第4話 母親(応答なし)

「いてっ。……うーん、傷を治してるはずなのに、痛むのはちょっと変な感じだ」


 傷を治す。無力だとばかり思っていたギフトにそんな思わぬ効能があることを知った、翌々日。

 イドラがいるのは家の自室だ。ベッドと机くらいしか置かれていない狭い部屋だが、日当たりのいい窓があるため閉塞感はない。

 机の上に腕を出して、手首の内側を浅く通常のナイフで切り、その傷の上からさらにマイナスナイフの刃を押し付ける。やはり傷を治癒させるのが自身のギフトの能力と見ていい……傷口が跡形もなく消失したのを確認しながら、イドラはそう結論付ける。


(でも、血の方は戻らないんだな)


 傷は嘘のように消え去った。が、ぽたりと机に落ちた血までは消えず、机を汚してしまっている。

 思えば一昨日、指先の傷を治癒させた時も、マイナスナイフの青い刃先には血がついたままだった。

 もしも仮に。胴体が真っ二つになったとして——


(もちろんそんな状況は絶対にイヤだけども……!)


——マイナスナイフを使って傷を治そうとも、流れ出た血液までは返らず、多量の出血までは防げないのだろうか。

 いや、そもそも体が真っ二つになれば、それはもう『傷を塞ぐ』程度ではどうにもならない。

 それとも、このギフトであれば、どうにかできるのだろうか?

 体がちぎれても、断面を即座に修復してしまうのか……あるいは断面同士を癒着させることさえ。

 腕が吹き飛び、脚がもげても。この青い水晶の刃を突き立てれば、想像を絶するであろう苦痛の後、ふっと何事もなかったかのように四肢が再生するのかもしれない。


「……その『かもしれない』を試す度胸は、僕には絶対にないな」


 イドラに試せるはずもなかった。

 だいいち痛いのは心から嫌だし、試しに腕ちょん切ってみたら再生しませんでした、では笑い話にさえならない。

 けれども——解決策というか、そういった自身へのリスクをなくす方法もないではないのだ。

 他人でやればいい。そうすれば、少なくとも自分の手足に影響はない。

 ……無論、それは『ギフトの効能を試す』という理屈の上だけの話であり、すぐにそれは倫理的な別の理屈によって容易く否定される、間違っても心優しいイドラが実行することのない方法だ。


 ならば人以外ではどうだろう?

 動物。村の中には羊くらいしかいないが……森に出向けば、もう少し色々といるだろう。

 あるいはもっとスケールを下げて虫でもいい。

 そこらの昆虫の、何本もある足を一本ちょいともぎとって、マイナスナイフの効果がどのように作用するのかを実験することは、倫理的に悪だろうか?

 否だ。なんならこの世界における普遍的な価値観では、ギフトの能力を試すという名目であれば、犬猫を殺そうが強く非難はされまい。


(まあ、今は厳密なところはわからなくても、いいか。僕もまだ子どもなんだ)


 それでも、イドラはやめておくことにした。小さい命を自身の都合で使い潰すことは、どこか間違っている行為に思えた。

 地を這う蟻も、花にたかる羽虫も、ロトコル神が与えたもうた自然の一部。

 イドラは特段ロトコル教を深く信仰し、神に熱心に祈るような敬虔な子どもではなかったが、自然を大事にするという教義はどちらかといえば好きだった。


「……うん、今日はこのくらいでいいか。重要なのは、少なくとも傷は塞げるってことだ。これならきっと——」


——もし村を出ても、役には立つ。

 そう思うと、イドラは胸の奥底でなにか、煮えたぎる熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 その正体について今は深く考えない。いつかは形にしてしまうのだろうが、まだ先のこととしておきたい。どうしてそう思うのかは、よくわからなかった。

 ともかく、机に落ちた血を拭いて、キッチンから拝借してきたナイフを戻してこよう。

 イドラはまずマイナスナイフを肌身離さず付けた腰のケースに仕舞い、それから机の上の血痕を拭うべく、布巾かなにかがないかと部屋を探そうとしたところで、


「イドラー? 台所に置いてたナイフ知らな…………」

「あっ。母さん」


 ひょこりと、部屋の入口に背の高い女性が姿を現す。イドラと同じ茶色の髪を、邪魔にならないよう片側にまとめている。

 名をリティ。血のつながったイドラの母だった。

 リティは部屋の入口に立つなり、服の袖をまくって手首を露出させたイドラを見て、それから机の上に残る血痕を見て、さらにそのそばの右手側に置かれた細身のナイフを見ると、途端にぽかんと口を開けたままなにも発さなくなる。

 そして停止フリーズした機械のごとく、数十秒が経つと、かっと目を見開いて叫んだ。


「む、息子がリストカットしてる——ッ!!」



 自傷癖のある息子だという誤解を解くのに、イドラはおよそ一時間を消費した。


「ごめんなさいッ、ママってばてっきり、しょっぼいギフトに絶望してイドラが心を病んじゃったのかと……」

「してないしてない。むしろ実の母にしょっぼいギフトだなんて形容を受けたことの方が傷ついてるよ僕」


 いくらザコギフトのイドラでも、それを気に病んで自傷行為に及ぶことはしない。それに——


「そもそも、僕のギフトはもうザコギフトなんかじゃない。わかってくれた?」


 イドラのギフトは、相変わらず草刈りひとつできないが、まったく使い道がないわけでもなさそうだ。

 昨日の出来事を、リスカの誤解を解くべくイドラはリティへと余すところなく話していた。特に、その能力に気付くきっかけとなったウラシマの微に入り細を穿つような指摘について。


「うん……ああッ、改めてごめんなさいイドラ! ママを許して……! ママってば、パパだけじゃなくイドラまで失うんじゃないかって……不安になっちゃって、それでッ」


 イドラに父はいない。

 生まれてしばらくして亡くなったそうだ。そのためイドラは顔も声も知らない。


「わかってくれればいいんだ。だからそんな泣きそうな顔しないでよ」

「うぅッ、本当? 怒ってない?」

「ほんとだよ。二人だけの家族なんだから、僕もこのくらいで怒ったりしない。これまでだってそうだったじゃないか」

「い、イドラぁッ、ママ、イドラが優しい子に育ってくれて嬉しいわぁ……ッ」


 嗚咽を漏らすリティの背を撫でてやりながら、大げさだとイドラは苦笑する。

 感情の起伏が大きな母は、普段からよく笑い、日々を朗らかに過ごしている。そういうところをイドラは息子として尊敬していたが、こういう部分はもうちょっと抑えてほしかった。


「——で。さっき熱心に話してたウラシマさんのこと、好きなの?」

「ひょわぁッ!?」


 完全に不意を突いたリティの言葉に、イドラは妙な声を出して驚いた。

 その反応が、ほとんど答えのようなものだった。


「わあ、息子ながらわっかりやすい反応」

「え、いや、その、今のは」

「……ま、なんとなくイドラが憧れるのはわかるわ。うん、そっか。あの人はママも悪い人じゃないと思う。まだ壁があるのは確かだけど、話していて誠実さを感じる」

「そ、そう? ていうか母さん、先生と話したことあったんだ」

「あら、ちょくちょくあるわよ。村長を介して、今ウラシマさんの住んでる空き家を紹介したのもママだったし」

「えっそうなんだ。先生はそんなこと一言も……」

「気になるなら、今夜顔を合わせる機会でも見つけて訊いてみるといいわ」

「今夜? なんで?」

「感謝祭。……もしかしてイドラ、忘れてた?」

「あ」


 今日は、年に二回ある、ロトコル教の感謝祭の日だった。

 自分たちを生かしてくれる、雄大なる自然に——そして、それとギフトを賜った偉大なる空の上のロトコル神へ、感謝と祈りを捧げる祭りだ。


「そっか、もうそんな時期か……」


 イドラはすっかり忘れていた。ここ最近、ウラシマのことで頭がいっぱいだったからだ。加えて昨日からは自分のギフトについて考えていたのもある。


「そうだ、今年は焚き火を手伝いなさい」

「え~? めんどっちいよ」

「だめ。イドラも……村の一員なんだから」

「?」


 そう言って顔を伏せるリティは、どこか痛ましい表情をしていた。



 日が落ちて、空に藍色が満ちた頃。村の真ん中にある広場では、大きく火が焚かれていた。

 感謝祭ではたきぎを燃やす。ロトコル神によって賜った自然を、煙に乗せて神のもとへと返すのだ。

 イドラも組むのを手伝ったその炎上するやぐらのそばでは、一人の女性がたおやかに舞い踊っていた。神へ捧げる炎を背に踊る彼女のことを、メドイン村の村人たちがやや距離を開けてまばらに囲い、幽玄なものを前にしたような表情で見つめている。


「リティさん、すっごく綺麗ですねー」


 踊る女性はリティだった。どこかロトコル教の修道服にも似た、肌の露出がない白い衣装をまとい、そのしなやかな右手には舞いに合わせてひらひらと動かされる鉄扇が握られている。

 不思議なことにリティのそば……やや頭上からは、まるで異国の木管楽器のような、柔らかな音色が鳴り響いていた。

 これこそ、リティの鉄扇——旋風扇せんぷうせんの能力だった。

 風を操るというギフトに付加された能力を、彼女は笛に似た音を作る技芸へと昇華させていた。


「素敵な踊りに素敵な音色に、とっても美味しいお肉にお酒。毎日が感謝祭だったらいいのに、イドラくんもそう思いません?」

「あはは……」


 前半がなければ、敬虔なシスターさんだと感服できるのに。

 家のそばからリティと炎とを視界に収めながら、イドラは隣で修道服の上からお腹をさするオルファに苦笑いを返した。オルファの胃には羊肉とエールがしこたま詰め込まれた後だった。


「ああ、それにしても綺麗。リティさんもそうだけれど、この音はとても好きです、あたし」


 グリーンの瞳に、赤い火を映し出しながら小さく呟く。

 母親相手というちょっとした複雑さから、口にこそしなかったが、イドラも同じ思いではあった。

 リティは綺麗だった。観客を魅了する踊り子の蠱惑的な色気ではなく、そこには天の神を身に宿すかのような、清廉かつ神聖な美しさがあった。

 普段の朗らかでおおらかな母とは違う一面。ふとイドラは、普段自分の目で見ている母の姿が、リティのすべてではないことを意識した。

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