第百八十六話 飯屑の視る夢
私はただいまとは言わない。自分を惨めにするだけだから。苛立ちをカウントする切れかけの白熱電球を割って、小蝿を焼尽してしまいたい。
この家に染み付いた饐えた匂いは、疲れた私から『人』の色彩を剥いでしまう。私の長い髪は黒紅色を取り上げられ、目障りな白銀へと化す。望まずとも
ようやく顔を上げた
ああ……
「……
私は耳を掠めた小蝿に我慢出来ず、白熱電球を
「いい加減にして! 私は
炎陽が『愛のある普通の父親』であると思い込まされていた私が喰われる直前になって、ようやく
「私を迎えに来てくれたんでしょ。待ってたよ、炎陽」
餌になった、飯屑の顛末がこれか。喰われぬ廃棄品は、腐る前の夢を見る。さっさと土に還れば、皆幸せなのに。嗅覚を封じたくて、私は口を
「また
目
――喉が鳴った。
いっそ、
「いいよ。食べてあげる」
私は誘惑的に微笑する。きっと今の私は
おぞましい体温は血流を、火口を目指す
白皙の肉を穿ち、舌にもたらされるのは零れんばかりの甘露。強烈な
痩せこけた母の背を縋るように抱くと、あまりにも軽い。零れたはずの『私』が寄せ集められて、現実に再構築されていく……冷えた肌を粟立てる恐怖で。
「……お母さん」
牙を離しても、芽衣は答えない。消えかけの母は、虚ろの
「芽衣」
だから私は、母の名を呼んだ。
多分、私はまだ消えたくないのだ……。
腐ってがらんどうなはずの私は、まだ希望を失っていない事を自覚する。何故だろうと、答えを見つける為に私は瞼を閉ざす。
――そうか。私の光は、秋陽。
まだ生きることを諦められない。私には彼女が居るのだから。
私は眠りへ落ちた母を横たえ、膝を抱えて朝を待つ。薄いカーテンから朝日が差し始めたら、この家を出よう。秋陽に会う為に、少しでも早く学校へ向かいたい。
決意を込めて、カーテンを睨んでいたはずなのに。うつらうつらと船を漕ぐ自分に気がつく。朝日はもう差し込んでいた。散乱する酷い部屋を晒され、自らの穢れを洗い流す必要に結びつく。ぬるいシャワーを虚ろに浴び、母の眠る部屋へ戻ると……何かが空っぽな自分が居た。
なんだろう、自分でも分からない。立ち上る湯気と共に魂でも抜かれてしまったか?
静かに眠る母は憑き物が落ちたように、安らいで見えた。いつもこんな風に穏やかでいてくれたら、普通の
私を浄化してくれるような静寂の早朝の中、蘇る日差しを浴びた。誰もいない道は、心地良いようで空虚。こんな絵本の世界があったら、私は彷徨い続けてもいい。
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