第25話 シッドーの修道女・ターニャ
☆
ルナとアンリが部屋から出ていくと、部屋に残ったターニャはミドリの傷の処置をするために包帯を解いた。
ミドリも包帯の下がどうなっているのか見ていなかったので初めて見たが、想像以上にえぐれていて痛々しいという言葉では表現しきれないほどの酷い有り様である。
今は医療用の糸で傷口が簡易的に縫われているが、それでも隙間から赤い肉まで見えてしまっている。動かすと流石に痛みを感じるが、安静にしていれば痛みをほとんど感じないのが不思議なほどの大けがである。
「ミドリ、じっとしていてくださいね。もう一度丁寧に傷口を縫いますから」
ターニャは針と糸を用意してどう縫い付けるかを思案しているようだった。
「待って、待って!ターニャさん。もしかしてこのまま縫うんですか?麻酔とか、麻酔とか、あとは麻酔とか無いんですか?」
糸の通した針をミドリの肩に躊躇なく突き刺そうとするターニャに対してミドリは思わず傷のない左手で制止した。
「何ですか!危ないですよ、じっとしていてくださいって言ったでしょう」
「いやいやいや、麻酔もなしで俺の肩なんか縫われたら意識飛びますって!耐えられる自信ないですよ」
「……………………」
ターニャはミドリが怯えているのを見ても止まることはなく、黙って再び針を構えた。
どうやら彼女は本当にこのままミドリの肩を縫うつもりらしい。
ミドリはごくりと生唾を飲みこみ、覚悟を決めて左手でベッドのシーツを全力で握りしめて歯を食いしばった。
そして針がミドリの肩を貫いていく。
「……あれ、痛くない、?」
ミドリは発狂する準備をしていたが、それは空振りに終わった。
激痛を覚悟したはずの右肩をターニャの針はスイスイと進んでいく。何かが肩の中を進んでいく感覚はあるが、痛みは感じない。
違和感だけが肩を移動している。意識を向ければ気分が悪くなりそうなのでなるべく気を逸らすことに集中するが、それでも痛みを感じないのは不思議である。
「…………ミドリ、さっきルナとアンリに摘みに行かせた消更草をすりつぶした汁を煮込んだものを既にあなたの傷口に刷り込んであります。消更草は痛み飛ばしの効用を持つ草。簡易的な麻酔薬ですね。ですがそれは痛みを感じる痛覚を一時的に部分麻酔させているだけなので激しく動かしたら、傷のない所との境目が裂けて激しい痛みに襲われますからじっとしていてくださいと言ったのですよ」
「凄いな……。こんなひどい傷なのにほとんど痛みを感じない。これなら安心して処置を受けれそうです」
ミドリは既に麻酔が施されていることを知って安堵した。
ターニャは老眼鏡のような眼鏡を通して真剣にミドリの肩を縫っていたので、今は話しかけない方がいいだろうとミドリは感じていたが、彼女の方が口を開いた。
「おおよそ、何があったのかはルナやアンリから聞きました。………大変なことがありましたね」
「はい…この世界のことが余計によく分からなくなりました」
「でも、二人を守ってこの傷を負ったのでしょう。彼らを助けてくれて心から感謝します」
ターニャは手を動かしながらではあるが、ミドリに感謝の意を表した。
「止めてください、ターニャさん。そもそもは俺の案内なんかしたから危険な事に巻き込まれたんだ。俺がいなきゃ二人は危険な目に合わなかった」
ミドリは言葉通り二人を危険な目に合わせたことに対して責任を感じていた。
そしてその育ての親ともいえるターニャに後ろめたさを感じていた。
「いえ、ミドリがそれを気に病む必要はありませんよ。あの場所は二人がよく出かける場所の一つです。ミドリを案内せずとも近いうちに足を運んでいたことに変わりはありません。それよりも、二人の時ではなく、ミドリがいて助けてくれたことが幸運と言えるでしょう。もしも二人だけだったなら本当に危なかったかもしれません。彼らにも神様の加護があったということでしょう」
「まぁ、それはそういうことにしておこう。俺も過去をぐちぐちと考えるのは好きじゃないんだ。……じゃあ、話を変えるけど、ターニャさんはあの化け物について何か知っているのか?」
ミドリは知ったところでどうにかなる問題ではないが、あの化け物の正体は気になっていたので質問した。
ターニャはミドリの肩を縫いながらなので一個一個の回答までに多少の間があるが、ミドリは気にせずに彼女が口を開くのを待った。
「………残念なことに私もそのような存在に心当たりはありません。ですが、そのような存在がいることは風の噂で聞いたことがあります。そして、そういったこの世界の、人智を超えた存在について知っている人間がいるとも聞いたことがあります。でもそれはこの村にはいません」
「知っている人間って、どこにいるんですか」
「正確には知っていた人間、かもしれません。……その昔、私が修道院で神の教えについて尊い学びを受けていた時のことですが、その修道院があったのはニルディよりも遥か東のサンスベールという国のシッドーという街です。その街では宗教信仰が強く、神の教えは絶対だと言われていました。私は神の教えは尊いものであるという思想には大いに賛成しますが、神の教えは絶対だという狂信的な風潮には疑問を抱いていました。なので修道院での学びを終えると私はシッドーの街をでてニルディで小さな教会の司祭をするに至っています」
「それはあの化け物を知っている人間に関係があるんですか」
ミドリは突然自身の経歴を語りだしたターニャに対して話が本線から逸れないか心配になって聞いたが、ターニャは目を瞑ってゆっくりと頷いた。
どうやら年を重ねて懐かしい話を聞かせたくなってしまっただけではないらしい。とはいえ肩を縫っている途中で目を瞑るのは怖いからやめて欲しいとミドリは感じた。
「そのシッドーという街では狂信的な神の信仰が行われていたのは言った通りです。なのでシッドーでは私のいた巨大な修道院が街の中で大きな権力の一翼を担っていました。その修道院は今いるこの教会の何十倍もあるんですよ。きっと見たらミドリも驚きます。たくさんの修道女が学び、教徒は巡礼し、集会の際にはそれでも入りきらないほどの人が集まります。狂信的な信仰が行われているだけならまだよかったのですが、シッドーでは神の教えを守らない、若しくはそれに準ずる人間を排斥するにまで至っていたのです。罰を与え、衆目に晒し、神の教えを守らなければこうなるのだぞと、晒されました。そうすることでどんどん街の中での信仰の価値は高まっていきました」
そう語るターニャの顔はこれまで以上に厳しいものだった。
「排斥って、要するに魔女狩りみたいな………?」
ミドリは宗教問題について詳しくはなかったが、その中でも記憶にあったものを一つ取り出した。
「よく知っていますね。……そうです、魔女狩り、異教徒狩り、異端者狩り、邪教徒狩り、歴史的に様々な風に呼ばれますが、問題はその名称ではなくそういった事実があったということです。当然、民の神に対する絶対的な信仰心を植え付けるためにもその街では魔女狩りが行われていました。その当時一修道女に過ぎなかった私は信仰に目がくらんでいて分かりも、分かろうともしていませんでしたが今なら分かります。信仰と言いつつ神の教えを政治の道具にして民衆を治めていただけなのだと。時には行商人を捕まえては市中引き回しにしたうえで車裂きの刑にして教会の前にその首を晒したりもしていました。これが異教徒だと、恐ろしい魔女だ、邪教徒だと民衆に見せつけていました。酷く愚かで浅ましいことです。本来神の教えを学んでいる人間のすることではありません」
ミドリはターニャの言う光景を思い浮かべてゾッとした。
この世界では未だに平気でそう言ったことが行われている場所もあるのだと、ミドリは自分の中の価値観が崩れ去りそうになった。
「そして、その街にある一人の物乞いがやってきました。その物乞いは身なりは貧しくとも目は強い光を放っていて人を引き付けるものがありました。私はそれをよく覚えています。そして言ったのです、『自分はこの街に向かってくる化け物を見た。大型の野生動物や妖魔などではない。人の形をしていたが、其ののち変形して5メートルをも超える化け物に変化した。早く手を打たなければこの街が危ない』と。私もその時その物乞いが言うことがどういうことか全く理解できませんでした。神の教えを絶対的に信じる教徒にとってそのような人智を超えた化け物の存在を認めてはならないのです、いえ、強い信仰の檻に閉じ込められている街の人間にとってそんな存在は信じられるものではありませんでした。当然、その物乞いは魔女裁判にかけられるまでもなく修道院の前に磔にされました。水も食料も取ることは許されず、化け物などという非存在を民衆に吹聴し、惑わしたという罪でした。私もその物乞いを近くで何度か見ましたが、その男は人が近づくたびに死ぬまで警告し続けました。化け物の存在を。ついに物乞いは干からびて息絶え、とうとう化け物もシッドーの街に現れることはありませんでした。なので物乞いの言葉をまともに覚えている人間などほとんどいないでしょう。ですけど、私は忘れられませんでした。彼のような強い瞳を持つ人間が嘘や冗談で言っていないことは何となくわかりました」
ターニャは遠い過去を見るように目をさらに細めた。
「当時、私には彼をどうすることができるほどの力を持ち合わせてはいませんでしたが、せめて話だけでもまともに聞いてあげればと後悔していました。そして今回のミドリやルナ、アンリの体験した話を聞いて物乞いが言っていたことが本当だと分かりました。その物乞いが見た化け物と、ミドリ達が見たものが同一のものかは分かりません。ですが、そういった超常的な存在が確かにいるということは疑いようもないでしょう。私はあなたや彼らの話を信じます」
そこまで言い切るとターニャは「はい、終わりましたよ」と言い、再び包帯を右肩に巻いてくれた。
ミドリはまだ聞きたいことがあったが、ターニャは何かを聞く隙を与えずに出て行ってしまったのでそのまま部屋に一人取り残されてしまった。
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