奇跡の力

 ルモワーヌ家は、少なくともセーヌという片田舎の村においては名家として知られる富豪の家である。家屋は村のなかで最も立派であったし、所有するオリーブ農園も広大であった。当主のジョルジュも、それはなかなかの人物で、例えば昨年、珍しく大規模なハリケーンがこの地方を襲って、多くのオリーブがやられてしまったときも、私財を投じ、貧しい人々を支援した。村人のあいだでは、長老や医師に匹敵する、あるいはそれを凌駕する名士として認知されている。

 ペストに倒れたのは、このジョルジュ・ルモワーヌである。年齢は40歳前後で、16歳と9歳の息子がいる。長男のテオドールは、姉妹と同い年でもあるので、何かと親しくしている。

 ルモワーヌ家の正面には例によって野次馬による人だかりができていたが、姉妹は意を決して門戸もんこを叩いた。

 出たのは、長男のテオドールである。父が致死的な病を患っており、彼自身も感染の危険が極めて大きいとあって、色白な顔がさらに青みがかっている。

「ソフィー、ソフィア、どうしてここへ?」

「ルモワーヌさんが倒れたって聞いて。本当なの?」

「あぁ、きっともう、助からないよ」

「私が助ける」

 そう言うと、ソフィアはテオドールを押しのけるようにして家に入り、慌てる家人たちをよそに、主人のジョルジュ・ルモワーヌの姿を探し当てた。

 ここから起こったことは、姉のソフィーにも、目撃したテオドールらにも、そしてソフィア本人にも、まるで奇跡としか思われない。奇跡としか、説明のしようもないであろう。

 彼らが目にした光景は、こうである。

 ソフィアはルモワーヌのそばにあった水瓶みずがめを目にするや、おもむろに左手で水をすくい、しばらく目をつぶってから、右手の指に水をとって、ルモワーヌの唇へとしずくを垂らした。すでに意識の混濁しているルモワーヌが、嚥下えんげ反射でごくりとのどを鳴らすと、水はたちまち彼の全身へと行き届いて、病であったのが噓のように快癒した。

 父がすっと目を開け、やや呆然としながらも寝台から起き上がったのを見たテオドールは、思わず駆け寄って叫んだ。

「父さん!」

「テオ……いったい、何がどうなってるんだ?」

「僕も分からない。ただ、ソフィアが助けてくれたよ!」

「ソフィアが?」

 ルモワーヌは、きょとんとしている。当然であった。医師でさえ、ペストに対しては何もできない。どうやらペストらしい、という宣告を受けたところまでは覚えているが、以降は昏睡に陥ったために記憶が抜け落ちている。

「父さん、本当だよ。とにかく本当なんだ!」

「分かった、分かったよテオ。いや、どうもにわかに信じがたいが、息子がそうまで言うなら、礼を言わせてもらおう。ありがとう、ソフィア。ソフィーも、ご両親を亡くされて気の毒だったね」

「ルモワーヌさん、お気遣いありがとうございます」

「しかし、どうやって」

「それは……」

「長くなる話かね。それではまず腹ごしらえをしてから、ゆっくり話そう」

 姉妹は、ルモワーヌとその妻、そして息子のテオドールに、真実を話した。その要点は、「自分たちは術者」であるという一事いちじである。ルモワーヌ親子は無論、仰天した。

 一般的に、術者は恐るべき力を持ち、ひとたび怒りに触れれば、天地は引き裂かれ、終わりのない災厄を世界にもたらす存在として考えられている。実際、大陸の人々は2世紀にもわたって、術者と戦い、戦い終わってのち、荒廃した国土を長い年月をかけて再生させ、ようやく慎ましくも平穏な日々を送っているところなのである。近年になってペストが猛威をふるうなか、術者が再臨したとなれば、国の再びの混乱は計り知れない。

 だが、彼らは姉妹のことをよく知っている。心の清い娘たちだ。ルモワーヌに限っては、かつて酒の席でソフィーらの父親と、姉妹のどちらかとテオドールを添わせて夫婦としよう、と冗談交じりで約束したことすらある。その記憶が、姉妹に対する恐怖や疑念と無縁にさせた。それに、命を救われてもいる。

 ルモワーヌも、話を聞き終えて覚悟を決めたらしい。

「よろしい。君たちの話をすべて信じよう。君たちに助けてもらった身としては、信じるのが筋だ。これからどうなるにしろ、しばらくはこの家に住むといい。もちろん、君たちがよければだがね」

 家を失った姉妹としては、渡りに船といったところである。

 この時代の夜は早い。のちの世のように、魚油や菜種油などの燃料、ましてやロウソクなどが開発されていなかった頃であるから、暗くなるとともに人は就寝するのが常であった。

 まもなく日が暮れる頃、テオドールが姉妹の部屋を訪ねた。テオドールの想いを知るソフィーはさりげなく席を外して、ふたりはソファに並んで座り、少しだけ話をした。

「ソフィア、今日は本当にありがとう。君が術者なんて、びっくりだよ」

「そうよね。私も、ちゃんと術を使ったのは、実は初めてなの。父さんや母さんには、決して術を使うなって。だからふたりとも、術を使えば生きられると分かっていて、それでも運命だと思って、死んでいったんだと思う」

「そうだったんだね。君のつらい気持ち、少し分かるよ。僕も、父さんは死ぬんだと思った。もしかしたら、自分も死ぬかもって思ったよ」

 テオドールは、今朝までの恐ろしさが脳裏に蘇るのか、わずかに手指を震わせた。そのような姿に、自分自身も姉のソフィーがいなければ泣いて震えていただけに違いないのに、ソフィアはもどかしいような、苛立いらだたしいような気分になってしまう。

「テオ、あなたいつもうじうじしてる。もう怖がらなくたっていいのよ」

 テオドールと話すとき、ソフィアはいつも、このような慣れない口調になる。彼は幼児のときから成長が遅い方で、ソフィアはよく面倒を見てやったものだ。ソフィーの妹という動かしようのない立場があるだけに、かえってテオドールに対しては、まるで自分が姉だとでも言わんばかりに威張り返っている。

 テオドールは、そんなソフィアに好意を抱いている。

「そうだね、ありがとう。そうだ、明日はオリーブの収穫に行くだろ?うちの農園はあらかた収穫も終わったから、お礼に収穫の手伝いをするよ」

「いいわ、連れてってあげる」

 言いつつ、にっこりと微笑む顔をよくよく見ると、口元には髪の色よりもやや濃い朽葉くちば色のひげがまばらに生え、いつまでも子供だとばかり思っていたテオドールが思いがけず男性として見えて、ソフィアは慌てて目を伏せた。それは少女らしい羞恥の表情であったが、ソフィアと同様に鈍いところのあるテオドールは気付かない。

 翌日、三人が仲良くオリーブの収穫に出かけたあと、ルモワーヌは妻を伴い長老のもとを訪れた。長老も、あるいは行き交う人たちも、ペストに倒れたと聞いた翌日にはけろりとした顔で歩いているルモワーヌを不審に、不気味に思った。そしてソフィーら姉妹が術者であるとの噂は、日が傾き始める自分には村民の全員が聞きつけていた。

 三人が、オリーブでいっぱいの台車とバスケットを持ち帰る途中、村の中央にある広場を通りかかると、またもや人が群れている。それは何か別のものに興味があるのではなく、彼女ら姉妹の帰りを待っていたようにも思われる。恐る恐る分け入ってゆくと、奥から長老が進み出て、おごそかな調子で言った。

「おめぇたち、術者だってのは本当なのかい」

「はい、本当です」

「なんだって、今まで隠してきた」

「父と母が、固く戒めていたからです」

「そんな大事な戒めを、なぜ破った」

「私たちは、私たちが信じる生き方をしたいから。奇跡も運命も、自分でつくる!」

 長老とソフィーの冷静な対話に、ソフィアは思わず大きな声で割り込んだ。ふと、疑念の深い長老の横にたたずむルモワーヌの姿を見た。彼は柔和な表情で、姉妹を交互に見つめている。この人はきっと味方でいてくれる、後ろにいるテオドールも。そう思うと、ソフィアは心強い気持ちになった。ソフィーも、同じ思いに違いない。

 長老はなおも警戒心のにじむ声で、姉妹に試練を与えた。

「そんならおめぇら、こいつの脚を治してやってくれねぇか。こいつは重い脚気かっけでな、先頃からついに一歩も歩けなくなっちまいやがった」

 そう言って顎で示したのは、長老の娘の一人である。脚気はこの時代、非常に多く見られた病気で、原因は主に糖の過剰摂取と、栄養状態の不良からくる。小麦を主食とし、肉や魚、大豆のような栄養価の高い食品を手に入れる手段の少ない人々のあいだでは、程度の差こそあれ相当数が発症するものとされた。ひどいと、その娘のように歩けなくなったり、心臓を病んで死に至る。

 また自分がやってみよう、と思ったソフィアに先んじて、ソフィーが前に出た。静まり返る群衆の前で、ソフィーは目を閉じ、ゆっくりと思念の波を整え、そして静かに腰を曲げて、椅子に座る娘に口づけた。

「あっ」

 ソフィアは驚き、小さく声を上げた。群衆も、恐らく全員が、息を吞んだに違いない。

 しかし、それからの出来事は、さらに人々の度肝を抜いた。

 娘が、きつねにでもかれたような表情で、すっくと立ち上がったのである。

 感嘆の声が巨大な渦となって、広場を満たした。

「素晴らしい」

「奇跡だ」

「術者が本当にいたとは」

「まさに神のわざだ」

 ソフィアの近くで、口々にこの偉大な力をたたえる声が上がり、長老もすっかり疑いを解いて、姉妹と天とを交互に仰いでは、祈りを捧げた。

 広場はそのまま祭りの場となり、ソフィーとソフィアはその中心で歓呼と礼賛を浴び続けた。

「ソフィア、踊ろう!」

 やがて雰囲気に飲まれたのか、テオドールがソフィアの手をとってくるくると回り始めると、村の騒がしさは最高潮を迎えた。

 踊りのなかで触れたテオドールの手は、ソフィアの幼少の記憶よりも、二回り以上大きくなっていた。

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