第百四十八話 溺るる


 

 「ねぇ、黒曜……頂戴? 」


 私はまた、ねだる。両手を伸ばして、甘える。黒曜がまた私を確かめる。何度でも。その度に、黒曜は痛みに耐えるかのように美しいかんばせを引き攣らせるのに応えてくれるから、弑逆心をくすぐられる。やっぱり私はだったんだ。


 私が溺れているのは、血肉への渇望なんかじゃない。復讐と、叶わなかった初恋の埋め合わせだ。


 視線を感じた私は、艶めく漆黒の翼を持つ黒曜えものから牙を離して鏡に向かい合う。唇を濡らしたあかを見たくなって、指先で鏡にも引く。俯いて首を押さえる黒曜を背に、愉しそうに微笑する濡羽姫わたしが映った。


 もう、やめなくちゃ。そう思うのにをやめられない。


「私の血では満たされない。意味なんて、無いんだ」


「そんなことないよ! 私はから」


 腹だけじゃなくて、私の心が。

 

「黒曜はやめたい? なら、何時だって『


 言ってはいけない言葉が、血塗れた唇から黒い油のように滑り落ちた。黒曜を振り向き微笑した私は、百足に心を蝕まれているように可笑しいのが止まらない。私は

 

 ――さぁ、黒曜あなたはどんな顔を見せてくれるの?

 


「……本気で言ってるのか? 」

 

「分かんない。でも、私じゃ黒曜を『飼い殺し』ちゃうし……。黒曜にとっては、小娘の私が『魂のあるじ』だなんて遊戯でしょ? 」

 

 小首を傾げて彼を覗き込んだ私は早く答えを知りたかったのに、静かに呟いた黒曜は俯いていて表情が見えない。残念だな。溜息をついて、私は身を引く。


 油断した一瞬――、私は両手首を掴まれていた! 壁際に追い詰められた身体を叩きつけられ、頭を強かに打ち、視界に閃光が散る!


 私を捕らえた黒曜は、漆黒の双眸に焼き尽くすような焔を宿して見下ろす。私を殺そうとしているんじゃないかと錯覚する程、両手首を強く掴まれた。


「私の想いを軽んじるくらいならば、その魂を貰い受けても構わないな。私が千里の『魂の主』になり、『人の血を飲め』とめいを下してやる! 」

 

 射殺すような『想い』が曝された瞬間、己穂わたしが喰われた恐怖症フォビアがフラッシュバックする! 竦む恐怖に目を覚まされた私は、血の気が引いていく。


 

 ――私、今……心まで『人』じゃなかった。


 

 今更気づいても、怯えてグチャグチャな私が残るだけで、時は戻せない。わたししていただけだ。

 

「ごめんね、黒曜……。私、正気じゃなかった。でもになるまで、私の魂を狂わした黒曜のせいだから」

 

 肩を震わせて小さく呼吸する私は、滅茶苦茶な言い訳を生存本能のままに吐いた。怯える私に気がついた黒曜は、熱を呑み込んだように静かに返す。


「千里は人を喰らう妖が、忌まわしいと思うのか」


 私は、私の心を犯す異質にどうにかなってしまいそうだ。智太郎や黒曜も同じ衝動を抱えてきたに違いないのに……自分自身が妖としての立場になった途端、受け入れ難いだなんて。

 

「そうだよ。私はどうせ、酷い偽善者。己穂だった時も、私は『人』でることを選んだ。本当に黒曜の事を愛していたら、妖になる事なんて躊躇わなかったはずでしょ。偽善者の私なんか、になっちゃえば? 」


 だから早く、私をこの呪縛から解放して。逃れられぬ力で私を捕らえる黒曜へ懇願する為に、私は顎を引いて瞬いた。

 だが私は願いを反故にされ、艷めく漆黒の翼に包まれていた。まるで誰の目にも晒させないまま、捕らえる事を宣言するかのように。

 

「それ以上、自分を偽りで穢す事は許さない。どんなに痛みや憎悪を与えられたとしても、もう私が千里を置いて行く事など無いと知っているくせに……滑稽だな」

  

 小さな嘲りで唇を歪ませた黒曜と視線が絡む。漆黒の夜の双眸は捕らわれの私を映し、青紫あおむらさき紅紫色こうししょくの深い輝きを味わうように甘やかな切望に細まった。

 わたしの翼の耳は、黒曜の鼓動を聞いた。捕らわれた私は黒曜と二人きりである事を急激に自覚する。黒曜は睫毛を僅かに伏せた。

 蠱惑的な体温を持った白檀の香りが、薄い唇が近づく事に深まる。

 

 ――焦がれるような吐息は導かれるまま、擽るように重なりかける。

 


 私の唇に、黒曜の吐息は重ならない。黒曜を睨んだ私がしたから。僅かに身を引いた黒曜は秀眉を寄せ、憎悪すら美しいかんばせに滲ませた。そのまま薄い唇でわたしの翼の耳へすっと這わせ、ゾワリとする程滑らかな感触で脅かす。艶やかな死神のように重い声で囁く。

 

「今まで。長い時を待ち続けた私を、慰めてくれても良いんじゃないか」

 

 私は胸を抉られても自らの唇を噛んで、ただ暗い誘惑に耐えて首を横に振る事しか出来なかった。私の両手首を掴んだ力が弱まり、黒曜のひんやりとして滑らかな掌が袖の下の白い肌をなぞっても。


「智太郎は、千里を殺しに来る。愛は消えたんだ。信じる想いなんて、残ってない」


 智太郎に殺されても、憎悪されても良いと思っていたのに……。私が一番聞きたく無かった言葉で、黒曜は私を割く。私は智太郎に愛が残っているかもしれない、なんて……自分勝手な希望を抱いていたことを自覚した。身勝手さに虫唾が走る。

 

「なら、片想いでも良い。私の想いは変わらない。……黒曜の想いが変わらないように」


 それでも私は自分の想いを変えられない。縋っている自分自身の想いにすら裏切られたら……私は心まで完全に『人』では無くなる。人の私を想ってくれていた智太郎は、今となっては私の唯一の希望だ。例え、私を殺しに来るとしても。

 

「無償の愛なんて存在しない。私も千里も……何かを求めてるから諦められないだけだ」


 黒曜は静かな絶望を分かち合うように、答えた。

 

「……そうかもね」

 

 幼い頃、母のように愛を与えてくれた黒曜自身に幻想を壊される痛みに耐えた。じわり、と視界が潤むのを必死に抑える。

 

 私達はよく似ているからこそ……同じ原初の妖へと道を辿り、憎悪と愛に身を焦がす。そして、焦がれる想いは重ならない。そういう運命なのかもしれない。


。暫く、


 命令に逆らえない黒曜は痛みを与えられたような眼差しで、ようやく私を解放する。崩れ落ちた私は酷く寒い気がして、自分の肩を抱く。漆黒の翼を翻し、踵を返した黒曜は襖の向こうへと去った。

 私を黒曜は、私が望めば来てくれるだろうけれど。今の私には、黒曜の優しさに耐えられないから。


 ――猫屋敷ここには、本当の私の味方は居ない。


 私は恐れ続けていた『孤独』の部屋で……妖と化した自分自身の運命を呪った。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る