第6話 勇気
感謝祭が終わって二日が経っても、ウラシマの問いはイドラの中にふわふわとした浮遊感を残した。
——キミは、ワタシといっしょに来てほしい。
目を閉じれば、きらめく満天の星の下で向けられた、選択を迫るその夢のような言葉が脳裏をぐるぐると巡る。
ウラシマのことを抜きにしても。この、胸の中にある強い感情——まだ幼さのベールに覆われたそれは、憧れの二文字で言い切ってしまっていいものなのかイドラには判断がつかなかったが——をいったん横へ置いておいたとしても。
イドラは村の外へ出たい。旅に出たい。
それこそ、純粋な憧れだった。狭い村を出て、世界の壁を越えて、多くのものを見てみたい。
(けれど、それは……)
今日までずっと愛し、育ててくれたリティを独りきりにさせることになる。なにかあった時、力になれる家族はいなくなる。
そんな選択をしてしまって、本当にいいのか? 昼食を終えたばかりのイドラは自室のベッドに寝転びながら、苦悩を吐き出すようにため息をついた。けれどもそれで物事はなんら解決しない。
ウラシマは、まだしばらく……イドラが大きくなるまでは待ってくれると言ってくれた。だから今すぐに答えを出さなければならないわけでもないが、待たせるだけ待たせてやはり行かない、というのも酷だ。決断はなるべく早くした方がいいだろう。
「でも……母さんを独りきりにさせるなんて、僕は」
これから年老いていく母を、この家で独りにさせていいのか。いいはずがない。
しかし、ならば自分は、この閉じた村の中で一生を終えるのか——
「……?」
部屋の外。窓の向こうが騒がしいことに気づき、イドラは思考を打ち切った。
外でなにかあったのだろうか? ともあれ、この鬱屈とした袋小路の苦悩から逃れたいということもあり、イドラは家から出てみることにした。
「魔物だああぁぁ——っ! 魔物が入ってきたぞぉ——ッ!!」
「え……!?」
もう感謝祭も終わったっていうのに、なんの騒ぎだろう。そう思いながら家のドアを出た途端、イドラの耳に入ってきたのは切迫した空気を孕んだ誰かの叫び声だった。
魔物。
世界中に分布する、野生動物とは一線を画した様々な怪物の総称。
「魔物だって……!」
騒ぎは村の入口の方から聞こえていた。プレベ山の方角だ。
幼いころから母に、村の人たちに聞かされてきた化け物。そしてウラシマが来てからは、旅のエピソードとしても多く語ってもらった存在に、体が怯えを示しそうになる。
しかしそれより先に、イドラは母のことを思い出した。
今朝からリティは洗濯で出かけている。だがいくら洗濯場が山の方とは反対側の、森近くの川にあるのだと言っても、もう昼を過ぎている以上とっくに仕事は終えているはず。なら誰か洗濯場でバッタリ会った主婦のお家にお邪魔して、昼食でもご馳走になっている頃だと思われた。
(村には戻ってきている可能性が高い……魔物が村の中で暴れたら、母さんも危ない!)
母の身に迫る危険に思い至ると、イドラはすぐさま走り出した。
村に独りきりにさせるだとか、そういうことで悩んでいる場合ではなかった。このままでは最悪命を奪われかねない。
それに危ないのはリティだけではない。ウラシマに、イーオフ、村長——
村のみんなの顔が頭に浮かび、それらが失われることを思うと背筋が凍りそうになる。
「ァオオオオオオオオォォォォォッ!!」
村の入口付近にたどり着いた時、既にその怪物は周囲を荒らして暴れまわっていた。
黒い毛並み、四足歩行の獣。しかし単なる動物でないことは、背中に生えた、突き刺さっているようにも見える鋼色の鉱物めいた器官から明らかだ。
魔法器官——魔法を起こすための、魔物だけが持つ特殊な器官。またそれだけでなく、爪や牙も鋭く異常に発達している。それらを除けば狼に近いが、体長はどう見ても二メートルを超えており巨大だ。
それが三匹。家の壁を爪で壊し、木製の柵を噛み砕き、逃げ惑う村の人々の背に咆哮を浴びせる。
「三匹も……」
既に魔物は村の内へとなだれ込み、穏やかな村人の日常を野生の暴力で侵していた。
三匹の怪物は、これといった統率もなく、本能のままに動き回る。村人たちはその嵐に巻き込まれぬよう、破壊される家や物を捨てて逃げ惑う。
しかし一人の子どもが、子どもがゆえの足の遅さのせいか魔物の一匹に狙いを定められ、今まさに追いすがる牙に噛みつかれそうになっていた。
「うわああああああああぁぁぁぁ!」
少年は半ばパニックを起こした様子で、もつれそうになる足を必死に回すして走る。背丈はイドラよりやや高く、その髪は特徴的な赤色をしていた。
「イーオフっ!」
「ぁ、イ、イドラ……? た、たす——いっ、いや、逃げろ!」
よくよく見ずともその顔は、長年イドラのことを『ザコギフト』と馬鹿にしてきた村長の息子、イーオフのものだった。
恐怖で歪んだ表情を少ししゃんとさせて、走りながらイーオフは叫ぶ。速度的な面でも体力的な面でも、いずれ魔物に追いつかれるのは明白だろう。
そうなれば、十中八九、命はない。
思考の余地さえなく、イドラは腰のナイフを引き抜いた。
「今助けるっ!」
「は、はぁ……!? バカイドラ、とっとと逃げろよ! 勝てるわけないだろ!」
「嫌だ!!」
水晶じみた青い刃が昼光を浴びて輝く。イーオフの意地の悪い罵倒は、イドラも日頃嬉しい気はしなかったが、それでも大切な村の仲間だ。
見捨てることなど、どうしてできよう。
「おおおおおおおおおっ!」
「ォォ————ッ」
「イドラ……お前」
逃げる者と追う者、二者の間に体を滑り込ませる。期せず飛び込んできた新たな獲物に、魔物はそれでも構わないとばかりに速度を一切落とすことなく飛び込んでくる。
「ぐぅっ」
砲弾を受け止めたかのような衝撃。身をよじり、斜めに吹き飛ばされることでそのまま肉を食いちぎられるのだけは避けたものの、地面に尻もちをつく。
「ガァァァァァアアアアッ!」
その隙を見逃すほど、血に飢えた魔物の本能は甘くない。馬乗りになるような形で、巨大な魔の狼はイドラの上に覆いかぶさった。抜け出そうとするも、体の大きさも重さも、子どものイドラよりも魔物の方が上だ。なによりその
「う……おおっ!」
跳ねのけないことには
必死の抵抗として、イドラは手に持ったままのマイナスナイフを、目の前の魔物の脇腹に突き刺した。一度で止めずすぐに引き抜いては、二度三度と青い刃を力の限り刺し続ける。
が、魔物の体には傷ひとつできはしない。ATKがマイナスのギフトをいくら使おうが、なんらダメージは与えられない。頭が真っ白になったイドラにそんなことを考える余裕はなかった。
「ァァァア——ッ」
しかし傷はできないくせに痛みだけは生じるからか、苛立たしげな鳴き声を出して右の前足を上げた。
拘束が緩んだ——
「ぐッ、ぇぇ」
——そう思ったのもつかの間、上がった足を今度は胸に強く下ろされる。
肺を強引に潰され、イドラは骨が軋むメキメキという音と、空気が喉を通って吐き出される音とを聞いた。鋭い爪の先が服の上から肉に食い込み、皮膚が裂かれて血がにじむ。
「ぁぁぁぁあああああああああ!!」
体重をかけられ、さらに体が圧迫される。牙や爪、魔法を使わずとも、ただこうして潰すだけで殺されてしまいそうだった。
左手で必死に前足をほどこうとするも、力で負け、こうして上に乗られた状態でそれができる奇跡など起こるはずもない。前足にかかる重みが増しているのか、それともイドラに抵抗する力が失われてきているのか、毛に覆われた黒い足はさらに深くイドラの体に食い込む。
「ぁぁ、あ——」
呼吸もできない。息が続かず、声も上げられなくなる。口の中は血の味がする。
酸欠のせいか、目も霞んできた。
(…………死ぬ、のか? 僕は)
食い込んだ爪がわずかにズレて、皮膚やその下の筋肉がこそぎとられる。焼けるような痛みが意識をいくらか鮮明にさせ、否応もなく死を意識させる。
魔物の前に立ちはだかるなど、無謀が過ぎたのか。このまま体を強引に踏み潰されてぺちゃんこになるか、首や頭蓋を噛み砕かれて死ぬであろう数秒後の自分を幻視しながら、イドラの中で後悔が頭をもたげる。
イーオフを見捨てていれば、こんなことには——
(……違う)
それは違う。友達を見捨てて生き延びても、つらいだけだ。
悪いのは自分だ。
自分の、ギフトだ。
かすんでいく意識の中、だんだんと力が失せていく四肢の、唯一頼みの綱のように右手が力強く握りしめる、自分だけの短剣を意識する。何度も刺突した魔物の脇腹からは、血の一滴も流れていない。毛の下の皮膚にはなんの負傷もないだろう。
マイナスナイフ。役立たずの、無能の、外れ。ザコギフト。
「違う!」
それも、違うはずだ。
息の絶えた肺を、別のものが満たす。強く熱を帯びた感情が。あの優しい眼から受け取った想いが。
満天の星を思い出す。その下で告げられた、夢のような言葉が蘇る。
「希望だって言ってくれたんだ……先生が!! 僕のギフトを、すごいものだって——!」
そんな自分がここで死んでいいはずがない。奥歯を噛み砕く勢いで食いしばり、イドラは手を伸ばした。
マイナスナイフを持つ右手ではなく左手。魔物の頭、耳の辺りを鷲掴む。
「オォ——ッ!」
ぐったりとしかかっていた獲物の予想外の反抗に、魔物は牙を剥き出しにして噛みつこうとする。が、腕を引くイドラの方が早い。
頭を引き寄せ、太い首がすぐ間近に晒される。イドラはそこへ、またしてもマイナスナイフをぐっと余力の限り突き刺した。
刃自体は通る。ろくな抵抗もなく、水晶の刃は魔物の皮膚をすり抜けていく。先に証明された通り、マイナスナイフにあるのは負の刃だけ。なにも切れず、なにも断てない。
イドラの一撃は正常な判断を失った、破れかぶれの行動だったのかもしれない。
「やあああああああぁぁぁっ!!」
しかし、己のギフトを信じた彼は、奇跡のような可能性を手繰り寄せる。
刺したナイフを、喉奥ごと掻き切るように真横へ振り抜く。すると魔物は声もなく、糸の切れた人形のごとく、一瞬にして力なく倒れこんだ。鋭かった眼光は消え、呼吸も停止している。
なにも断てないはずのナイフは確かに、命を絶っていた。
「……ぇ? 倒せた、のか? なんで……」
その結果に驚いたのはほかならぬイドラ自身だ。上に乗っかってきていた魔物が倒れこんだことで、自由を取り戻した上体をやや起こし、痛む肺で息を吸う。
軽く目を向けてみても、やはり魔物の首には少しの出血もない。一切の血も出ず、傷もない。
だが魔物は死んだ。一体どうしたことだろうか。
イドラは、まだ血の上った頭で、偶然にも答えにたどり着いた。
「脳が、勘違いする」
——実際には怪我ひとつないのに、夢の中で全身がバラバラになったりすると、本当にそうなったんじゃないかって勘違いして、自分から生きることをやめちゃうんだ。
それはウラシマが、少し前、悪夢に悩んでいたイドラを元気づけるために教えてくれた、夢の中の話だった。今も生きているのだから、幸運なのだと。
当然ここは現実で、夢でもおとぎ話でもない。少なくともそうイドラは認識している。ところがマイナスナイフは、決して誰もなにも傷つけないが、そのくせ痛みだけはあるのだ。
現実として、頸部には傷ひとつない。が、首をナイフを突き刺され、断たれたのと同じだけの痛みの電気信号が神経に走らされる。その度を越えた激痛に、『死んだ』と体が勘違いして生命活動を終えてしまったのではないか——
そうイドラは考えた。
(仕方がなかったとはいえ……それほどの痛みを与えたのは、ちょっとかわいそうだな)
虫も殺せない、殺したくないイドラにとって、理性なき魔物であってもいくらかの憐憫は自然と向けられた。ただ、死の局面を越えられた安堵による精神の弛緩は耐えがたく、イドラは深く息を吸って吐く。
それが極めて致命的な隙を生んでいるのだと気付かず。
「イドラッ、危ない!!」
「え?」
死の危険はなんら、去ってはいない。
村に入り込んだ魔物は同種が三匹。仲間の死に気付いた残り二匹は、各々で暴れるのを止め、仲間を殺した相手を明確な目標と定めて駆け出していた。
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