第百四十五話 邂逅
鼻に絡まる甘い残り香を無視した私は、気を失った黎映が目覚めるのを待っている。黒を交えたさらりとした白髪に、整った白皙の
黎映の過去夢で思い出した、彼との出会いの時だ。ランドセルを背負った九歳程の私が十三歳程の黎映と出会った時は、彼を何処かの擬似妖力術式の家門から逃げ出してきた半妖だと思っていたから、懐かしいような初めて待つような……不思議な感じがする。
「
黒曜はしなやかに腕を組んで、壁に寄りかかっている。艷めく漆黒の翼先に、触れてみたい衝動にさっと襲われたけど、私は呑み込んだ。
黒曜が黎映と会ったのは、癒刻時計塔で黒曜が誠の『縛』の術式から逃れようとした時の事だろう。黎映は誠を助ける為に黒い焔の導火線を断ち切ったが、黎映が黒曜を助ける結果になったのは皮肉だ。
「黒曜はそうだったね。私も最後に黎映と会ったのは、あの時以来かな。黎映は
「そうだ。友人たる自覚が無いと、青ノ鬼には説教されてしまったが。恐らくその青ノ鬼は、千里への繋がりを探す智太郎と共に行動している。だから、友人ではあるが青ノ鬼に私の居場所を知られる訳にはいかない」
鬼と黒曜は『人間との争い』を巡る考えの不一致から、一度仲違いしている。だが以前『君は誰が好きなんだ?』と恋話で私をからかった青ノ鬼からは、黒曜への親愛が感じられた。それなのに、私のせいで黒曜に青ノ鬼を裏切らせる形になってしまった。
「ごめんね、黒曜。私の為に」
「気にする必要は無い。私の思惑など、
私は俯きかけたが、力を抜いた声音の黒曜に救われる。友人たる青ノ鬼を信頼しているからこそ、互いの清濁を
「ん……」
睫毛を瞬いて開かれた黎映の深緋と白の瞳に、安堵に胸を押さえた私は息を吐く。
「気がついた?
茫洋としていた黎映の
「ああ、良かった……。千里と再会したのは、
「ああ」
黎映の兄である伊月誠に散々力を狙われ、追われたと言うのに。短く答えただけで、黒曜は気にする素振りも見せない。身体を起こした黎映の方が、罪悪感を交えた困惑を浮かべて眉を寄せたくらいだ。
「その……鴉。兄さんがご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
「
黎映を思いやるような黒曜に、意外そうに黎映は一瞬瞠目し、やがて苦笑した。
「……そうかもしれませんね」
「ねぇ、黎映。その誠はどこに居るの? 炎陽が隠匿する
ここは原初の妖である炎陽が隠匿する、妖の地。炎陽に繋がりのある
妖達が喰らうという、迷い込まされた
「色々と、お伝えする必要が有りそうですね。ご明察の通り、
黎映は語る。深緋の妖力を化した炎龍に導かれて癒刻の地を去った後。妖の一部を混じえた兄弟である黎映と誠は『安寧の地』を求め、やはり大蛇の知識を手掛かりに『隠世 猫屋敷』を目指す事にしたらしい。私と会う為にも。
青ノ鬼が『千里を頼む』と、私が原初の妖となるであろうことを黎映に伝えていた事を聞くと、私は
幸い大蛇には、炎陽との古い繋がりがあり『猫屋敷』での滞在を交渉できる可能性はあったらしい。
「しかし、
「それが
突然柱の影から現れた翠音に、私は強制的に背筋がピンと張る。相変わらず気配が無い……!
無表情が常だと思っていたのに、険しい顔をした翠音は翡翠の猫目に烈火を宿す。視線を交えた者に痛みすら与えてしまいそうなのに、黎映は不思議そうに瞬いた。
「紅音と瓜二つの貴方は……? 」
「紅音は、
「……そうだとしても、耳が聞こえなくなるまで隠世の入口で捕えるだなんて。孔雀の尾羽を焼かれた紅音は、餓死の直前だったのですよ!? 」
私は硬直する。穏やかな黎映が、激情に任せて怒号を発するなんて。深緋の右眼の色が鮮やかに焼き付く。
「本来なら直ぐに八つ裂きにされ、死を賜っていたはずですが。紅音の能力と仕えた実績を鑑みて、あの程度で済んだのです」
「
「愚かですね。情が有るからこそ、許せないものがあるのですよ。部外者の
冷え冷えと翡翠の猫目を細める翠音に、黎映は痛みを思い出したかのように眉を寄せた。恐らく、図星なのだろう。怒りを終息するように、黎映は睫毛を伏せる。
「……そうですね。私は兄さんに、甘いと言われました。
「自覚があるならば、
ツンと小さな顎を上げた翠音の言葉に、私は違和感を覚えた。
「翠音。まさか誠は、
「『誠』という方が
「やはり、兄さんは先に
「待って、まだ起き上がっちゃ駄目だよ! 」
立ち上がろうとする黎映の腕を掴み、私は慌てて止める。行き倒れていた黎映は、まだ起き上がれるような状態では無い。食事を取り休息してもらわないと!
「その、離してくださいませんか……千里」
白皙の
「駄目。ゆっくり休んでからじゃないと、誠と冷静な話し合いが出来ないと思わない? ご飯食べないと、頭は回らないでしょ。それに、黎映が詫びる必要なんて無いよ。私は紅音と翠音の事情を深くは知らないけど……目の前に助けが必要な人が居たら、手を差し伸べるのは正しい選択だと思う」
一瞬、翠音は顔を引き攣らせたが、私への否定の言葉は口にしない。私は翠音の意思を間接的に否定したのに。どうしてだろう。
「……どちらにしろ。黎映の意思で『大蛇』に会わせる訳には参りません。『半妖』である客人の位以下の存在である、『人』を突き出すなんて礼儀を軽んじています」
翠音が、自身より純粋な妖である私の言葉を否定しなかった理由に納得がいく。……それならば。
「なら、
「確かに、濡羽姫様なら問題はございません。面会をお望みであれば、
「お願い」
影に消えた翠音を見送ると、力を抜いた黎映は小さく呟く。
「……良いのですか、千里。兄さんは貴方を裏切ったのに」
黎映は知らないが、元婚約者である誠は私を裏切っただけじゃない。癒刻時計塔の地下で私を殺すところだった……。黒曜に助けられなければ、私は今頃生きてはいない。恐怖が無いと言えば、嘘になる。
「私は黎映の為に誠と会うんだよ。それに、私が心配してるのはどちらかと言えば……」
私は、しなやかに立つ黒曜を恐る恐る見つめる。黒曜は私と目が合うと、漆黒の双眸を静かに瞬いた。
黒曜は間違いなく、誠に殺されかけた私を一人で行かせないだろう。力への強欲に狂わされていた誠と散々
「千里が望むなら、
不安ではあるが……原初の妖となっても臆病な私は、危険な男達に一人で会う勇気なんて無い。
「私を守って、黒曜」
「無論だ。私はその為に居るのだから」
私が黒曜に頷くと、黎映は私の手に触れる。私は黎映の腕を掴んだままだった事に気がついた。
不安そうに睫毛を伏せ、小さく揺らぐ深緋と白の瞳とかち合う。面紗を無くしてしまったのか、晒されたままの白皙の
「……千里。必ず、また
「勿論、また黎映のところに戻ってくるつもりだけど……どうして? 」
「翠音の話を聞く限り、人である
「大丈夫、私は黎映の前に戻ってくるから。だから、ちゃんとご飯を食べること! 無理しちゃ駄目だからね」
怒った振りをした私が人差し指をピンと立てて母のように言い聞かすと、黎映は安心したように微笑した。
「分かりました、ちゃんと待ってますね。まだお話ししたい事もありますから。一つだけ、先にお伝えします。兄さんはもう力への強欲はありません。強者への幻想は無くなったのですから」
「ならば、問題は無い。行こう、千里」
黒曜はしなやかに組んでいた腕を解き歩み寄ると、私に手を差し伸べる。私は一瞬、瞠目する。私が黒曜の『魂の
ちら、と見上げると……黎映の腕を掴んだまま、彼の掌によって重ねられた私の手を一瞥した黒曜石の瞳と目が合った。冷たく細まる黒曜石の瞳に、息を呑んだ私は慌てて黎映の腕を離す。……私が黒曜に遠慮する必要なんて、本当は無いんだけど。智太郎ならばともかく。
「千里、行ってらっしゃい」
知ってか知らずか。滑らかでひんやりとした黒曜の掌に自らの掌を重ねて立ち上がる私を、にこやかに黎映は見送る。
何となく空気が張り詰めているような気がするが、私は相変わらず鼻に絡まる甘い香りと共に無視をする。
「……行ってきます」
向かう先も帰る先も……今は何故か恐ろしい。『行きはよいよい、帰りは怖い』なんて言うけど、行きも帰りも隠世である今の
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