第百二話 金木犀の木漏れ日



 仮の姿を解き、本来の姿である漆黒の翼を持つ男の姿で舞い降りた私を、幼いながらに彼女は警戒する。生力の視界を持つのであれば、闇として認識される妖を警戒するのは当たり前だ。まして妖狩人達の総本山である、桂花宮家に生まれたのであれば尚更。

 

「妖……? 」

 

「そうだ。……だが、私には血肉を奪う気など無い。信じてくれると有り難いのだが」


 小さな彼女は金の瞳で瞬くと、不思議そうに私を見上げて無邪気に笑み崩れた。


「いい妖なんだ」


 自分で言っておいてなんだが、あっさりと信じてしまった事に、彼女が幼子である事を痛感して動揺する。微笑の仕草すら、己穂と異なるのに魂は同じ。彼女が私の事を知らない事実に、泣き腫らした時のように身体の内側が焼け付く。


「私は千里。……貴方は?」


「……鴉と呼ばれてはいるが、好きに呼んでも構わない」


 私の想いなど知る由もなく、千里は腕を組み、小さな桜色の唇を結んで考え込む。幼子には似つかわしくない。大人の真似をしているのだろう。胸の内を羽毛で擽られたように微笑してしまう。


「鴉、もいいけど……とうさまのお部屋に、黒くてキレイな石があったの」


「……もしかして、黒曜石のことか? 」


 千里の父である、桂花宮 翔星けいかみや かいせいが黒曜石を仕舞う所を、目にした事があったような気がする。翔星は鉱物収集が趣味なのかもしれない。千里は答えがぴたりと当てはまったようで、嬉しそうに頬を緩ませて頷いた。


「そう、とってもキレイなの! だから、『黒曜』はどうかな? 」


「それで、構わない」


「やった……! 」


 庭に立つ私が頷くと、嬉しさに飛び跳ねた千里が縁側から飛び降りようとした瞬間、足を絡ませて落ちる!


「危ない!! 」

 

 驚いた私は慌てて抱き止めるが、不意打ちに尻餅を着いてしまう。溌剌はつらつな幼子には、原初の妖も敵わないらしい。気がつけば私の翼と腕の中に……思わぬ重さと共に温かな存在が収まっていた。陽光の香りのする、柔らかな鶯色の髪の旋毛つむじが目の前にある。


「ふふ……着地は成功? 」


「……成功したと言えるのか? 」


 私の腕の中から、金の双眸を輝かせて悪戯な笑みで見上げる千里に、思わず苦笑してしまう。

 だが、そこで我に返る。私は、今はまだ何も知らぬ幼子を……しかも、己穂の生まれ変わりの千里を約束の為に利用しようとしている。人と妖の狭間……愛と憎悪の狭間に堕とさねば、妖と人の運命さだめを変える力を手に入れる事は出来ない。妖と人の対立を終わらせ、己穂や私のように全てを狂わせられる運命さだめを変える為に、長い時を歩んで来たはずなのに、相反する選択肢でしか約束を果たせない……。幼い千里をこのまま抱いていても良いのだろうか。凍りついた針を呑まされたような罪悪感を覚えたのに、満たされたように微笑する千里を離す事は出来なかった。


「黒曜は妖だけど、あったかくていい香りがするんだね。……『かあさま』みたい」


「……そこは『父様』では無いのか」


「とうさまは、私の事が嫌いだから。かあさまは、私が生まれた時にお空へ行ったんだって」

 

 不意に千里は寂しそうに、鶯色の睫毛を伏せる。母の秋陽あきひは亡くなっていたのか。翔星は、何故遺された千里を愛さないのか。私には翔星の心境が分からないが……千里が、両親の愛を知らないのは事実だ。

 きっと千里で無ければ、私は心を殺して無慈悲になれたかもしれない。だが……今は雁字搦めの相反する願いを抱いてしまった。己穂の生まれ変わりであるならば、今世こそ運命さだめから自由になって幸せになって欲しい。されど、生まれ変わりならば己穂の過去と約束を思い出して欲しい。人と妖の対立を終わらせる為に、人と妖の狭間……愛と憎悪の狭間に堕ちたとしても。


「那桜も『かあさま』みたいだけど、ずっと一緒じゃないの。おうちに帰らないと、だから」


 那桜と言うのは、おそらく世話人の女性の事だろう。秋陽の友人の那桜は、母の居ない千里の元へ通っているらしい。だが、千里に本当の母が帰って来る訳では無い……。

 私は千里を抱き上げたまま、立ち上がると一つの考えを彼女に告げる。


「なら那桜が居ない時は、私が訪れよう」


「……黒曜がまた来てくれるの!? ありがとう!! 」


 千里は零れそうな嬉しさを身体中で現すように、小さな両腕で私を抱き締めた。私は罪悪感と共に、伝わる体温と確かな命の重さに対する愛しさが生まれる。胸の内に花鞠の鈴の音が響くような、温かな命に対する幸せを味わった事は無かった。妖になってからは尚更だ。己穂と過ごした時代も、戦いの中、命は奪い奪われる物であった。陽光の香りがする、千里の頭を撫でた。見上げた千里の弾けるような笑みが、柔らかな頬ごと私の掌に包まれる。


「黒曜……一緒に遊ぼう? 」


「構わない。但し、屋敷の者には秘密に」


 私は人差し指を自身の唇にあて、微笑を返す。


「うん! 約束ね」


 頷く千里が差し出した小指に、私も小指を絡ませ、約束を交わす。千里に運命さだめなど背負わせる必要は無いのではないかという逡巡が、絡ませた小指を痙攣させる。

 いつか過去という額縁に飾られる幸せだとしても……今だけはどうかこのままであって欲しい、と願ってしまう。長い時の残酷さを、私ほど良く知る存在は居ないだろう。過去の額縁を飾る回廊には……秋暁の景色の中で己穂が眠る額縁がある。鑑賞者から解放されたいと、どれだけ膝を折り額縁に縋っても……私は額縁という過去の中には戻れない。

 私を過去という死の額縁に飾るのは……千里だろうかと考え、雨有うゆうから渡された『過去夢』の力を思い出す。千里に『過去夢』を渡せば、己穂の過去を思い出してもらえるはずだ。但し、雨有のように能力に捕らわれない為に、幼い今では渡せない。

  ……十七歳。それ位ならば、『過去夢』に順応出来るはず。

 千里が『過去夢』で全てを知れば、やはり私を恨むだろうか。だが、それでいい。未来の為に……過去から得る事が出来れば運命さだめに捕らわれたとしても、私や己穂とは違う未来を歩めると信じているから。

 

 

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