第95話 『嵐の前の』

「昨日、キミにギフトを使うなと言ったばかりだというのに。舌の根が乾かぬうちに、キミの助力を頼ってしまうとは。本当に……重ね重ね、情けない」

「能力さえ使わなければいいんだから、大丈夫です。アンゴルモアにコンペンセイターが通じるのは、確認済みですから」

「うぅ……まさかシスター・オルファさんがああもサイコだったなんて。つい油断させられた、一生の不覚だよ」


 首をさすりながら、ウラシマは珍しくため息などついている。

 三年前。花の咲く庭先で、オルファはウラシマのことを、気を引いた隙に首をザックリ切って殺したと言っていた。そのことをイドラは思い出し、「まあまあ」となだめる。


「今にしてみれば、ダイイングメッセージなんてその状況でよく遺せましたね」

「あぁ、地底世界へは精神のみのダイブだからね。精神さえ強く保てば、普通よりは頑丈なのさ」


 首を刎ねるところまでいかれても、二、三分は意識を保てると思うよ、とウラシマ。

 その様を想像してしまい、イドラは苦い顔をするほかなかった。


「北部地域を再び人類の手に取り戻すには、防壁の修復が不可欠だ。しかし、人手と資材を運びこむにも、アンゴルモアを一掃しなければ話にならん」

「要は露払いってことか」

「そうだ。被害状況の調査も兼ねている。外乱による数値観測の妨害さえなければ、もっと早くに決行できたはずなのだが……経過が大きいほど、損壊も増すだろう」

「とは言いますがね総裁どの。その外乱を排除して、数値観測をある程度復調させてくれたのもこのイドラなわけで」

「む……確かに。まったく、浦島君の言う通り、君たちには頼りきりだな。二日後の作戦は非常に危険なものになるだろう、覚悟はよいかね?」

「ソニアの言った通りだよ。僕たちは、できる限りのことをする」


 その返事に、ヤナギは満足げな笑みを薄く浮かべた。さながらチェスの盤面を有利に構築できたときのように。

 ヤナギは本当に、『片月』への配属と、今度の作戦のことだけを伝えるためにイドラたちを呼んだらしい。

「作戦の詳細は追って伝える」とだけ言って、今日のところは解散となった。


「おぅい、ちょいと待ってくれ」

「カナヒト?」

 

 先に総裁室を出て、部屋に戻ろうと廊下を歩くイドラとソニア。そこへ後ろから、バタバタとカナヒトが追いかけてくる。


「なんだ、なにか言い忘れたことでも?」

「いやァ、大した用じゃないんだが……」


 カナヒトは言いたいことがあるようだったが、いざ追いついても、イドラを前に閉口する。その間、舌の上で言葉を吟味するように口元は小さく動いていたが、中々それは発せられない。

 こんなに歯切れの悪いカナヒトは初めてだった。話の邪魔をしないようにしながら、ソニアも目を丸くしている。


「……れいのことだよ。この間、あいつが長い植物状態から回復したのは、イドラ。お前のギフトのおかげなんだろ」

「え? ああ、まあ。代償ってのがあるらしくて、もう能力は使うなって釘を刺されちゃったけど」

「ありがとな」


 視線を合わさずぶっきらぼうに、けれどはっきりとカナヒトは礼を告げた。

 まさかそんなことを言われるとは思わず、イドラはつい返事を忘れる。


「外乱排除作戦は、地底世界でよしんば外乱を排除できても、帰還の見込みはごくわずか……そもそも第一次ン時の羽生さんも植物状態だ。お前なら、あの人も引き戻せるのかもしれねえが……あっちはより時間が経ってる。代償とやらを思えば、少なくとも今やるべきじゃないだろうな」

「あ、ああ。そっか、ハブリ……じゃなくてハブって人は、ウラシマさんよりも先に僕らの世界に来たんだもんな。そっちの人も、先生と同じように寝たきりになってるのか」

「そうだ。羽生さんのことも——なにより零のことも、俺にはどうにもできなかった。俺の手が届く範囲なんてのは、口惜しいが、ごくごく小さなモンだってその時わかったよ」

「……カナヒト」


 初めて会った日、カナヒトは子どもらに飴を渡していたが、そのことを「偽善だ」と自ら蔑んだ。その意味をイドラはようやくわかった気がした。

 あの行為を、イドラは偽善だとはまったく思わない。けれど、カナヒトはきっと、より多くの人々を救いたいのだ。ミンクツの人々に、方舟の人々、その両方を。


「だからイドラ、お前には感謝してんだ。お前は、俺が助けられない人を助けてくれる」

「それはそっちも同じことなんじゃないのか?」

「どうだかな——ま、言いたいことはそれだけだ。じゃあなっ」

「えっ?」


 言うべきことは言ったと、カナヒトは会話を強引に打ち切り、背を向けるとそそくさと去っていく。

 逃げるように角を曲がっていくのを、イドラは呆然と見送った。


「な、なんであんな速足に……」


 困惑していると、ソニアがくすりと笑った。


「恥ずかしいんだと思いますよ。面と向かってお礼を言うの」

「いい年してそんな子どもみたいな……。先が思いやられるな」


 呆れたとばかりに息を吐く。わざわざ礼を告げるために廊下を走って追いかけてきたのだから、普段はテキトーなくせに、妙なところで律儀な男だった。

——これからはあれが上司になるわけか。

 カナヒトがリーダーを務めるチーム『片月』への配属を告げられた、先ほどの話し合いをイドラは思い返す。


「でも、イドラさんも嫌ってたりしないですよね? カナヒトさんのこと」

「ん、まあな……信用してもいいとは思ってる。あんな感じだし、嘘ついてからかってくるけど。ウラシマさんのことでずっと悔やんでたみたいだし……それに、あれで戦闘のときは頼りになりそ————ソニア?」

「っ、すみません。ふふふっ……」


 なぜだか含み笑いを漏らすソニアに、眉をひそめる。


「どうしたんだ、突然」

「だって気づいてないんですもん、イドラさん」

「え?」


 気づいていない? 一体なにに?

 きょとんとするイドラがおかしいのか、ソニアはまだ口元を緩ませたまま言った。


「そういう素直じゃないところ、ちょっぴり似てますよ。カナヒトさんとイドラさん」

「なっ……」


 思わぬ指摘に絶句する。そういえば、初めに総裁室に入った時も、似たようなことを言われたのだった。

 足を止めていると、ソニアは廊下の数歩先から振り返った。


「ほら、早く部屋に戻りましょう。イドラさんが昏睡の時、気を紛らわせるためにって、職員の方がアーカイブの見方を教えてくれたんですっ」

「……わかったよ。『ネガティヴ☆ナタデココ』か?」

「あれはもういいですよ……」


 肩を落としつつも、イドラはソニアの後を追う。横目で窺う少女の横顔は、どこか楽しげだった。


(まあ、いいか。ソニアが上機嫌なら)


 イドラがコンペンセイターの『代償』から目を覚ましてから、よほど嬉しいのか、ソニアはいつも笑顔でいる。

 なにせ、多くのことが丸く収まった。

 いよいよ旅は終わり、死した恩人ウラシマとも再会を果たすことができた。コンペンセイターの強烈な反動による想定外はあったものの、三日の昏睡で済んだのだから十分幸運だ。

 そうしたことが、ソニアはきっと嬉しいのだ。無論イドラも。

 だからこそ、この幸福を守らねばと思う。


(コンペンセイターの能力は使わない……先生と、そう約束をした。だけど……)


 ソニアの内から不死の力は日に日に抜け落ち、それ自体は喜ばしいことだったが、今度の作戦のような場では戦力の減少になる。

 もし仮に、ソニアが深い傷を負うことがあれば——補整すべき欠損を、被ることがあるとすれば。


(どんな『代償』だろうと、構うものか)


 廊下を行く。とうに心は決まっており、揺らぐことはない。

 大王の躍動を目の当たりにするまで、あと二日。

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