第五十九話 鞘

 

 目の前には戦慄の名残から汗を握った手と、 先程付けてしまった上前の皺。 自身の膝を見つめたまま、放心している事に気がついた。今、私の前にいる、父親である翔星かいせいが語る過去の事実に、実母である秋陽が亡くなった私の世話役として、秋陽の親友だった那桜がかつて私の傍にいた事を思い出した。私を狙って現れた影の妖は、那桜とその息子である将吾を目の前で殺した……。私が母親のように思っていた那桜が最期に命を懸けて護り、その名を呼んだのは私では無かった。那桜と将吾が死んだ恐怖と、突きつけられた孤独に絶望した時……私を助けてくれた存在がいた。


 あのひとは誰だったんだろう。


私に希望を与え、命を救ってくれた存在。

 そして、私にあの言葉を告げ、孤独という深淵の鳥籠に堕とした存在。

 二つの存在は同一なのか、それとも……。


「やはり、忘れていたか」


 翔星の声に私は顔を上げる。顔を顰め、茫洋と見つめる翔星は私を案じているようだった。


「父様の話で、思い出しました。那桜は私の前で亡くなった……。那桜の息子の、将吾も。私は誰かに救われたのですね」


「私や狩人達が駆けつけた時には、殺された那桜と将吾。消えゆく妖の残骸。そして、血に塗れた縁側で気を失って倒れている千里だけだった。その事件によって、千里には守り人が必要になり、事件以前の記憶を那桜と共に忘れてしまった。確か、千里が六歳頃の事だったか。……千里は命を救った人物を覚えているのか」


「姿は思い出せません。だけど、その人物も男だと思います」


 その事件がきっかけで守り人が必要になったというならば、智太郎では無い。そもそも私と同い年で、まだ幼く地下から出られなかった筈だ。智太郎に出会ったのは、那桜が亡くなり記憶を失った後だ。あの男は何故父様達の前から姿を消したのだろう。妖から次期当主を護ったのだから、何ら後ろめたい事など有りはしないのに。その時、頭の片隅を黒曜が掠める。幼い頃に会った記憶のある彼は、妖だ。……父様達の前から姿を消す理由もある。私を助けてくれたのは黒曜? だが、今は確かめる事すらできない。


「知らない人物が二人、か。何か繋がりがあると考えるのが自然だろうな」


 翔星の言葉に、私は眉を寄せる。黒曜が私を助けてくれたと信じられても、あの言葉を吐いたのが黒曜だとは思いたくない。結び付ける事も、正直不快だった。


「いずれ、分かると思います。鴉に関わっているとすれば」


「お前に執着している、鴉か。可能性はあるな」


 翔星は顎を触り険しい顔をしたが、口を開く。


「鴉には確かめなければいけない事が大いにあるようだな。危険だが……伊月黎映と協力し、鴉を追うことの許可を出す」


 私は翔星の言葉に頬を綻ばせる。これで、智太郎を救う方法に一歩近づける。翔星は、何故か苦いものを飲み込んだかのように唇を結ぶ。何かに思い当たったように。


「血を与えてくれる協力者が居たとはいえ、尾白に血を与えた事を千里に隠していたのは間違いだった。私が、お前を弱いと思っていたからだ」


 私が地下牢で、智太郎の秘密を知ったことを竹本から聞いたのだろう。今まで、血を与える為に人を集めていたのは翔星なのか。よくよく考えれば当主の許可無しに、地下牢を使う事は出来ない。


「……事実から目を背けていたのは私の方です。私が弱かったのは本当ですから。血を与えてくれた彼女らは無事なのですか」


 地下牢で生力を与えたから最悪は免れたはずだが、繰り返し行われてきた事ならば……犠牲になった者は居ないのだろうか。不安が頭をよぎる。元はと言えば、私を守る為だったはずだから。


「先程の者も、過去の協力者達も皆無事に生きている。尾白は誰かを犠牲にした事は無い」


「よかった……」


 本人達が望んだこととはいえ、血を奪い続けた罪は消せない。智太郎もきっと分かっている。だけど、命を奪いかけた罪は一生背負わなければならないものだ。私も同罪だから。


「父様……鴉の元へ向かう前に、頂きたい物がございます」


「なんだ」


 虚を付かれたように、翔星は目を瞬かせる。私は今まで父様に何かを強請ったことは無かったのだから。


「桂花宮初代当主が持っていたはずの、刀です。父様はお持ちでしょうか。私は初代当主の過去からも方法を探してみたいのです」


 翔星が見せてくれた手記では駄目だった。やはり青ノ鬼が言うように、己穂の刀でないと過去夢を視れないのかもしれない。


「……本来は当主の座を継いだ者が、受け継ぐ物なのだが。まぁ、いいだろう」


 私は部屋の戸棚から長箱を取り出す翔星を呆然と見つめる。そんなに重要な物だったのか。我儘だったとしても、譲ることはできないのだが。

 翔星が長箱の蓋を開けると……そこには過去夢で視た通りの白い鞘があった。丁寧に管理され、時間の経過を感じない。……しかし肝心の刀が無かった。


「残っているのは、鞘だけだ」


 私はその言葉に血の気が引く。刀が無ければ己穂の記憶を視る事が出来ない。だが、心の何処かで覚悟の出来ていない自分が居た。己穂は私であり、私で無い。記憶を完全に取り戻してしまったら……千里わたしで有り続けられるのだろうか。他の過去夢を視るのとは訳が違う。青ノ鬼のように意思が二つ存在し、やがてその自我は溶け合うのだろうか? 青ノ鬼が、もしも、青と鬼の意思が完全に同一化していたら……。私も同じように、千里と己穂として意思が同一化したら……本当にそれは私なんだろうか。


「刀は、何処にあるんですか」


 私は複雑な想いを抱えながら問うが、翔星は首を横に振り否定した。


「分からない。受け継がれているのは、鞘だけだ。戦乱により紛失したのかもしれない」


 何故鞘だけが残ったのだろう……と考えて、ふと思い当たる。青ノ鬼がもつ未来視は、した未来を映す。何故青ノ鬼は己穂の刀に触れれば、己穂の過去夢が視れると分かったのだろう。彼女の遺した物は他にもあったはずなのに。私は、いつか必ず己穂の刀に触れるのではないだろうか。


「……探してみせます。鴉も、の刀も」


 私の言葉に翔星は片眉をぴくりと動かす。私は何かおかしい事を言っただろうか? だが、翔星は口には出さず頷いた。


「お前が尾白を救うと決めたのなら、必ず成し遂げるのだ。絶対、無事に帰ってきなさい」


「はい、絶対に智太郎を救う方法を見つけます。生きて必ず戻ります」


 私の誓いに、翔星は満足したように微笑んだ。

 白い鞘に触れると、やはり過去夢を視ることは出来なかったが……滑らかな感触は手にしっくりと馴染む気がした。私はこの白い鞘に導かれるように、きっと己穂の記憶を取り戻す。私の心臓から鼓動と共に広がるのは……希望と願いと、恐れが綯い交ぜになった想いだった。



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