第92話 『一方通行の想い』
ウラシマを蘇らせた日までにイドラを最も助けてきたのは、間違いなくソニアだった。
イドラ自身、そう深く理解している。
きっかけは、集落でイモータルとして扱われていた、不憫な少女を助けるという義憤からだった。
それがどうだ。ソニアは旅の途中で何度もイドラを助け、今では互いにとって無二の存在となった。
そんなソニアも、不死の力を失い、おかげで夜ごと苛まれる発作もなくなった。しかしそれは同時に、身を守り、危機から脱してきた大いなる力を失うということでもある。
ゆえにこそ、アンダーワールドの空の上で。
あの透明な
ソニアのことを守らねば。
自分にはその義務があり、責任があり、願いがある。
そう、ほかの誰よりも、ソニアを大切に思っている。
「ぁ——。イドラ、さん」
昇降機の中で手をにぎり合った。その時のソニアの、少し痛苦の和らいだような表情を思い出す。
思えば、ここで手をつないでいたからこそ、現実世界に転移しても離れ離れにならなかったのかもしれない。今さらのように、イドラはそう気が付いた。
しかし。
思い出すべきは、そうではなく——
見落としているのはそこではなく。
(あの時……僕が、ソニアに手を伸ばした時)
夢の中のような、曖昧な意識の中で、イドラは考える。
ウラシマにコンペンセイターを突き刺し、代償として活力を捧げ、一時的に意識を失った自分が今どうなっているか。現実が今どうなっているかは、思考の外にある。
過去を振り返るべきだと、過酷な旅で養ってきた直感が囁いている。
(誰かが、うめいていた)
思い返せばそうだった。昇降機の中で、世界を移動する際の、頭の中身を引っ張り出されるような強烈な不快感に苛まれながら。
ソニアを守らねばと、朦朧とする意識でイドラは手を伸ばした。
しかし、その時苦しげにうめいていた声は……。
確かに誰かが発していた。そしておそらく、その主は。
……ベルチャーナだ。
(そうだ、方向からして……あの声はベルチャーナだ)
いつもあっけらかんとして、爛漫な彼女。修道服は、船に捨ててしまったが、ミロウに並ぶ優秀なエクソシスト。
その笑顔の裏で、幼少期に家族をイモータルに殺された重い過去がある。
箱舟に至る旅の途中、丸い月の下で、彼女が語ってくれたことだ。当然イドラは覚えている。
(そして、ベルチャーナも、こっちを向いて——)
彼女はあの瞬間、なにをしていたのか?
そして今なにをしているのか? どこへ転移したのか? レツェリは?
わからない。そのことが、なぜか無性に気がかりだった。
そして、なによりも。
昇降機でソニアに手を伸ばした時。必死さから、周囲を見る余裕はなかったけれど。
あの時はベルチャーナもまた、こちらを見て。
——その手を、伸ばしていたのではないか?
*
意識を取り戻してすぐ、夕暮れをいっぱいに吸い込んだような橙色の瞳と目が合う。
「イドラさんっ!」
「ソニアか……僕、どれくらい寝てた?」
イドラはベッドに寝かされており、ちょうどウラシマがいたのと同じような病室にいた。
ソニアは答えず、目に涙を浮かべながら胸に飛び込んでくると、顔を埋めたままひしと抱きしめてくる。
この動揺っぷりでは、一時間や二時間ではなさそうだな、とイドラは思った。
「安心した。このままワタシの代わりに寝たきりになったら、責任感で胃がねじ切れていたよ」
「あ……先生!」
胸の中で泣きじゃくるソニアをなだめつつも、声の方に頭をめぐらせる。そこには、壁のそばからこちらを見つめるウラシマの姿があった。
ただし、病衣のまま、それも車椅子姿で。
「——先生、その、足は。僕のギフトじゃ治りきらなかったんですか……?」
「大丈夫だよ。本調子じゃないっていうだけで、方舟の医師が言うには、じきに元に戻る。今だって、その気になれば少し歩くくらいはできるから」
寝たきりだったせいで筋力の低下も激しいからね、とウラシマは笑ってみせる。
その言葉に嘘がなくとも、痛々しい姿にイドラは眉を落とした。
肉体そのものに異常はないはずだった。だが、やはりコンペンセイターによる意識の再接続は強引なもので、肉体と精神が元通りになじむまではもうしばらくかかるようだ。
「……そんな顔をしないでほしいな。本来、ワタシは一度死んだんだ。それを救ってくれたのは、まぎれもないイドラ君なんだから」
「先生……」
「ありがとう、イドラ君。そして、すまなかったね。キミにはあまりに多くの負担を強いてしまった。こんなつもりでは、なかったんだ」
「そんな。頭を上げてください、僕の方こそ——」
ひじ掛けにある手を膝の上に移し、ウラシマは深く頭を下げた。
そんな風に謝ることなどなにもない。イドラは慌ててそれを止めようとし——すぐに言葉に詰まった。
「——え、ぁ……? なんだこれ、なんで……あれ?」
代わりに、ぽろぽろと涙があふれてくる。熱いその粒は、拭っても拭っても止まらず、頬を伝って流れた。
その様子に、胸の中のソニアが顔を上げる。
「よかったですね、イドラさん。また、ウラシマさんと話すことができて」
「う……っ」
「わたしはなんだかちょっぴり、悔しい気持ちもありますけど……でもやっぱり、よかったです。本当に」
——もう話すことなどないと思っていた。
話せないと思っていた。その機会は永久に失われ、この記憶もいずれ摩耗して消えてなくなり、顔も声も、優しく頭をなでてくれた感触も忘れてしまうのだと思っていた。
しかし、それより先に、こうして再び会うことができた。生きている姿で。
どんな天恵よりも貴重な奇跡を前に、すべての苦難が報われたような、そんな喜びの涙が自然とあふれる。
そしてそんなイドラを二人は優しい表情で見つめ、感情の奔流が収まるのを待ち続けた。
「……ごめん、もう平気」
しばらくしたところで、イドラははぁと息を吐く。まだ目の周りは赤かったが、涙は止まっていた。
「ふふ、貴重なイドラさんの泣き顔、いっぱい見ちゃいました」
「忘れてくれ」
「忘れませんよ!」
ずいぶん情けない姿を見せてしまった。
しかし、弱みを晒すのが初めてというわけでもない。だいいちソニアも泣きじゃくっていたばかりだ。泣きっ面を見せる程度、ソニア相手なら今さらかもしれなかった。
「ワタシとしては、見慣れたものだけれどね。ほら、イドラ君、故郷の村でよくからかわれて泣きべそかいてたから」
「え? そうなんですか?」
「ちょ……! な、泣きべそは言い過ぎですって。そりゃあ、ザコギフトだなんて言われてへこんだりもしてましたけど」
「あはは。イーオフ君にだよね」
「そんなことが……! イドラさん、あんまり故郷の話してくれませんからすっごく気になりますっ」
「興味があるなら今度話そう。イドラ君には秘密でね」
「ぜひ! お願いしますっ」
妙な結託が生まれるのを、イドラは苦虫を噛みつぶしたような顔で眺める。
それにしても、イーオフとは懐かしい名を。旧友に思いを馳せていると、「さて」と、真剣な表情に切り替わったウラシマが、ハンドリムを使って車椅子ごとベッドのそばに寄ってくる。
「イドラ君が目を覚ましてくれてよかった。だけど……こうして命を救われたワタシが言うのは筋違いかもしれないが、それでも、キミには言わなくちゃいけない」
「先生? なんですか、改まって……」
先生と呼ばれるたびに、ウラシマはどこか、申し訳なさそうな顔をする。
「ワタシはキミの師たりえなかった。なすべきことを、果たすべき責務をまっとうできず、まだ子どもだったキミに引き継がせてしまった。ひどく愚かな女だよ」
「そんなっ、僕は先生がいてくれたから……! 先生が認めてくれたから、ここまで——」
「ありがとう。心の底から、キミの信頼をうれしく思う。そしてだからこそ……自分が助けられたことを棚上げして、こう言わせてもらう。——あのギフトの力は、もう使っちゃダメだ」
「えっ?」
真摯な瞳で、まっすぐに見つめながらウラシマは告げる。ギフトの力を使うな、と。
あのギフトというのが、コンペンセイターを指しているのは明らかだ。
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