第百五十話 穢れた愛


 煙管を得る為の道を往くには、彼女の名を呼ばねば。そして私は、罪を告白しなければならない。客人である濡羽姫わたしの付き人を命じられた彼女は、私の気配を『 折紙影絵おりがみかげえ』で把握しているはずだ。

 

翠音みお


 私の一言で黒い燕の折り紙は飛来して、影の輪となった。片膝をつく翠音が、深淵よりでる。『猫屋敷』の守護を務めるせいか、彼女の着物は華美が無い。

 琥珀の短い髪はサラリと、私を見上げた彼女の頬を撫でた。感情を纏わないからこそ、翡翠の瞳は硬質に飾られている。何も言わぬ彼女の代わりに、絢爛けんらんな孔雀の尾羽は秘めたる意志を鮮やかに示す。けもの耳はスッと伸びやかに、私のめいを待っていた。 

 

「私は貴方に、

 

 私が慎重に紡いだ一言に対して、流石の翠音も直ぐには返答出来なかったらしい。僅かに琥珀の睫毛を羽ばたかせ、思案している。


「……私は貴方様を恨む理由などありませんが」


「それは、だけ。今に私は、翠音から安寧を奪う。……この口で」


 忌まわしい牙を隠す唇が許せなくて、爪で抉ってしまいそうになるが……いつか私を大切に想ってくれていた人達の存在を思い出して、腕を下ろした。

 傷など治ってしまう今のわたしには無意味な逡巡だったと、すぐに気づいてしまったが。


「私は貴方の妹を殺したの。……咲雪さゆきはここで産まれたんでしょう? 」


 翠音は僅かに翡翠の瞳を見開いたが、直ぐに無感情に戻ってしまう。


「そうですね、咲雪は炎陽様とえさとの間の子です。咲雪を殺めた事実について……何故、と問うべきでしょうが。私は人界へ去った自身にも、手向けのは持ち合わせておりません」


 腹違いとはいえ妹である咲雪を、異端者と罵っておきながら……憎悪が無いなど、小さく矛盾している。翠音にはがある。私はそう直感した。


「なら、私の罪悪感の為に聞いて。……隣に座ってくれる? 」


 秘匿とは、時に宝玉なのだ。言葉少ない翠音が隠匿する真実の輝きを、私は知りたくなってしまう。


「咲雪は元々、死を望んでいた。肥大する妖力により死する半妖の運命さだめの重荷に耐えきれなかったのかもしれないけれど。それでも咲雪が自ら死を選ばなかった理由は、と……気づいてしまった私は、十年間悔いてきた。咲雪が生き続ける可能性に賭けず、死の願いを叶えてしまったことを。真実が明らかになれば、咲雪の子である智太郎にされる事くらい、分かってたはずなのに。……私は孤独に怯える、罪深く愚かな子供だった」


 私は抱え込んできた悔いを重く吐き出す。『憎悪』という言葉に、翠音の猫耳がピクリと反応した気がする。

 

、咲雪を憎悪していたから殺めた訳ではないのですか」


「正確に言うと違うのかもしれない。私は、咲雪に亡くなった母の面影を重ねてしまった。私を置いて逝きたがる、死を望む咲雪が許せなかった。そして……智太郎を私と同じ孤独な子にしたかったから」


……憎悪ではなく『愛』で咲雪を殺したのですね」


 心無しか、翠音の淡々とした声音が柔らかくなった気がした。だが嫌悪をあらわにした私は、彼女の一言が受け入れ難い。『愛』とはもっと綺麗な感情もののはずだ。少なくとも、本当の前世で黒曜を愛していた己穂わたしはそうだったはず。

 

「……何言ってるの。こんな穢れた愛があるわけ無いじゃない」


「穢れていても、愛であることには変わりありません。私も穢れた愛を守る為に……を殺すのですから」


「それが囚人である紅音あかね?」


「そうです。私は今も紅音を殺し続けています」


 黎映が救えなかった紅音は、今も囚われの身なのだろう。私は眼前に居ない紅音に、憎悪の理由を問うことは出来ないが……翠音は今、私の目の前に居る。


「紅音が、父であるはずの炎陽を殺そうとした理由は何? 」


 翠音は僅かに眉を寄せた。私も炎陽を責められない。他人の領分へ触れてしまったのだから。


「何故、そのような事を聞くのですか」


「ただの好奇心だよ。答えたくなければ、別にいい」


「私達の母である原初の妖『孔雀』……珠翠しゅすいを殺めたのが、炎陽様だからです。母を愛していましたから」


「翠音は、炎陽が憎くないの? 」


 まるで母を愛していなかったようだ。同じ両親から生まれ、同じ惨劇に心を裂かれたはずなのに、ついなる彼女達の道が別たれてしまった理由は――

 

「私が憎いのは寧ろ……の方です」


 小さく呟いた翠音は、我に返ったように口をつぐんだ。私が望んだ秘匿の宝玉は……恐らく珠翠だ。警戒してしまった翠音はこれ以上を語ってはくれなそうだが。


 だが私には、もう一つ疑問がある。炎陽に刃を向けた紅音を、何故翠音はすぐに殺してしまわなかったのだろう。単純な私は、翠音が姉である紅音を囚人として生かし続ける理由は一つしかないように思えた。


 ――本当は生き続けたかったはずの咲雪のように、翠音は紅音を生かし続けたかったのでは無いだろうか。

 

「翠音は、紅音を……」


 紡ぎかけた私の言葉に、翠音は怯えるように小さく肩を竦めた。……やはりこれ以上は問うべきでは無い。私は、彼女を責め立てに来た訳では無いのだから。


「血の渇望を抑える『煙管』を翠音は持っていない? 生前、咲雪が使っていたの。……私はそれが欲しい」 


「『煙管』ですか……。咲雪が猫屋敷ここに居た時には使っておりませんでした。炎陽様あるじならご存知だと思います」

 

 どうやら翠音は『煙管』について、深くは知らないらしい。私は深く溜息をついた。翠音が知っていれば、会わずに済んだのに。……油断ならないあの男に。


「炎陽のところに、案内してくれる? 」


「畏まりました」


 私が命じると、僅かな感情の起伏さえ閉じ込めた翠音は『従者』に戻ってしまう。名残惜しさに、寂寞が尾を引く。


「翠音ともう少し話してみたかったな。思えば、猫屋敷ここでは唯一の同性同士だもんね」


 案内をする為に先を行く翠音が振り返ると、翡翠の瞳は心無しか柔い光を宿して瞬いた。


「……機会がありましたら」


 小さく微笑を返した私は、期待に歩む足取りが軽くなる。猫屋敷ここは敵ばかりだと、私は錯覚していただけかもしれない。


「無駄な事を。まるで妖にのようじゃないか」


 ある部屋の前に案内された私は、襖の向こうから聞こえてきた炎陽の声に立ち止まる。どうやら、先客が居たらしい。

 

 また別な機会にしようと翠音に告げる前に……私は襖の隙間から香る、な甘い香りで鮮烈に脊髄を貫かれた! 四肢から力が奪われ、嫌な汗が噴出する。意志を否定する強烈な鼓動に、私は床にしゃがみこんだ。駆け寄る翠音の声が、耳鳴りの向こうで鈍く反響する。


 

 ――襖の隙間。私のまなこは、ゆるりと闇の羽が墜ちるのを焼き付けた。


 闇の羽が霞んだ向こう。恐ろしいのに、あかが伝う白い首筋の脈動に狂おしく惹かれてしまう。私の衝動の代わりに、眠るかのじょの首筋へ牙をうずめるのは漆黒の翼の妖。艷めく髪筋から垣間見える、針のような瞳孔に銀の鋭光えいこうを宿す……黒曜だった。


 

 かのじょの首筋に、黒曜が美しい唇を這わせる刹那が、天へと胸を裂く!


 私は、まだ散りゆく幻想に浸っていたの……?


 『人を喰らわない、良い妖』でいて欲しいなんて。

 わたしから目を背けた黎映を罵っておきながら。なんて……自己中心的で、烏滸おこがましいんだろう。

 黒曜が今かのじょを喰らうのは、彼の血を強請ねだった私のせいだというのに。


 冷えた体温で震える私に気づく事無く、黒曜はかのじょから牙を離す。丁寧に首筋のあかを残さずに。

 

「私は無駄だとは思わない。事で、己穂との約束を守ることが出来るのならば」


 私からは見えない炎陽を、黒曜は真っ直ぐに睨む。


黒曜おまえは人の世に紛れ、そうして『命を喰わない狩り』を繰り返してきたわけか。誇り高い原初の妖が、聞いて呆れる」


 例え、私の味方では無くても。生きる為の渇望に抗いながら、黒曜はという約束を守り続けてくれた。それがどれ程苦痛に満ちた地獄なのか、私は今、自身の内から意志を喰い殺そうする鼓動により突きつけられた。


 黒曜に愛すら返せない私は、一体彼に何を返せるというのだろう。私だけ享受するばかりで、黒曜の想いすらかろんじて。


 黒曜に、死も愛も返せない私が出来ることは何……?


 私と黒曜は、何処か似ている。望まぬ運命さだめを背負いせいを受け、愛と憎悪の果てに妖となっても……潰えぬ苦痛のいばらに囚われたまま。真の救済は、魂の受諾じゅだくだけじゃ足りない。


……狩りなどせずに済んだ」

 

 襖をへだて。私と黒曜を繋いだ真の願いは――私が妖となり、守れなかった約束を晒す。


 ごめんね、黒曜。

 貴方を愛し続けられていたら、人と妖わたしたち――救われていたのに。


 息を殺した静かな嗚咽は、願いを叶える神が居ない事を私に自覚させた。

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