亡国近し

「帝国の命数もいよいよ尽きた」

 その声がルブラン邸に集まる有志連中、いわゆるルブラン・サロンのあいだでため息混じりに上がるようになったのは、ミネルヴァ暦445年の夏頃であった。

 彼らは姉妹の後援者であり、同時に憂国の士であった。両者は矛盾するものではなく、むしろ姉妹を都に呼び寄せ、ペストに苦しむ者たちを救おうとする精神の持ち主であるだけに、堕落し力を失った宮廷に対し失望し憤慨するだけの情熱も余人より多分に有していた。

 ただ、憂国の情がすなわち、

「現在の宮廷を打ち倒し、新しく国を興すべきだ」

 とはならない。国を滅ぼし、また建国するとなると、それこそ大衆の受ける影響は甚大である。第一、指導者がいない。ルブランやカッシーニといった中心人物たちも、あくまで市井しせいの名士であり、固有の政治力や軍事力を有しているわけでもなければ、指導者としての器もない。彼らが支配体制に対抗する勢力を糾合きゅうごうすることは少なくとも即座には不可能であろう。

 名士たちの一部は、水面下でその指導者を探し始めた。無論、帝国の膝元であるから目立った動きはできないが、彼らはそれ以前に増して人脈を広げることに腐心した。これはと思われる人物の噂を聞きつけては会いに行き、その器を鑑定する。だが容易には見つからない。

 この時期、帝国では皇帝がペストに倒れて病没し、後を継いだ若い皇帝は肉欲と狩りにのみ興味を示し、惰弱だじゃくな皇帝におもねる奸臣や佞臣ねいしんがはびこって権力をわたくしし、宮廷などもはや有名無実というところまで腐敗が進んでいる。支配体制の刷新を望んでいるのは何も彼ら名士だけではなく、時勢や問題意識の強い都会人ならば誰もが持っている認識であった。早晩、帝国は滅びるであろうし、早く滅びてくれと誰もが願っている、少なくともそのような雰囲気が醸成されつつあるのは確かであった。あとはそうした勢力の核として、反動分子を結合させる指導者がいれば、集団は目指す方向を得て一気に奔騰するであろう。 また帝国の武力に対抗するための軍事力のあてについても、隠密裏に渡りを付けておく必要がある。

 前者は見当がつかないが、後者は遊説家のトルドーや慈善活動家のセルバンテスが地方へ赴いて、反体制の扇動を行っている。このためこの時期を境に、帝国内で地域的な叛乱が続発し、そのなかで鎮圧軍を駆逐し勢力を持った連中は、各地方で盤踞ばんきょして、徐々に帝国には分裂のきざしが見られることとなる。

 だが名士たちの目的は、分裂ではない。彼らは腐敗し旧態依然とした帝国に代わる統一政体の樹立こそが望みであって、たとえ一時的に帝国が分裂してもそれを長期化させて国土を荒廃させ、民衆に塗炭とたんの苦しみを味わわせるのは本意ではない。分裂は手段でありしかも短期であるべきで、速やかに新政権へと統治体制を移行するのが望ましい。

 ただし今は、何事も絵に描いた餅に過ぎない。

 姉妹の名声は、彼ら名士たちの誰よりも高まり、都であるカーボベルデはおろか、帝国全土に響き渡るほどであったが、彼女ら自身はこうした政治的な動きに無関心であった。むしろ彼女らの後ろ盾である名士たちが、危険な地下活動に手を染めていることを危うく思ってもいた。特にその策源地のようになっているルブラン邸の中心になっているのは当の彼女らで、無関心であっても無関係ではいられないのである。

 特にソフィアは、徐々に不穏に、急進的になってゆく周囲の動きに、不安をつのらせた。ソフィーはおおらかな性格である分、楽天的な傾向があるが、ソフィアは危険に対して鋭敏なところが強い。

 テオドールがいなくなってから、とりわけ彼女を気にかけるようになってくれたのは、まずは薬商人のヴィクトリア・ブラニクであった。彼女は在野の女傑とでも言うべき人で、ペストの蔓延にともなって跋扈ばっこしていた悪徳の薬商人どもと異なり、本物の薬草を使った医学的な治療を目指していた。当時の薬商人のほとんどは、病気で肉体的にも精神的にも苦しい状況にある患者やその家族らをだまし、高額な薬を売りつけ、しかもその薬というのも薬草でなくただの雑草、要するにまったくのでっち上げであった。彼女はこうした詐欺商法を撲滅して、苦しむ人々に効果のある医療を提供することを目指していた。

 というとまるで聖人のにおいがするが、実際には志の実現のために手段を選ばぬあくの強い一面も持ち合わせていて、ソフィーらに協力するのも、ペストの状況が落ち着いたら都の薬市場しじょうを独占したいという野心と、その下準備として姉妹に群がる名士連中に顔を売っておきたいという目論見もくろみのためである。また彼女は裏稼業にも手を染めていて、帝国の政府高官のあいだでは多少知られた娼家を有しており、娼婦の仲介や斡旋あっせんをしたり、彼女自身、幾人かの大臣と体の付き合いがある。そのためルブラン邸に出入りの名士連合のなかでは、屈指の情報通でもある。一方で腐敗し堕落した宮廷の原因の一端をつくっているとして、彼女を軽蔑したり嫌ったりする名士も、一部ではあるが存在した。

 それゆえルブラン邸ではひときわ華やかな異彩を放ちつつも、扱いは決して重くない。

 だが彼女は度胸や胆力も並外れていて、肩身の狭い思いをするどころか、ルブラン邸に入りびたり、我が家のごとく振舞って悪びれなかった。

 人見知りの激しいソフィアは、彼女のことが怖かった。何しろ、20歳を迎えてもまだ少女の純真さと世間知らずを多分に残している彼女にとって、薬商人でありながら娼婦の親玉という裏の顔を持つブラニクは、得体えたいが知れず、どことなく不安である。ブラニクはよわい30前後といったところで、この頃の感覚ではそれくらいにさしかかると女としてはもはや初老と言っていいが、肌にはまだ充分な潤いがあり、男の好む妖艶さをまとっている。そういったあたりも、うぶなソフィアにとっては苦手であった。

 しかし、ブラニクの方はソフィアを気に入っている。賢明で物怖ものおじせず、公明正大な人格者として尊敬を集めるソフィーよりも、原石のような土臭さと不器用さが抜けないソフィアの方が、世間れした彼女のような者にとってはかわいいのかもしれない。

 ある日、ブラニクはソフィアのくサンダルがひどくいたんでいるのに気づき、新しいものを用意してやった。

「天下の術者様が、いつまでもみすぼらしい格好をするもんじゃないわ」

 戸惑うソフィアに構うことなく、上等な皮革を用いたサンダルを履かせて、古いものは取り上げてしまった。

「あ、あの、ありがとうございます」

「そんな顔しないの。なにも、あなたを取って食おうってんじゃないんだから」

「ごめんなさい」

「あなた、まだ男を知らないでしょ」

「えっ」

 と、ソフィアはみるみる顔を赤らめて、うつむいた。その痛々しいばかりの素直さに、ブラニクはくすくすと笑う。

「恥ずかしいことないのよ。誰にでも知らないことがあるのだから」

「私、そんなに子供に見えますか?私も、姉さんと同じ20歳なのに」

「あなたの姉さんだって男はまだのはずよ。あの子、見るからに身持ちが固いものね」

「そんなことまで分かるんですか……?」

「男女のことで、私が知らないことはないわ」

 怖い人、とソフィアは改めて感じた。だがどことなく、姉とは違った意味で、頼もしさのようなものがある。しかも、ソフィアに対しては気にかけてくれているようだ。ルブラン邸の関係者はみな彼女らの後援者だから当然といえば当然であるが、はにかみ屋で人付き合いに消極的なソフィアは、彼らのことをまだよく分かっていない。心を許せる相手はほんの数人といったところだ。

 ブラニクはさらにずけり、と踏み込んだ。

「ねぇ、あなた気になる男はいないの?」

「いないです、今は毎日、忙しいし」

「どんなに忙しくても、女は恋ができるわ。あなたは、テオっていう、あの幼馴染の坊やのことが忘れられないんでしょう」

「そんな、違います!」

「違うのなら、むきになることはないわよ。そうね、もし彼が戻ることがあれば、私が彼の面倒を見てあげようかしら」

「えっ……?」

「坊やのこと、気にかかってないのなら、私がもらってもいいでしょ?」

 妖しく微笑むブラニクの表情に、ソフィアはただならぬ気配を感じ取った。異性を知らない、という点ではテオドールもそうであろう。あれは幼児のような無邪気さでソフィアを想ってくれていたが、ブラニクの言う「男女のこと」に関しては、からきしの無知であるはずだ。その道の玄人くろうとであるブラニクの手にかかれば、すぐにそのとりこになってしまうのではないか。

 しかしソフィアには、ブラニクが本気でそのような提案をしているのではなく、幼い彼女をからかっているということも直感で分かっていた。その証拠に、ブラニクは彼女の顔をのぞき込んで、動揺した表情を楽しんでいるように見える。

 意地悪な人だ。

 ブラニクはそれからも、何くれとなく、差し入れをくれたり、話し相手になってくれた。ときどき、ソフィアをからかって動揺させるようなことを言うが、それ以外の点では心強い味方と言えた。

 この年の暮れ、ソフィアの身辺にはある重大な変化が起こっている。

 テオドールが、再び彼女の前に現れたのである。

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