第2部2章プロローグ 恋するアンチノミー

第107話 『ベルチャーナの憂鬱』

 雨こそ降ってはいなかったが、どんよりとした曇り空を窓越しに見つめ、ベルチャーナは「はぁ」と物憂げなため息をついた。

 そこはミンクツの一角。人類最後の活気を見せるわずかな繁華街の広がる方舟の膝元からほど近い、古い木製の一軒家。

 地底世界、箱舟と呼ばれる昇降機クライマーを経由した現実世界への転移を経て三日——

 方舟と接触したイドラが、ウラシマの胸に補整器コンペンセイターを突き刺し、昏睡状態にあった頃。 

 ベルチャーナは珍しくも憂いを帯びた横顔で、狭い部屋で椅子に腰掛けながら、物思いに耽っていた。


(あの時……)


 古く狭いといっても、住居として快適さを欠いているということは断じてなかった。

 確かに壁や床材には細かな傷があり、窓枠もよくよく見れば軋んで、使い古された椅子の脚には一度へし折れたのを補修した跡がある。

 しかし、部屋そのものは日々の清掃が行き届いており、埃ひとつなく、物は綺麗に整頓されている。灰の空模様を透過する窓も、ガラスそのものには一片の曇りもない。

 清掃者の心遣いが見えるような、丁寧に手入れされたその部屋は、本来ベルチャーナのものではなかった。持ち主を失ったために、家主によって現在ベルチャーナに宛がわれているのだ。


(箱舟の中で。わたしが、イドラちゃんに手を伸ばした時——)


 そんな部屋で、物音ひとつない静寂に浸りながら。

 ベルチャーナは思い出す。


(——イドラちゃんは、わたしを見ていなかった)


 この三日間で、幾度となくそうしてきたように。

 考えないようにしようとしても。頭から追い払おうとしても。気にすまいとしても。忘れようとしても。

 何度も、何度も、回顧する。

 反響する記憶が、ベルチャーナの意思とは無関係に、純然たる事実を突きつける。


(わたしは、イドラちゃんの眼中になかった)


 あの黒い瞳に映っていたのは、ベルチャーナではなく。ともに旅をしてきた、橙色の目と白い髪を持つ少女だった。

 それは、言ってみれば当然のことなのだろう。

 過ごしてきた時間が、重ねてきた経験が、ベルチャーナとソニアではあまりに違う。

 不死殺しと不死憑き。二人が出会い、心を通わせたのは必然だったのかもしれない。

 あるいは、運命。


「……じゃあ、始めっからベルちゃんに勝ち目なんてないわけだ」


 嘆くような心の声は、いよいよ口から漏れ出ていた。

 口元がつり上がる。自嘲の笑みを自然とこぼす。

 わかっている。もう何度も、考えては、思い出しては、同じ結論を見出している。

 イドラとソニアの絆に。渡された信頼の合間に、ベルチャーナが今さら割って入る余地などないのだと。

 あの透明な箱舟クライマーで、かすれゆく意識の中、イドラに向かって手を伸ばし——その先で、イドラとソニアが、互いしか見えないとばかりに手をつなぎ合ったのを目にした時。

 ベルチャーナは思う。ああ、今さらどうして、自分は恋なんてしてしまったのだろう?

 恋心を抱くには、あまりに遅すぎた。ベルチャーナとて、そう、気が付いているのだ。

 しかし、初めて手にしたその感情は、すぐに熱く大きく育ち、荒れ狂う波のような激情と化した。自分でも制御できないほどに。

 葬送協会の祓魔師エクソシストとして、訓練と任務に明け暮れていたベルチャーナはそれまで恋を知らず、ゆえに初めての想いを自覚してからというもの、持て余すばかりなのだった。


「会えば、なにか変わるかな。……うぅーん、でも、イドラちゃんたち、どこにいるかわかんないし」


 何度目かのため息をついて、ぶつぶつと独り言をつぶやきながら考え込む。

 転移の折、イドラとソニア、それからレツェリの三者とは離れ離れになってしまった。

 そのためこの三日、ミンクツをうろついてイドラたちを探したが、まるで見つからない。


「やっぱ、山の上の施設……方舟、ってとこにいるのかなぁ」


 ハコブネ——そう初めて聞いたときベルチャーナは、地底世界から昇るのに使用した箱舟と勘違いしかけたが、どうやらこの地にある方舟はまた別の施設の名前らしかった。

 ノアの方舟。大洪水を逃れうる、旧約聖書に記された、絶滅から数多の種を救った大舟。

 その名を冠するからには、元来の方舟には、モチーフに沿うだけの目的があった。創設者の理念と意志が、そこには強く表れていた。

 だが、現人類にとって幸か不幸か、現総裁の柳景一やなぎけいいちはまったく別の方針を掲げている。よって、今や方舟の名は形骸化したものなのかもしれない。


「いつまでもこの家にお世話になるわけにもいかないし。そろそろ、先のことを考えないと——」

「ベルチャーナさん?」

「——わっ!?」


 背後からの呼びかけに、ベルチャーナは肩を震わせる。

 雲散する思考。椅子から立ち上がって振り向くと、ドアのところに、家主の女性が立っていた。


「ト、トミタおばあちゃん……」

「珍しいわね、声をかけるまで気が付かないなんて」


 その女性はトミタといった。白髪の交じる、初老に差し掛かる年だが、背筋はまっすぐで立ち姿にも乱れはない。身なりも綺麗で、ミンクツの外縁部に近い住民などとは、衣服ひとつとっても質が違った。

 ベルチャーナとトミタのファーストコンタクトは、転移初日の夕方のことだった。

 イドラたちと異なり、ベルチャーナの転移位置はミンクツにほど近い場所であったために、アンゴルモアと遭遇することなく人里に着くことができた。それから、見知らぬ土地でどうしたものかとミンクツの中をうろうろしていると、若い男性数人が、この家の玄関先でトミタに詰め寄っているのに出くわしたのだ。

 男性らは、先日のアンゴルモアの北部侵攻により住む場所を追われた難民だった。要するに、老婆独りで暮らしているこの家に目を付け、乱暴な地上げ屋のようにトミタを追い出そうとしていたのだ。

 アンゴルモアに元の住処を奪われたという点においては、男性らにも同情の余地はあった。しかしだからといって、他者の家、それも繁華街に近く立地に恵まれ、方舟から電気等の供給もされる高等な物件に目を付けたのはあまりに不道徳かつ強欲というものだろう。

 そして、その辺りの事情を特に知りもしなかったが、か弱い老婆に罵声を浴びせる男性らに義憤を燃やしたベルチャーナは、その場で全員をはっ倒した。魔物やイモータルを相手取る祓魔師エクソシストにしてみれば、ごろつきの数人程度、赤子の手をひねるようなものだ。

 それを切っ掛けに、こうしてベルチャーナはこの三日間、礼とばかりにトミタの亡き娘の部屋を借りさせてもらっているのだった。


「どしたの? もうご飯? それともまた外壁塗装の亀裂の修復? 方舟の配給……も昨日行ったし、あっ、もしかしてお洗濯とか? お世話になってるから、ベルちゃんなんでもやるよっ」

「洗濯は、この家は方舟から供給される電気のおかげで洗濯機が動くから、そう負担にならないのよ。そうじゃなくって……ベルチャーナさんにお客さんが来てるわよ?」

「えっ? わたしに——ベルちゃんに?」


 家においてもらい、さらには娘の形見である服まで譲ってもらい、イドラたちを探さねばならない身の上ではあるが、ベルチャーナはなるべく恩返しがしたいと家のことをできるだけ手伝っていた。

 特に方舟から配給される食糧や生活必需品は、配給所まで受け取りに向かうのが老骨には堪えるのだと言って、ベルチャーナが代わりに行くと大層ありがたがってくれた。

 そのため、今度もなにか手伝いを求めてくれていたのかとベルチャーナは考えたが、その予想は裏切られた。

 お客さん、とトミタは言った。

 しかし、来客? ベルチャーナがここに身を置かせてもらっていることを知る者など、ほぼほぼ皆無と言っていい。ベルチャーナはパーケトがマイナスナイフを刺されたように——もとい、鳩が豆鉄砲を食らったように、きょとんとした表情を浮かべた。


「ええと、しまった、名前を聞いていなかったわ。ごめんなさいね、私うっかりしてて。でも、若い男の人だったわ」

「男?」

「そう。フードで顔はあまり見えなかったけれど、でも、ベルチャーナさんと知り合いだって言ってて……」


 どくん、と心臓が脈打つ。恋の高鳴り。

 知り合いの若い男——

 ひょっとして、イドラが探し出してくれたのだろうか?

 低い確率だとわかっていても、心は否応なしに期待を抱く。


「どうする? 出る?」

「うん。ありがと、トミタおばあちゃん。会ってみるね」


 お礼を言って、ベルチャーナはぱたぱたと玄関の方へ急ぐ。そしてドアハンドルに手を伸ばし、やっぱり一旦引っ込めて、服におかしいところがないかチェックし、指で前髪を整え、それから改めてドアを開けた。


「数日ぶりだな、ベルチャーナ君」

「————っ」

「おいっ。なぜ閉める」


 立っていたのは黒い外套の、背の高い男だった。

 聞き覚えのある声。そして、見覚えのある外套。

 なぜならそれは、エンツェンド監獄にてベルチャーナが渡したものだったから。


「レツェリ元司教……」

「そんなに嫌そうな顔をされると、さしもの私もいささか傷つくな」


 レツェリはフードを外しながら、ちっとも痛みなど感じていなさそうな声音で言った。

 その左目は赤く、ひさしの作る影の中でほのかに輝いている。

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