愛すべきひと
「ソフィアお嬢さん、テオが帰ってきた!」
知らせたのは、モラレスという壮年の男である。彼はルブラン・サロンでも特に初期から活動している名士で、まるで古代神話の英雄のような、あるいは成年のヒグマのような屈強な
時刻は夜に近く、ちょうどその日の診療を終えようという頃だった。ソフィーが都を離れ、患者を一人で治療しなければならないため、さすがに疲れがある。しかしテオドールの帰還を知ると、心に淡い喜びが満ち、
「ソフィア、戻ったよ!」
「テオ」
命懸けの旅路を経て戻ったテオドールの顔は、ひげが育ち、汚れも目立つ。だがチョコレート色の瞳には、ソフィアへの真っ直ぐな想いがたたえられて、いささかの変わりもない。
ソフィアは、あらん限りの勇気と決意でもって、精一杯の微笑を浮かべその瞳を見上げた。
「おかえりなさい」
まだまだぎこちなさの残る笑顔であったが、衆人環視のなかでこのように素直な反応を見せられるようになったこと自体、彼女の成長と言えるのか、どうか。
彼女自身は少なくとも、できなかったことができるようになったとは思っていた。
テオドールは出発のときと同様、ソフィアの額にキスをし、さらに頬にも口づけ、親愛の情を示した。
報告すべきことは多い。しかし何にしても、オルビア州長官のアレグリーニが同心を約束したことで、同州は事実上、帝国から離れ解放軍の傘下に入ったこと。またテオドールが、交渉術というよりはその誠意と人柄で、人を動かしうること。そして彼自身が生きて戻ったこと。
それだけでも、ルブラン邸をお祭り騒ぎにするには充分であった。
ソフィーに同行している者たちや、かねてより各地に散って工作活動を継続している人々が不在のために、この日のルブラン邸に
宴は長い。
ソフィアもテオドールも、酒はたしなむ方ではない。
診療の疲れもあって、ソフィアがややけだるそうにしていると、ブラニクがそっと声をかけ、彼女の持っている居宅の一つを案内した。祝宴は、もしかすると夜通し続くかもしれない。あまり騒がしいと睡眠に差し支えるだろうから、と言うので、なるほどとも思い、好意に甘えることにした。
ベッドに入って少しすると、物音がする。
ブラニクかと思い体を起こして待つと、テオドールであった。彼も、少し驚いたような顔をしている。
「テオ?」
「ソフィア?」
「どうしたの?」
「いや、僕はアレックスに、落ち着いて休めるところがあるって」
(
ソフィアは内心で憎々しくも思ったが、テオドールは困ったような笑いを浮かべて、少し長くなった髪をかき回している。解放運動の指導者の件もそうだったが、彼は周囲からの干渉に対する受容性が高く、頼まれたら安易に引き受けてしまうようなところがある。
そうしたある種の要領の悪さが、ソフィアがもどかしく思う部分でもあるが、同時に好ましくも感じられるのであった。特にこの場合、仲間たちから意図的に彼女らふたりだけの環境をつくり出されて、テオドールは戸惑うでも腹を立てるでもなく、泰然自若として、この異常な状況を受け入れてしまっている。
だから、彼女も受け入れることにした。
ふたりはベッドに並んで座り、久しぶりの会話をした。部屋にも、家のどこにも、彼女ら以外の気配はない。透き通るような静けさだけが、ふたりの話の行方に聞き耳を立てていた。
「ソフィア、心細かったと思う。僕のあとに、ソフィーもエクランに行ったって聞いたよ」
「私、子供じゃないの。さびしくたって、死んだりはしないのよ」
「でも僕は、君にさびしい思いをさせたくないんだ。幸せにしたい」
素直で真心があって、本当にいい人。
ソフィアは改めて思った。この人には、曲がったところや歪んだところがひとつもない。どこまでも、彼女のことを一途に思ってくれているらしい。
(私も、もっと素直になりたい)
そうすれば、彼ともっと距離を縮められるに違いないのだ。姉も言っていた。自分の気持ちを大切にして、その気持ちに精一杯に向き合って行動するのだと。
不器用なりに、変わりたい、とは思っている。
しかし人間たるもの、変わるには痛みがある。ソフィアはそれこそ痛いほどの動悸を胸の奥に感じながら、必死に自分の気持ちを伝えようとした。
「テオ、私、幸せよ。あなたがこんなに想ってくれて。私も」
「君も?」
「私も、私もあなたのこと」
それからは、言葉にならなかった。最も言葉にしたい、言葉にすべき想いが、喉を通らなかった。時間が与えられたなら、彼女にも言えたかもしれない。しかしテオドールの優しさが、彼女の肩を引き寄せ、彼女の手を握り、そして、彼女の唇におずおずと触れた。
カーボベルデはほぼ一年を通して温暖な気候ではあるが、冬の夜中は窓の外から忍び入る冷気が人肌をささやくように撫でてゆく。だが、ソフィアの全身を駆けめぐる脈動は彼女の体をいよいよ熱く、高まる情愛で満たしてゆくだけであった。
一度目の口づけのあと、テオドールは彼女の
彼は、心のままに尋ねた。
「ソフィア、どうして泣いてるの?」
「聞かないで」
と言いかけて、ソフィアは別のことを告げた。彼に対しては、彼女もその心のままに応えるのがいい。その方が、女心を知らない彼を安心させてやれるし、彼女自身、伝えたいこともあった。
「幸せだからよ、テオ」
語尾に、行動が重なった。彼女自身ですら思いがけないことに、彼女からテオドールの唇のありかを求めていた。テオドールは、今度はやや自信を持ち、より力強く、さらに長く、唇を交わした。
ソフィアはただ、騒がしいほどの胸の鼓動と
そして図らずも無防備な
「ソフィア」
耳元で、名前を呼ばれる。誰よりも近く、互いの体温を感じながらささやかれるその言葉は、ほかのあらゆる愛の文句よりも甘美で、幸福をもたらすものである気がした。
ソフィアは感情そのままに揺れる声で応えた。
「テオ、愛して」
愛してる、と彼女はそれを伝えたかったかもしれない。しかし懇願するような口調で発するには、あるいは彼女らしいという意味では、その言葉の方がこの際は似つかわしかったであろう。
「テオ、私のこと愛して。あなたに愛してほしい」
あとは、どれだけの時間、どのようにして振舞ったか、彼女の愛する男の声、肌のぬくもり、筋肉の張り、髪のにおい、あふれる情愛、そうしたすべてを切ないほど自らの体に刻み、あるいは血の一滴一滴にいたるまでしみ込ませようとするかのようにただ懸命に受け止め、受け入れるばかりであった。
朝、経験したことのないような体の痛みや重さとともに目を覚ますと、テオドールは彼女のすぐ隣にあって、まるで子供のような無邪気な表情で寝入っていた。彼は政権の転覆を狙い、驚天動地の大回天事業をなそうという一団の指導者たる地位にあるわけだが、彼女とともに羽毛にくるまっている以上は、他愛ない寝顔を見せるひとりの男、それ以上でもそれ以下でもない。
彼女らのその後がどうなるにせよ、少なくとも当事者たちの記憶に永遠に残るであろうこの朝の迎えを、ささやかな記念として歴史にとどめてやるのがよいであろう。
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