トルドー邸焼失

 枢密院のなかでも良識派、と称してよいかは難しいが、ブラニクと同様に派閥抗争を忌避あるいは批判する者はいる。ペドロサとゲンスブールである。

 ペドロサはもともと旧体制において南方都市エクランの治安維持を任され、解放戦争においては軍の一翼を担い、その冷静沈着な指揮ぶりと規律のある軍はいくつもの戦いを勝利に導いた。

 ゲンスブールは帝国の官僚であったところ、腐敗しきった宮廷や行政組織のありように義憤を覚え、理想のほとばしるまま、ルブラン・サロンに身を投じた。解放戦争で主に義勇軍や降伏兵で構成された混成部隊を率い、困難な任務をよくこなした。

 彼らは新たに建国されたロンバルディア王国においても五人の将軍、いわゆる五龍将軍の一角として大軍を率いる身である一方、ともに帝国の悪政を嫌って解放運動に共鳴しただけに、枢密院の変化に対して特に嫌悪感が強い。しかし、状況を考えるとブラニクのように軽々しく下野することもできない。彼らが去れば、彼らが有していた軍事力を目当てに、革新派と中道派の対立が激化することは目に見えている。

 彼らは五龍将軍の僚友、アレックスことフェルミ将軍並びにシャルルことモンテカルロ将軍に、両派の招きに応ぜず中立を守るよう呼び掛けた。

 そしてヴァレンティノことヴァレンテ・ロマーノ将軍に対しては、女王のソフィーを経由して警戒を促すこととした。ヴァレンティノは軍事的才能にかけては天賦てんぷのものがあるが、性格に関しては相変わらず子供っぽい無邪気さが抜けない。両派いずれかが手練手管を弄してうまうまと彼を取り込んでしまったら、事態が決定的に悪化しかねない。

 ソフィーは彼女の信頼するペドロサ、ゲンスブールから懸念を聞き、不本意ながら極めて限定的にこの争いに介入することとした。

 ヴァレンティノは軍務に忙しくしているが、ソフィーからの呼び出しにはまるで忠犬のように尻尾を振って走っていくところがある。将軍と呼ばれていても、実はまだ20歳にも満たぬ青年なのである。

 ソフィーはこの男に対しては妙に母性が強く働くのか、危なっかしく思われてならない。

「ヴァレンティノ、今日は少し聞きたいことがあるの」

「なんだい、ソフィー姉さん」

「その呼び方、いつまで続けるの?」

「よくないかなぁ」

「まぁいいわ」

 甘やかしてもいる。

「聞きたいのは最近、枢密院の人たちから、接触を受けてるかっていうこと」

「あぁ、ここんところそんな誘いばかりだね。昨日はカッシーニさん、おとついはトスカニーニのおっさんにワインを飲まされたよ」

「あなた、彼らに利用されるわ」

「まさか、一緒に飲み食いしただけだ。利用されようがないよ」

「その、一緒に飲み食いしたという事実が危険なの」

 ソフィーは政治が苦手、というよりはむしろ嫌悪し敬遠していたが、ヴァレンティノの政治的なセンスは彼女よりもはるかに劣るようだ。なるほど、枢密院自体は自前の武力がないが、その分、五龍将軍を取り込めれば相手派閥に対して大きな後ろ盾となる。軍を巻き込んでの派閥抗争となればそれこそ内戦に発展しかねないから誰も望まぬことではあるが、権力欲にとらわれ、緊張と敵対が限界に達すれば偶発的ないし計画的に激発することもあろう。

 だから、五龍将軍のなかで最も籠絡されやすいであろうヴァレンティノには、くれぐれも自重してほしい。

 ヴァレンティノはソフィーから諄々じゅんじゅんと説諭され、ようやく理解した。

「ソフィー姉さん、よく分かった。身辺には気をつけるし、誓って彼らの私的な指示で軍を動かすようなことはしない。俺の仕事は、ソフィー姉さんとソフィア姉さんを守ることだ」

「ありがとう。けどあなたの仕事は、私やソフィアではなく、この国に暮らすすべての人を守ることよ」

「あぁ、肝に銘じるよ、姉さん」

 ソフィーが安心のために表情をやわらげると、ヴァレンティノもミントグリーンのような明るい色の瞳をいっそう輝かせて笑った。もう少し落ち着きがあれば、ソフィーもこうまで彼の心配をせずに済むであろうに。

「ヴァレンティノ、あなたは結婚して家庭を持つ気はないの?」

「結婚!?」

「いつまでも子供ではないのだし、考えておかしくない年頃よ」

「想像したこともないよ、結婚なんて」

 ヴァレンティノはこと婦人のことになると、そっけない。今や解放戦争における軍事的英雄として巨大な名声を手に入れ、その点では引く手あまたといったところだろうが、彼自身は異性に興味がないらしい。彼にとって女性とはまず崇拝するソフィーのことであり、それは神聖で完璧な存在であり、かろうじてソフィアがそれに次ぐと思っているが、ほかの女性にはどのような魅力も感じていない。ソフィーに対する信仰心が強すぎるあまり、女性というものに対する神秘的な憧憬どうけいがかえって性的好奇心の邪魔をするのかもしれない。

 彼は苦手な話題から逃げるため、ソフィーが関心を持つであろう別の話題に触れた。

「結婚といえば、ソフィア姉さんはどうするんだろう」

「テオのこと?」

「あぁ、このままじゃ二人が不憫ふびんだよ。ソフィー姉さんの力で、なんとかならないのかい?」

「私が決めることではないわ。本人たちが話し合って決めるべきことよ。ふたりが結婚したいと言うなら、私はそれを全力で助ける。でもふたりが今のままでいいということなら、私がでしゃばることじゃないわ」

「姉さんは優しいけど、厳しいところもあるね」

「厳しいかしら」

 そうだろうか、とソフィーは思う。彼女としては、ただ本人たちの意志を尊重したいという、それだけだ。彼女らが覚悟をもって決めたことであれば、周りがとやかく言うことではない。妹が女王位をしりぞいて結婚したいと言えば、彼女はそれを応援したであろう。だが彼女らが何も言わず、一方は女王として、一方は女王を輔弼ほひつする枢密院の筆頭として、互いに立場を守り距離を保ち、世間的に両者のあいだに個人的関係があったことはまったく表に出ていない。要するに、彼女らが愛し合っていたこと自体、なかったことになっている。

 けれどその状況に甘んじているということは、彼女ら自身の選択なのである。

 その選択を尊重するという態度が、厳しさになるのであろうか。

 ソフィーにとってソフィアは、かけがえのないたったひとりの家族である。国を安んじることは彼女の大切な務めであるが、それとはまったく別の次元で、妹の幸せを心から願っている。願っているが、幸福とは結局は自分の選択の積み重ねによって手に入れるものであろう。

 さて、いずれにしても五龍将軍は枢密院内部の対立からは中立を保ち、その意味で少なくとも軍事的に国内を二分するような事態は当面避けられる見通しとなった。

 だが時流はなおも血のようにどす黒く、怒涛のように荒れ狂おうとしている。

 破局はミネルヴァ暦449年秋に訪れた。

 この時期、中道派のトルドー家とマルケス家とのあいだに縁組が成立しようとしていたが、これに激しい非難を加えていたのが革新派であった。枢密院のメンバーは言うなれば大臣であり、そのような高位の役職にある者同士が私的に婚姻関係を結ぶのは、派閥の発生の原因となり、国家の公正と安定を損なうことになる、と指摘した。派閥が発生しているのは建国のときからであり、また革新派も革新派で派内の養子縁組の先例があったから、とんだ言いがかりといったところではあった。

 中道派も、特に縁組を規制する法がないこともあり、当家同士のめでたき縁に他人が横槍を入れるのは無粋である、いやしくもトルドー外交院長とマルケス農務副院長に公私の分別を忘れる懸念ありなどとは下衆の勘繰りもいいところであるとまで言って、婚約の儀を強行しようとした。

 ルブランら革新派は大いに義憤に駆られ、ついに暴発した。腕の立つ傭兵を雇い入れ、トルドー邸に忍び込ませ、祝いの騒ぎに乗じて火を放ったのである。

 トルドー邸は全焼し、その過程で両家の親族や参加した知人縁者に少なからぬ犠牲者が出た。特に深刻であったのは、新郎新婦が揃って焼死体で見つかったことである。聡明で将来を嘱望しょくぼうされていた長男を失ったトルドーは悲嘆に暮れ、翌朝の枢密院全集会にて、革新派の筆頭であるルブランを名指しで疑惑ありと申し立てた。ルブランは当然、陰謀の存在を否定した。

 もはや両派の対立は政治的にも感情的にも修復不可能な段階にまで進行していた。院長のテオドールや、中立派の面々は必死に事態の収拾を図ったが、時すでに遅し、と誰もが考えていた。早晩、異変がこの国に起こるであろう。

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