第六十九話 牡丹雪
「
「……私が己穂の記憶を取り戻さなくてもいいの? 」
青ノ鬼は肩をすくめる。
「そりゃあ、僕は君に己穂の記憶を取り戻してほしいけど……君自身が選ばなければ無意味なんだ。言ったろ? 行動には確かな気持ちが必要なんだ、って」
「……貴方も優しすぎて損をするタイプなんだね」
私が智太郎を思い出して苦笑すると、青ノ鬼は黒と青の双眸を一瞬丸くする。すぐに、不服そうに顔を顰めたが。
「別に誰にでも優しいわけじゃないよ。己穂であり千里でもある君だからだ。己穂の記憶が無くたって、君が己穂であった事は変わらない」
私はその言葉に瞳が潤んでしまいそうになるのを、震える唇で微笑んで誤魔化した。青ノ鬼には、智太郎のように甘やかな切望を覚えることは無い。けれど、私に心の安寧と答えを与えてくれる、大切な存在なんだ。
「黎映は伊月誠の同化を解こうとしているみたいだけど……存在の否定だと、正直僕は思う。違う存在が混ざったから、大切な人では無いと言っているような物だ。まぁ、考えの相違と言ってしまえばそれまでだけど」
黎映の曇りのない意思は、臆病で卑怯な私には、玲瓏と輝く刃のようだった。存在の純粋さを望む彼は、混沌である私達とは対極で、根本的に相容れない。
「その点、智太郎は君がどんな存在になったって、死に物狂いで追い求めるだろうね」
「そうかも。だから、私は智太郎と過ごす
己穂の記憶を取り戻す事……それは、智太郎を救う方法に繋がるはずだから。逡巡から解放された私は、青ノ鬼に問う。
「己穂の刀に、私が触れるのは
「黎映と君が出会う時期と大きく変わらないから、桂花宮家に刀があると思っていたけど……癒刻にある可能性もあるのか」
青ノ鬼は考え込むように腕を組む。黎映と違い、未来視の代償として痛みが生じる事は無いようだ。青ノ鬼が正統な未来視を持つ存在であるからだろうか。
「
私は眉を寄せた。何れ起こる出来事が分かっているのに、こちらからは動けないのが釈然としない。
「それは仕方のない事だ、確定した未来は変えられないんだから。全ての未来を自由に視れないのはもどかしいけど、その分新たな可能性を信じられる」
青ノ鬼は、黒と青の双眸に輝きを宿して綺麗に微笑む。長い年月の中で摩耗しても、未来への希望をまだ諦めていない青ノ鬼は眩しかった。
「あ……雪」
花びらのような大きめの雪片が青ノ鬼と私との間に、空からやって来てひらりと舞った。これが、牡丹雪と言うものだろうか。青ノ鬼と縁を感じさせる。
「君と智太郎が、仲違いする事もあるんだね」
地面の白と同化した牡丹雪から目線を離し、青ノ鬼に再び向かい合う。牡丹雪が舞い始めた中、青ノ鬼は美峰の姿で微笑む。一瞬、目の前の存在が、青ノ鬼なのか美峰なのか分からなくなるほど優しい微笑みだった。
「普通にあるよ、今回は私が悪いんだけど」
「君達は、お互いの距離が近いあまり、理解し過ぎていて無縁だと思ってた。そんなに長い時間同じ家で過ごしたら、兄妹のようだとは思わなかったの? 」
「智太郎を兄妹だと思ったことは無いかな。出会った頃から、もう智太郎に惹かれていたんだと思う。……だけど、智太郎もそうだったとは知らなかった」
私が深く吐いた息は、舞い落ちる牡丹雪とは反対に、白い空へと帰っていく。白い息が視界を霞ませた一瞬……ふわりと花の香料が鼻を擽る。美峰の髪の香りだ、と理解したのは私が抱き寄せられていたから。
「青ノ鬼……? 」
突然の事に、私を抱き寄せた青ノ鬼を横目で見る。顔が見えない為、表情は伺う事はできないが。
「僕も普通の人間だったら、きっと智太郎に嫉妬をしていたんだろうな。大切だと思う君が、別な存在に惹かれているんだから」
だが、暖かな体温と共に伝わる鼓動は、穏やかなものだった。私も同じだけど。私を抱き寄せた身体は、美峰のもので、彼のものでは無い。
「私にとっても、青ノ鬼は大切だけど……。智太郎に抱く想いを、別な存在に抱く事は無いよ 」
「……これだもんな。まぁ、僕も人の事は言えないんだけど」
青と鬼の想いが結ばれた果てである彼は、他の存在に恋愛感情を抱く事は無いだろう……と考えて、私はふとある事に行き着く。雨有や翔、綾人は青ノ鬼の血を継いだ子孫だ。と、言う事は青ノ鬼にも子供が居た事になる。
「何考えてるの? 」
耳元を擽る、揶揄うような笑みに、私は顔を顰めた。
「よくそんな事私に言えるよね。妻子持ちの癖に」
「あぁ、その事か。目的の為には必要な手段もあるだろ」
私は手段、だけで済ませた青ノ鬼にますます眉を寄せた。愛を抱く事は無かったと言う事か。
「どういう手段だったか……教えてあげようか? 」
青ノ鬼は、私の横髪を耳にかけた……と思うと、耳を唇が掠める! 直接伝わる暖かな吐息に、思わず青ノ鬼を突き放す。
「何するの! 」
「ははっ、顔が真っ赤なんだけど! いい顔するじゃん」
青ノ鬼は物凄く楽しそうに、身体を震わせ笑っていた。完全に青ノ鬼に弄ばれている……! 絶対に青ノ鬼を好きになる事は無い、悲惨な運命が目に見えている!
「ほんと最低……! 」
「冗談なのに」
「冗談でもやっちゃいけない事があるの! 」
全く悪びれなく言う青ノ鬼に、私は頬を膨らませて怒る。だが、まだ青ノ鬼は身体を震わせ笑っている。
「ごめんって……。早く智太郎と仲直りしなよ、じゃないとまた揶揄いたくなるから」
「もう絶対にやらないで。仲直りはするから」
私が唇を尖らせると、青ノ鬼はようやく笑うのをやめて滲んだ涙を拭う。そこまで笑わなくたっていいと思う。
「はいはい……僕は、僕でやる事があるから、その前に一眠りするよ。じゃあ、後は、宜しく」
そう言い残すと、青ノ鬼は瞼を閉じてその身体は力を失う。このままじゃ、美峰の身体が叩きつけられてしまう! 慌てて、私は美峰の身体を受け止める。その唇の端が微笑みを浮かべているのを見て、私は深く溜息をついた。
「ほんと雑なんだから……美峰が怪我したらどうするの」
次に会ったら、ガツンと言わないと絶対に駄目だ。
「ん……? 」
目を擦り、私に支えられながら開いた
「何で私、千里ちゃんに抱かれてるの? 」
「もう、大変だったんだから」
私は美峰に青ノ鬼の事を散々愚痴ろうと、口を開きかけたが、牡丹雪は止んでいない。早く建物の中に入らなくては。見上げると、白い空から真っ白な雪がゆっくりと降り始めていた。舞いながら私達に近づいてくる牡丹雪達は、白い羽のようだとも思った。
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