第13話 星のいない空
「先生は……っ!」
鎌に貫かれてまだ血を漏らす腕を治す暇すら惜しく、イドラはすぐに散らかった部屋を出て外へと戻る。そして庭に入り、綺麗に整えられた花壇の、その上でぐったりと仰向けに倒れる女性のもとへと駆け寄った。
「——先生! ウラシマ先生っ!!」
同じような髪型をして、同じような服を着ているだけの、まったく関係のない女性。
なんてことがあるはずもない。それは近くで見ても間違えようもなく、イドラが憧れ、イドラに選択を提示した、ウラシマその人だった。
すらりとした四肢を投げ出し、長い髪を散らしている。まぶたは閉じられているが、首から漏れて花壇の下にまで広がった、赤い赤い液体が単なるうたた寝でないことを明白に物語る。
これは、もう、絶対に死——
「い、いや……! そんなはずない、そんなはずない……!」
肌の色はわずかにくすみ、呼吸を手放した肺は胸をピクリとも持ち上げず、薄っすらと開かれた唇はなにも喋ろうとしない。
それでも一縷の望みを信じてイドラは、マイナスナイフを握ったまま、投げ出された手におずおずと触れてみる。柔らかく、しかし温度に乏しい手のひら。血の付いた、形の戻らない指。
まるで死体のようじゃないか。
「あ……あ、ぁっ、あ」
違う。
違う違う違う。
寒くもないのに歯がガチガチと音を鳴らす。手が震え、柄を取り落としそうになる。
だが、震えは抑えねばならない。今からこの手で傷を治すのだから。
(そうだ……傷を治せば、きっと、先生は起きてくれるはずだ。いつものように優しく笑って、イモータルを倒した僕を褒めてくれるはずなんだ)
祈るような心地で、震えを懸命になだめ、細い首にマイナスナイフを近づける。水晶を思わせる深い青の刃が、酸化し始め赤黒くなりつつある血液に濡れた傷口に触れる。
刃はいつものように、すっと沈み込んだ。
刺し込まれた負数の青が傷跡をなぞる。傷に変化はない。血の気のない肌も、冷たい手も、指も胸もまぶたも唇もなにも変わらない。
「……………………なんで」
祈りは届かなかった。雲の上の神は恵みを落としても、救いまでは与えない。
「なんでだよッ!」
声を荒げ、もう一度傷を切る。それで死体の損壊が大きくなることはないが、傷が塞がることもなかった。
手の震えは止まっていた。イドラは奥歯を砕けそうなほどに噛みしめ、ウラシマの体にのしかかるようにして身を乗り出すと、逆手にしたナイフを振り上げる。
「治れ!」
懇願と憤りが混じったような声で、今度はウラシマの胸へと振り下ろす。青い刃が深々と突き刺さるも、やはりなにも起こらない。
イドラは諦めず、ナイフを引き抜いてさらにもう一度振り上げる。
「治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ!」
振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。
「——治れよぉッ!」
だが、どれだけ胸を突き刺そうとも、死体は死体のままだった。
当然の帰結。いくら傷を治せるマイナスナイフでも、死までは還せないのが世の理だ。
「あ、ぁ、あぁあぁああぁあっ!」
現実から目を背け続けることもできず、イドラは後ずさり、地面にぺたりと尻もちをつく。
死んでいる。ウラシマは、どうしようもなく死んでいる。
救う手段はなにもなく、助け出すには遅すぎた。
「なにが……、なにが希望だ! こんなものぉ!」
ウラシマが希望と呼んだギフトでは、死を越えた怪物を死に引き戻すことはできても、死に墜ちた大切なひとを引き上げることはできない。
天より恵まれた唯一のナイフを、衝動的にどこか遠くへと投げ捨ててしまいたくなり、イドラは腕ごと振りかぶる。が、それさえできず、力なく手を下ろした。
絶望感と無力感が同じだけ、小さな肩を押しつぶす。
ウラシマの体はほとんど濡れていない。オルファに殺された時、雨はもう止んでいたはずだった。
(僕が……もっと早く駆けつけていれば)
イドラが村に戻ったタイミングなら、まだ間に合ったかもしれない。もっと速く走っていれば。それとも、イモータルを倒した後、村の中ではなくこっちに向かっていれば。
いや。それより明確なタイムロスがあったではないか。
「僕が、あの時イモータルを躊躇なく殺していれば」
あの時。森でイモータルを殺す時、イドラは一度ためらい、そのせいで一度逆に殺されかけた。理性なき怪物にさえ、命らしきものを奪うことに憐憫を覚えた。
その代償が、これなのだとすれば。一切のためらいを持たず、即座にあの化け物を砂にしていれば、すぐに村に戻り、いくらか早くオルファの家に来れたはずだ。
後悔が渦を巻き、足元から全身を包む。取り戻せない『もしも』をいくつも、何度も頭の中で
それは現実逃避と言って間違いない。泥沼に浸かったように、過去にのみ思考を巡らせて、現在と、そこから連続する未来を考えないようにしている。
「…………?」
ともすればいつまでも、朝が来るまで続いてしまいそうなその逃避を、イドラの視界の端に映り込んだなにかが止めさせる。
花壇に倒れるウラシマ。もちろんやはり、さっきと同じで、その肢体には生気がまるでない。
しかしイドラが気になったのは、その手だった。
さっきはなにも思わなかった。否、思うことができなかった。そんな余裕は一片たりともなかった。今だって精神にゆとりのある状態とは到底言い難いが、失意の中、ふと見咎めたその色に疑問を抱いた。
「なんで、指に血がついてるんだ」
ウラシマの右手、その弱く曲げられた人差し指の先は、やや乾いた赤黒の血が付着している。
なぜだ? 出血があるのは首だけで、指に怪我なんてないはずだ。
これではまるで、広がった血に指先だけを浸し、なにか文字でも——
「——まさか」
マイナスナイフをケースに仕舞い、イドラは這いずるようにしてウラシマの周囲を探る。
それがあったのは、彼女が倒れる花壇の側面だった。倒れながら書いたためか、向きが逆さになった端的な一文。
「ええと、雲の、上に……行け?」
——雲の上に行け。
逆さまなうえに、血で書かれた文字はほとんどかすれていて判読は難しかったが、確かにそう書かれているようだった。
致命傷を負い、命がけで遺されたメッセージ。だがイドラにはまるで意味がわからなかった。誰に宛てているのかさえ。
「なんだよ、これ。先生はなにを、どうしたかったんだ」
思えばイドラは、ウラシマの目的について深く知らない。イドラのギフトを希望と称した彼女が、具体的になんのために旅をしていたのか、イドラは聞いていない。
そして、それを尋ねる機会は永遠に失われた。
結局は失意が増しただけだ。見なければよかったとまで思いながら、イドラはまた力なく地面にへたり込む。
そうしていると、次第に体の痛みを思い出してきた。
これから段々と夜も深くなる。ずっと、こうして彼女の亡骸のそばにいるわけにもいかない。
「……そうだ、人を呼んでこないと」
また、家の中で寝かせたオルファのことも思い出した。
望郷のシスター。ねじ曲がった想いで、村のみんなを殺そうとした。そんな人間を放っておくわけにもいかず、村長や大人の人を呼んで処遇を決めてもらう必要がある。
十三歳のイドラが抱えるには苦しいことが起きすぎた。
後のことは、大人の誰かに任せよう。漠然とそう考え、ふらついた足取りでイドラは村へと戻る。道中、歩きながらマイナスナイフで目に見える範囲の傷は治した。
それでも、憧れていた人と親しんでいた人を、同時に二人失くした心の痛みは強くなる一方だ。
村に戻ったイドラは、村長に軽く事情を話し、彼を含む四人ほどの大人とともにオルファの家へとさらに戻ってくる。
まずはオルファの方だ。まだ気絶から目覚めておらず、彼女の身柄はそのまま拘束された。子どもの言うことを信じてくれるかという一抹の不安はあったものの、イドラのそんな思いとは裏腹に、村長はイドラが話すことに真摯に耳を傾けて信用してくれた。オルファはこのまま明日にでも離れた町の葬送教会の本部へと送られ、そこでなんらかの罰を科せられることになるだろう。
次に、ウラシマの死体を運ぶべく、イドラたちは庭に出た。
ロトコル教ではほぼ例外なく土葬が行われる。神にいただいた命を、神の創った自然へと返すのだ。ただ今日は日も遅いため、村の方へと亡骸を運び、明日に葬儀を行うという話だった。よそ者の旅人と言えど、魔物に襲われた村の危機を救った以上、出来る限り丁重に扱うのが村長の意向だった。
そして、庭に出た五人は、誰もいない庭を見た。
「これは……どういうことだ、イドラ?」
「え……わ、わかんない。わかんないよ」
花壇にはべったりと広がった血の跡がある。花はへし折れ、また側面には例の謎のメッセージも残っている。
だというのに、ウラシマの死体だけが、忽然と消失していた。
イドラが村を往復して、目を離したのは三十分程度。その間に、二度と動かないはずの彼女の姿は影も形もなくなった。
近づいて探してみても、どこにもウラシマの死体はない。
だがひとつだけ、遺物と呼ぶべきものがあった。花壇の上にぽつんと、彼女の身に着けていた黄金色のブレスレットが置かれていたのだ。それに気づき、イドラは困惑したまま拾い上げる。
今のイドラには少しばかり大きく、よほど大切にされてきたのか傷ひとつない腕輪。過度な装飾はなく、よく見れば茨のようなレリーフが施されている程度で、太さも普通くらいのこれといって変哲のないものだ。
「教えてよ、先生……なにが起きて——僕はこれから、どうすればいいんですか」
遺体の周囲には、動物や魔物の痕跡は一切ない。けれど夥しい血痕は確かにそこで、誰かの命が損なわれたことを示している。
まるで死体が起き上がり、自ら歩いてその場を去ったかのようだった。
疲労に満ちたイドラにその謎を解き明かす気力などあるはずもなかった。肉体の損傷はマイナスナイフが消してしまったが、精神は、とうに限界を越えている。
血のメッセージ。消えた死体。追究せずとも、わかることがいくつかある。
ウラシマは死に、もう会えない。死は覆せず、声を聞くことさえできない。リティと話して決心した、旅への同行も、永遠にその機会は訪れない。
夜風が吹き抜け、雨に濡れた服のせいで冷えたイドラの体をさらに冷たくする。
遺された腕輪を両手で包むようにしながら、呆然と立ち尽くす。
悲しみはまだ来ない。実感が追いついていないのだ。今はただ、夜闇と同じ色と大きさをした無力感だけがイドラの心を占める。
空には未だ、厚い曇天が夜に蓋をするかのごとく被さっており、いくら見上げても、輝く星々は少しもイドラの瞳に映らなかった。
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