天使は夜に微笑まない

彗星無視

第1話 名前のない天使

——天使を拾ったことを僕は秘密にしなければならなかった。


 無遠慮な軽い足取りでかまちに上がろうとする彼女が裸足であることに今さらながら気が付いて、僕はそこで待つように言い、急いで濡らしたタオルを用意する。

 玄関へ戻ってくると、彼女は手持ち無沙汰に体を揺らしながら待っていた。

 彼女。そう、彼女だ。


 日本のこんな田舎町ではおよそ見かけない、長くさらりとした金色の髪。青みがかった大きな瞳。透き通る白い肌。あどけなさと美しさが同居した、人形と見紛うほどに端整な顔立ち。

 そしてなによりも、白いワンピースの背に空いた穴から顔を出す、一対の翼。それは服と同じく純白で、彼女の背丈の半分くらいもの大きさがあった。

 天井のシーリングライトが、外にいたときは夜闇で見えづらかった彼女のディテールを詳らかに照らす。


「……天使。どう見たって、天使そのものだ」


 もはや間違いなかった。この明るさのもとでは、間違えようがなかった。

 彼女は、少女は——確かに天使だった。

 僕は天使を家に連れ帰っていた。こんなことが人に知られてしまえば、僕はどうなるのだろう?

 少なくとも守護天使像を勝手に持ち出したり壊そうとしたりするのは、なんとか罪が適用される立派な犯罪だと聞いたことがある。ならば動き出した守護天使像と家に帰るのは大丈夫だろうか?

 大丈夫なものか。絶対にしょっぴかれるに決まってる。これで晴れて親子そろって犯罪者だ。


「ふふっ。ハルさんってば、おかしいひと。像から動き出すのも見たんだし、道すがらずっといっしょにいたんだからとっくに天使だってわかってるでしょ?」


 だというのに。この天使は、なにが面白いのかくすくすと無邪気に笑っている。

 昨日となんら変わりない今日という日を過ごすはずが、どうしてこんなことになってしまったのか。すべてこの天使のせいだと言いたいところだが、実際のところ責任というか、原因の一端は僕の何気ない不注意のせいでもあるのだ。

 湖畔でのさっきの出来事、きっと一生涯忘れられないであろうそれを思い出しつつ、さっさと足の裏を拭くよう僕は濡れタオルを天使へと投げつけた。



「う……寒い。初夏と言えど、湖沿いは風が冷たいな、くそっ」


 ほんの小一時間前のことだ。吹き付ける風に肩を震わせながら、僕は湖畔の舗装もされていない砂の上を歩いていた。

 気分は最悪だった。むしゃくしゃした気持ちで足元の小石を蹴り飛ばすと、同時に砂も巻き上げてしまい、余計に嫌な気持ちになる。靴にも砂が入ってしまった。

 踏んだり蹴ったり。靴に砂が入ったことも、こんな夜に長い帰路を歩かされていることも、冷たい湖の夜風もなにもかもが頭にくる。

 しかし一番に腹立たしいのは、その不幸の連鎖とも言うべきものの一番根っこ、すべての原因が完全に自分の失態であることだった。


 大仰な言い方をすることもない。ただの、ありふれた簡単なミスだ。

 僕は今朝、家の鍵を忘れて家を出た。ただそれだけで、こうして学生服で何時間も歩き詰めにさせられている。 

 というのも、僕の家族は母ひとりしかおらず、その母さんも夕方からは隣町の工場へ二交代制の夜勤へ出かけてしまうのだ。そして僕が鍵を忘れたことに気付いたのは学校が終わってからで、つまり僕は家に入るために母さんから鍵をもらわねばならない状況に陥ってしまった。


 残念なことに、自転車の鍵も入れない家の中。仕方がなく隣町の母の職場まで歩き、今はその帰りというわけだった。湖沿いを歩いているのは単に近道というだけで、もっと言えばこの鬱陶しい風を生む湖さえなければ、より直線的なルートで家に向かうことができた。

 寒いし、なにより疲れたし、お腹も空いた。

 くさくさしながら人気ひとけのない湖畔を歩く。耳に届くのは風の音だけ。波が立つほど、この湖は大きくない。


「——?」


 しかしふと、湖とは逆側に人の気配のようなものを感じ、僕は深く考えもせず足を止めて振り向いた。果たしてそこには、夜闇に浮かび上がる確かな人型のシルエットがあった。


「……こんな場所にも守護天使像があったのか」


 大理石にも似た、翼持つ白い女性の像。世界各地でいくつも現れては消え、また現れる守護天使像だ。

 いい加減歩くことに倦んでいたこともあり、僕は道草を食いだした。守護天使像に少し近づいてみたのだ。

 どこか見覚えがあるような気がした。けれど気のせいだと思い直した。守護天使像は一年が経つと消失——『昇天』してしまう。守護天使さまが人々をお守りする役目を終え、天に還ったのだと祝う。こんな辺鄙へんぴな湖のほとりにはここ一年どころか中学に上がって以来一度も近寄った覚えがないので、見るのは初めてのはずだ。


「ま、守護天使像なんてどれもこれも似たり寄ったりか……。表情自体は結構違いがあるそうだけど。こいつは……笑ってるのか?」


 周りに誰もいない——この物言わぬ天使さまの石像を除いて——のをいいことに、ぶつぶつと独り言を口にする。既に今日一日の学校での発声量を超えているのは疑いようもなかった。

 まさに神が彫刻したような造形の少女。その白くつるりとした表面は、細かい塵で薄っすらと汚れていた。

 守護天使像はどれも地元の人々に大事にされるものだが、こいつは場所が悪すぎる。そもそも『ある』ことにさえろくろく気付かれちゃいないだろう。かといって疲労した体に鞭打って、わざわざ清潔な布と水を探してきて手入れしてやるほど僕は善人でも天使崇拝主義者でもなかった。


 ただ目を離せなかったのは、その顔、表情だ。

 このうえなく端整な石の少女は微笑んでいた。それも祈るような、悟ったような儚い微笑み。

 それが妙に気になった。まるで張り付いた表情のすぐ裏側に、重い不安が巣食っているようだ。それとも僕がネガティブな人間だから、そんな風にばかり捉えてしまうのか。

 訊いたところで、天使は答えまい。


「なにか、訊きたそうな顔してる?」

「…………。は?」


 しかし現実は、訊いてもないのにその像は喋り出した。

 瞬きひとつ。ただ一瞬、ほんの一瞬だけ思考が逸れたその隙に、像は像ではなくなっていた。

 守護天使は細くすらりとした脚で一歩踏み込んで、僕の顔を覗き込んでくる。

 鉱物的な白色は失せ、肌には体温が。髪には艶やかな黄金色が。表情には躍動が。そして、純白の翼には羽根の一本一本にまで行き渡る生命力が。

 目の前の天使に頭が追い付かない。柔らかな甘い香りに心臓が止まりそうになる。


「ねえ。どうしたの?」

「きみは……。天使、なのか?」


 ようやく絞り出したのは、そんな馬鹿みたいな問いだった。


「うん。見てわからない? この翼こそ、天界に住まう証だよ」

「じゃあなんで動いてるんだよ。守護天使像は、ほんとに天使そのものだったっていうのか!?」

「そうだよー。でも守護天使っていうのはあなたたちが勝手に言ってるだけで、別にそういう役割じゃないんだけど。わたしも目を覚ましたらあなたがいるからびっくりしちゃった」

「びっくり……っ?」


 驚いているのはこっちの方だ。守護天使像はあくまで像、気づけば現れ、気づけば消える程度の不可解なオブジェに過ぎない。

 守護天使などと呼ばれても、なにかしてくれるわけではない。してくれなかった。

 それなのに、本当に天使として動き出すなんて、聞いたこともない!


「疲れすぎて幻覚でも見てるのか、僕は。それともなにか、僕が知らないだけで天使の像は夜な夜な動き回ってるのか? そんな怪談じみたハナシが……」

「ね。名前、訊いてもいい? 人には名前があるでしょ?」

「名前? 藪から棒になんだよ。こっちはまるで頭が追いついてないんだ」

「ヤブカラボウニナンダヨ? それどこまでが苗字?」

「どこまでも苗字のはずがないだろ」


 幻覚にしてもイカれすぎている。それに目の前で佇み、真っすぐに青い目を向けてくるこの存在感は確かに現実のものだ。


「……ハル。みんなは、そう呼んでる」


 その『みんな』をどこまで個々に分解できるのかはわからないが。


「ハルさん? へー、そっか。ハル……うん」

「で。そっちは?」

「ん?」

「名前だよ。僕が名乗ったんだ……まああだ名だけど、とにかく伝えただろ。そっちだってなんかあるだろう、親にもらった名前が」

「ないよ。わたしは天使だから、名前はないの」

「名前がない? そんなこと、あるのか」

「天使は純粋であらねばならないから」


 誰に言われた言葉なのか。わずかに目を伏せるその表情は、哀しげに映った。

 だったら天使って呼ぶぞ、と僕が言うと、天使はこくんと頷く。

 月も顔を見せない夜。湖畔からの風に金の髪をなびかせて、天使が舞い降りた。それとも動き出した、の方が正しいのか。

 とにかくその出会いがあんまり衝撃的すぎて、僕はそれからどうやって家に帰ったのかよく覚えていない。あれほど積み重なった疲労も忘れ、気づけば玄関の前にまで戻って来ていた。——青い目をした、天使といっしょにだ。

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