第3話 リルヴ族のアスライ02

……ゴボ……ゴボボッ…………


 水音のようなものに振り返ると、起っていたことに我が目を疑う。


「な……っっ」


 バックリと開いていた傷口が、ゴボゴボと血泡を上げながら閉じ合わさっていた。確実に心臓を断ったはずなのに、牙虎は何事もなかったかのように立ち上がると、シャアアアアッと牙を剥いた。


「悪鬼か、幽鬼の類か……?」


 アスライは戦慄を禁じえなかった。


 セイリーン山脈は、リルヴ族が奉じる聖なる山だ。そんな聖域でこのような邪悪な存在が現れるのはありえないことだった。


(いや……だからこそ、なのか?)


 アスライが混乱するのに構わず、牙虎は爪牙を振るってくる。


「くっ!」


 反射的に振り下ろした大剣が 牙虎に傷をつける。が、それも瞬く間に治癒してしまう。


 なら、これならどうだ? アスライは地面に突き刺した大剣を右腕の支えにし、己が神授を最大まで活性化させる。


「【迸れ雷――烈雷スパークル】!」


 神の鉄槌とも称される落雷を、アスライは人の身でありながら掌から生み出し放つ。それは神から授けられし力――神授の驚異であった。


 ビシャアアンンッ! と牙虎は雷に打たれる。肉は焼かれ眼球は白濁し血液は蒸発、焼失した被毛からはブスブスと黒煙が上がる。


「はあっ……はあっ……はあっ……こ、これで……」


 その後の言葉は続かなかった。


必殺の一撃だった。今までの魔獣なら倒せていた。これなら絶対に倒せるはずだ、倒れてくれ――そんなアスライの願いを嘲笑うかのように、牙虎の濁った目が色を取り戻し、真紅の瞳がギロリとアスライを見下ろす。


焼け爛れた地肌を新たな皮膚が覆い、黄色や黒の体毛が伸びる。牙虎が元の完全な姿を取り戻すのに、ものの一分もかからなかった。


「この……化物め……っ」


 アスライは大剣に寄りかかり、ようやっと立っている状態だった。


神授の威力は凄まじいが、無制限に使えるわけではない。神授は、この世界を維持構成する『神気』を用いるが、人間の肉体もまたこの神気によって保たれている。神授を使うことは誇張ではなく、心身を削る行為なのだ。アスライのダメージは、決して浅くなかった。


そんなアスライを見透かしたか、接近してくる牙虎には余裕が見て取れた。


(いいだろう。こうなればこの命、くれてやる)


アスライは大剣の切っ先を牙虎に向ける。この死なない魔獣は危険だ。放っておくことはできない。しかし自分が倒すのは不可能だろう。だがそれでもここで派手に戦闘を行い続ければ、リルヴ族の強者が不審に思い駆けつけてくれる。彼らならこの魔獣をどうにかできるはずだ。それまで生きていられる可能性は低いだろうが。アスライは決死の覚悟を決める。


「――頭を、頭を切り落としてくださいッ!」


 声に驚き、振り向いてまた驚く。


 銀色の髪の少女がそこにいた。内臓を喰われ、死んでいた少女だ。


アスライは瞬きして何度も確かめる。間違いなかった。やはり先ほど木の根元で死んでいた少女だった。


「前! 前を、ごぶっ」


 牙虎の爪撃を慌てて大剣で防ぐ。防御しながらアスライはチラチラと少女を見遣る。


 少女は腹部に手をやり、零れ落ちそうになる内臓を押さえている。吐血は大量で、地面に血溜りを作っていた。生きているのがおかしい大怪我、致命傷だ。


 死なない魔獣に、甦った少女。狂ったのは世界の理か、自分の頭の中か。アスライは訳が分からなくなる。


「あ……頭を落せばいいのか!」


「は……い……」


 少女は答えると、ズルズルと木に体を預け座り込む。


 もう何でもいい。この非現実的な悪夢を終わらせられるなら。アスライはその一心で、牙虎の攻撃を避け続ける。だが注意は散漫で、体は疲弊していた。平常なら犯すことのない、木の根に足を引っ掛けるという失態を演じてしまう。


「ッ! しま、」


 ペタン、と情けなく尻餅をつく間抜けを見逃してくれる魔獣はいない。アスライの眼前に、牙虎の顎が開かれていた。


「――ッッッ!」


 アスライは死を覚悟した。だが、それは訪れなかった。


 頭部のほとんどを口腔内に納めていながら、牙虎の牙はアスライを噛み砕く直前で停止していた。熱く生臭い息を頬に感じながらアスライは疑問を持つ――なぜ殺さない?


コツン、と音がする。


なぜか牙虎が身を引き、背を向けた。深淵の内部ような口腔から解放されたアスライの視界に、少女が映る。少女は石を牙虎に投げ、口を動かす。逃げて、と。


アスライの全身の血液が沸騰し、脳髄を焦がす。


牙虎の歩行が疾走へと変わる。少女は自らに牙虎が迫ってくるにも関わらず、口元を笑みを浮かべた。


「と……止まれぇぇぇっっっ!」


 アスライはみっともなく叫び、牙虎の尻に追いすがった。だが武器も無く尻にくっ付いているだけの人間一匹など、強靭な魔獣は意にも介さない。このままでは振り切られる。そう直感したアスライは、顔の横で振れる尻尾に目を付け、掴みざま歯を立てた。


 ぎゃうっ! と牙虎は吼え、ブルンブルンと体を揺さぶり、アスライを振り落とす。


 転がったアスライは、ベッ、と毛の混じった唾を吐き、取り落とした大剣を拾い上げる。


 大剣の馴染んだ重みが、安心感を与えてくれる。失っていた精神の平静を取り戻し、アスライは独り言ちる。一度死んだ身。そう考えれば恐れることは何も無い。後は、少女の勇気に応え、奴の首を斬り落すだけだ。


 単純でいい、と深く息を吐く。


「やろうか」


 図ったかのように、互いの前へ出るタイミングは一緒だった。


 リーチの点で大剣を持つアスライが有利。攻撃範囲に入った瞬間、牙虎へ大剣を振り下ろす。


牙虎は避けない。大剣を受けた左肩の筋肉は硬く、刃が途中で止まる。初手では心臓まで切り裂けたものが、通じなくなっていることに目を見開く。強化されている?


アスライが疑問を抱く間を許さぬ、爪の横薙ぎ。食い込んだ大剣にぶら下がるようにして体を浮かし、両靴の底を盾にする。


弾き飛ばされるが、膝のクッションを活かしたお陰でダメージは無い。しかし衝撃で靴底が剥がれてしまう。父上から山篭りの前に貰った新品だったのに。アスライは落胆しながら裸足になる。


そうしている間に、牙虎の傷が治癒していく。これで更に強化されたのなら、次は傷つけるのも難しいかもしれない。化物といっても、程度というものがあるだろうに。


 悠然と歩み寄ってくる牙虎は隙だらけだが、手が出ない。牙虎の嬲るような攻撃に、ジリジリと後退させられる。


「……う」


 背中に大木が当たる。これ以上、後ろに下がれない。左右どちらに逃げても、爪の餌食になる。


 牙虎の全身に力が漲る。決めに来る気だ。


(さあ、勝負しよう)


 後ろがダメなら前へ。真正面から突っ込んできたアスライを、牙虎が噛み潰そうと牙を剥く。これを右に飛んで回避し、事前に活性化してあった神授を放つ。


「【拘束せよ雷――縛雷クバイン】!」


 並みの魔獣なら最低五秒は麻痺させられる【縛雷】も、コイツ相手にはどれほどの効果があるのか。


(二秒……いや、一秒でいい。頼む!)


 アスライは走り、腕、肩を足場に牙虎に昇る。が、途中でその首がギギギッと動く。


「この――ッ」


 グシャッ、と牙虎の眼球を蹴り、高く跳躍。痛みで顔を背けた牙虎の首の真後ろ、無防備になった延髄へ狙いを定める。


「オオオオオッッッ!」


 全身全霊の力と、落下するスピード、自重の全てを大剣に乗せ、頚椎と頚椎の隙間の一点に集中させる。


これが失敗に終われば命は無い。その切迫感がアスライの精神力を極限まで高める。


大剣が皮膚を裂き、脂肪を裂き、筋肉を裂く。次に触れたのは硬い骨ではなく、柔らかな神経だった。勝った。と引き伸ばされた刹那の中でアスライは笑う。


バズンッ! 牙虎の頸部が切断され、血飛沫が滝のように噴き出す。


「ぐえっ」


 受身が取れず顔面から落ちたアスライは、ひん曲がった大剣を杖にヨロヨロと立ち上がる。


「こ、これで、…………うおわぁっ!」


 勝ったと思ったのに、頭だけになった牙虎に足を喰われそうになる。ガキンガキンと牙を打ち鳴らしながら戦意を喪失していない化物に、アスライは恐慌に駆られ、曲がったままの大剣を振り下ろす。


(うおおおおっ、死ね死ね死ね!)


 半ば自棄になり、頭蓋を執拗に叩き続ける。


 脳をズタズタに破壊され、ようやっと動かなくなった牙虎に、アスライは血と肉片でドロドロになった状態でへたり込む。


「お……終わった、か?」


「……あの……まだ、です…………」


 勢いよく振り向けたのは首だけだった。体は疲労でうんともすんともしない。


 ボソボソとした声の主は、死んだはずの少女。内臓を喰われ、背骨まで晒していたのに、その腹部には傷一つ無かった。


「…………」


 幽鬼か悪鬼か。その疑念が晴れないアスライは、恐々と少女に手を伸ばす。


「ひゃんっ」


 ぷにっ、とお腹に触れたら、可愛い悲鳴が返ってきた。


「さ……触らない……で……」


 少女は涙目になって、破れた衣服で腹を隠す。


「……すまん」


 アスライは取り合えず、謝っておく。


 フォルス暦九九〇年四月一六日。アスライは一八才の誕生日に、不死の少女と出会った。

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