進軍

 解放軍、立つ。

 そのしらせを受け取ったときのテオドールは、歴史的にはなかなか滑稽な姿であったろう。何故ならば、彼は解放軍の指導者であり、立つか立たぬか、立つとしてそれがいつなのかを決定するのは本来は彼の役目であり、他人から報告されるべきことではない。

 ルブランら都の連中が勝手に挙兵を決めた、として呆然とするなり、恐怖するなり、あるいは怒り狂っても不思議ではなかった。

 ただ、テオドール・ルモワーヌという人物はどこまでも受容性に富んでいる。というとやや美化して表現しすぎているきらいもあるが、要するに大波に流される際も、無理に踏みとどまったり流れに逆らって泳ぐよりも、波にさらわれつつもそのなかでどう姿勢を安定させ、岸辺にたどり着くか、そういったことに反射的に思考を寄せていくところがあった。

 このときも、彼のそうした資質が光り輝いたように、人々には思われた。

 故郷のセーヌ村を含むカンペルレ州一帯で私兵の徴募にあたっていたテオドールには、元官僚のゲンスブールと書生のデュラン、それにアーヴェンら護衛隊が三名と、随行はわずかにそれだけであった。つまり戦力としては皆無に等しいから、この時点では彼らは最も無防備な叛乱勢力であると言えた。まとまった兵を持つペドロサ軍やアレグリーニ軍とははるかに隔たりがあり、近隣に頼れる味方もいない。

 情勢は極めて危険であり、急を要する、とゲンスブールやデュランは危機感を持った。テオドールに対する手配書が周辺に届けば、彼らは役人や賞金稼ぎ、あるいは近在の住民によって捕縛されてしまうであろう。

 今すぐにここから逃げるべきだ、と彼らは唱え、護衛責任者のアーヴェンも賛同した。

 しかし、テオドールのみ、別の案を主張した。

「これも、天の与えた契機なのかもしれません。今、この地で挙兵しましょう」

 彼の度胸、あるいは無謀には、側近らも仰天した。テオドール自身を含めて、この場には六人しかいない。六人で挙兵というのは、歴史上にも類がないであろう。

 だが一方で、彼らの想像以上に、反体制の気運が高まりつつあることも、肌で感じられる。あるいは、彼らの即時挙兵の呼びかけに応ずる者は、少なくないかもしれない。

「やってみよう」

 ルブラン・サロンの連中に共通する性格として、一度、方針が決定すればどこまでも意欲的かつ積極的に計画に参加し、その達成に邁進まいしんすることが挙げられる。この推進力と言うべきか、ある方向に向かって走り出したときに見られるルブラン・サロンの集団としての有能さは、大陸史において際立ったものがある。

 テオドールはアーヴェンと、ゲンスブールとデュランもそれぞれ護衛を一人だけ連れ、手分けして各村に挙兵を訴えるべく動き始めた。彼は手始めに生まれ故郷であるセーヌ村に赴き、そこでまず旧知の若党どもを語らい、さらに広場で演説して、人口300人ほどのこの村から老若合わせて34名の兵を募ることに成功した。質はともかく、数は一個小隊の規模であり、望外の成果と言える。彼らはテオドールの人望やルブラン・サロンの思想に共鳴したというよりは、まず術者姉妹の名声に引き寄せられたのであった。ソフィーとソフィアの人柄と力、彼女たちが起こした奇跡の数々を、この村の人々ほど鮮明に記憶し崇拝する者はいない。彼女らが解放運動とやらの象徴であるなら、それはまさに天意である、天意に従い立つは今である、と血気盛んな連中などはテオドール以上の熱意でもって語り合った。

 ソフィーとソフィアの名望は、もはやひとつの国を覆すほどにまで成長していたのかもしれない。

 カンペルレ州を巡回し、集まった兵はついに2,000を超え、ほとんどが農民兵であるために練度は極めて低いが、その分、士気は天をかんばかりに高かった。手にしている武器は例によって粗悪品ばかりで、鍬を持つ者も多く、狩猟用の弓矢を持っている者は精鋭扱いされた。外観は、大規模な農民叛乱と何ら変わらない。

 だが、テオドールを司令官、ゲンスブールを副司令官、デュランを参謀、そしてアーヴェンを先鋒大将としたこの軍の勢いたるやすさまじく、カンペルレ州の兵どもはそのほとんどが逃げるか降伏し、一帯は解放軍の制圧下に置かれた。

 さらにこの地方の騒乱を知り派遣された政府軍は、五騎大将軍の一角であるカペル将軍をガンガン湖畔の戦いで亡くし、兵の多くも失った。

 テオドール軍は補給を整え、3,000人にまで膨らんだ兵とともに西に進んで、アルジャントゥイユのルブラン・サロンと合流を果たした。つまり、ソフィアと再会した。

 テオドールは偉大な指導者、救国の英雄として改めて迎えられたが、ソフィアだけは彼をそう見ていない。彼が成し遂げた功績などはどうでもよく、ただ彼が無事に戻ってきたことを、喜びと安堵の混じった淡い表情で受け止めている。

 夜、ふたりはブラニクが再び好意で用意してくれた小さな家で、ともに過ごした。若い男女は生きて再会を遂げた喜悦と幸福のなか、何度か求め合い、互いの愛情を最も直接的な方法で感じた。戦場に立ち、修羅場をくぐってもなお、テオドールの彼女に対する一途な想いにかげりはない。テオドールが生きて戻ったのと同じほど、彼女はそのことにも安心した。

 ようやく疲れ切って、抱き合い眠ろうというとき、ソフィアは窓からわずかに漏れる月明かりを手掛かりに、初めてテオドールの右腰に傷を発見した。聞くと、ガンガン湖畔での大規模な戦いで、切創を負ったらしい。まだ傷跡が生々しく、放置すればあるいは命取りになるかもしれない。

 ソフィアはおもむろに顔を寄せ、姉が患者に対してするように、傷口に接吻を施した。思念を含んだ唾液は、まるで女神の水瓶からこぼれる聖水のように、跡形もなく傷を消した。テオドールは、彼女の行いがその志に背くのではないかと心配をした。術者としての思念は、より重篤な症状に苦しんでいる人々に対して捧げられるべきものだからである。

 言葉にせずとも、彼女はテオドールの懸念を察した。

「いいの、たいした傷じゃなかったから」

 テオドールが触れると、傷ついていた組織が完全に再生したらしく、痛みどころか違和感すらもない。これが生死の淵を彷徨さまよう負傷者や重病人であったら、一瞬で苦痛や恐怖から解放してくれる彼女らを崇拝するのも、当然の道理であると言えよう。

 神、とそう呼ぶしかないのかもしれない。

 一挙に3,000を超える軍団を抱えることになったアルジャントゥイユの解放軍本部であったが、問題は補給であった。人口の倍以上の軍を、この村だけで養ってゆくのはどう考えても不可能である。解決策はふたつしかない。軍を解散するか、糧食を求めて都市圏に攻め入ることである。

 この場合、足踏みをすれば補給が滞って軍は瓦解する。

「直ちに、都へ軍を進めよう」

 ガンガン湖畔での大勝に気分が大きくなったルブラン・サロンの面々はしきりと速戦を唱え、テオドールを総大将、ルブランを参謀、ゲンスブール、アレックス、アーヴェンらを部隊長とする全軍で南へ進軍した。

 この軍が、五騎大将軍の筆頭であるミニエー老将軍率いる討伐軍に、完膚かんぷなきまでに負けた。

 敗戦とは、およそ悲惨なものである。苦心して新兵を集め、さらにガンガン湖畔の勝利で吸収した兵たちも、百戦錬磨の獅子に率いられた討伐軍の前では、逃げ惑う羊も同然であった。もとよりテオドールやルブランの軍事的才幹などは程度が知れている。軍は、勢いも確かに重要であろうがそれだけでは勝てない。

 テオドール軍は数の上では討伐軍に勝っていたものの、ミニエー将軍はこの戦いにあえて少数の精鋭のみを率いて臨んでおり、その指揮は的確で、数多くの戦術的工夫を凝らし、テオドール軍を四分五裂に追い込んだ。

 敗戦のさなか、テオドールは勇気を発し、逃げる味方を援護して戦場にとどまったが、ついに討伐軍の包囲を受け、脱出の機を逸した。このとき、彼のそばにアーヴェンがいなければ、彼は野の屍となっていたであろうことは疑いない。

「お父上のご遺言をお忘れあるな。脇目も振らず逃げて、必ずや再起を図られるよう」

 それがアーヴェンの最後の言葉であった。彼は単身、敵中へと取って返し、自ら解放軍の指導者テオドール・ルモワーヌと名乗りを上げ、群がる敵兵を引き受けて、奮戦の末に全身を槍に貫かれ死んだ。

 アーヴェンは通称で、正しくはアヴェンタドールが彼の名であったが、それも彼自身の自称に過ぎない。この頃は名乗りなど、気軽に変えることができる。例えばシャルルも、モンテカルロの別名であり、しかももとはシノーポリという名前であった。それすら、自称かもしれない。

 いずれにしても、世が世ならルモワーヌ家の召使いに過ぎず、そうであればアヴェンタドールの名も残らなかったはずであるが、今日こんにちでは無口で無愛想ながら若き主人に忠実に仕え、解放戦争において壮烈な死を遂げた勇者として知られている。

 彼の犠牲のもと、テオドールは命を拾い、半数にまで撃ち減らされた味方とともにアルジャントゥイユへと逃げ帰った。ルブラン・サロンの人々は、早急に軍を進めるようにけしかけた自分たちの迂闊うかつさを呪ったであろう。偵察によれば、ミニエー将軍率いる討伐軍は、速くはないが重厚な足取りで、着実にアルジャントゥイユへと近づいているという。

 この危地に、アレックスは自ら少数の兵で敵を攪乱し、そのあいだにテオドールを含めた指導部とソフィアはアルジャントゥイユから避難するよう提言し、一度はその準備もされたが、これは結局、実施されることはなかった。

 南方都市エクランから、ヴァレンティノの率いる援軍が長駆して駆けつけ、背後から討伐軍を急襲して、敗走に追い込んだからである。しかも、ミニエー将軍に手傷を負わせ、短期的にはその軍の作戦行動を不可ならしめた。

 助かった、とサロンの面々は思ったであろう。そして、ヴァレンティノの鮮やかな作戦指揮に、誰もが驚嘆した。

 テオドールはルブランらと相談し、合流させた兵力を四分し、それぞれの指揮官にゲンスブール、アレックス、ヴァレンティノ、そして自身をあて、これを互いに連携させて、カーボベルデへ向かわせることを決定した。

 今や、解放運動は単なる地方叛乱の頻発から、帝国の危急存亡のときであるとして、にわかに皇帝を含む指導者たちに差し迫った脅威を認知させるようになっていた。

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