはは。まさか、立哉君たちと会うなんてこと無いでしょ」


 後から植え込みを飛び越えて。

 目を回している秋乃の頭を低く押さえ付ける。


 工場なんて日本中にごまんとあるだろう!

 どうしてここを選んだんだよカンナさん!


「た、立哉君、ちょ……、ここ、タンマ……」

「いいからその姿勢で静かにしてろ! もうすぐ目の前に来るとこだから!」


 情報集積基地にして。

 歩く広告塔みたいな人だからな、カンナさんは。


 尊敬はできるけど。

 信頼はできんのだ。


「あれ? いねえなあ? でも、今のは確かに……」

「まあまあ。仮に本人だとしてどうする気だい?」

「あいつがあんなバカ笑いする時ってさ、バカ浜が一緒の時だけなんだよ」

「そうかな? でも、だったら逆に邪魔しちゃ悪いよ?」

「いや。あいつらの関係が進展してたとしたら……」

「祝福したかったの?」

「証拠写真撮って、世界中にばらしたかったんだけど……」


 ぜってえ見つかる訳にいかねえ!

 ほら、はよ行け!


 ちょうど俺たちが隠れる植え込みの前で立ち止まって。

 きょろきょろ辺りを見渡していたカンナさんだったが。


 店長にしつこく促されて。

 渋々、駅の方へ向かって行った。


 ほっとしながらも慎重に。

 植え込みから頭を覗かせてみると。


 店長が、背中を向けたまま。

 ひらひらと手を振っていたのだった。


 ……気付いていたのか。

 でも、店長なら黙っていてくれるだろう。


 俺は今度こそ安堵の息を吐くと。


「つめたっ」


 ようやく、自分のいる場所の異常に気付く。


 そうだった。

 植え込みに沿って、石造りの浅い川が流れてたんだっけ。


 おかげで靴がびちょびちょに…………?



 川?



 しゃがんだ俺が押さえ付けているこれ。

 俺より低い姿勢をとってるってことは。

 お尻で座り込んでるって事だよな?


 春とは言え、まだ朝晩は寒いってのに。

 まさか水遊びするような奴なんかいるはず無い。


 俺は、恐る恐る視線を戻して。

 押さえ付けていたものを確認すると。


 そこには。


 お尻から川に浸った秋乃が。

 頭に葉っぱを乗せたまま。

 これでもかってほどふくれて俺をにらみつけていた。


「うはははははははははははは!!! 狸!」

「……笑えません」

「…………はい」


 本日のチャレンジは。

 水も滴るいい女を口説くにはまだ早い。


 そんな結果に終わるのだった。

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