十四ノ環・幻の世界、三界の神話。5

「着替えとかないですよね? 火を起こしますから待っててください」


 枯れ木を集めて火を起こしました。

 男から濡れた服を預かって、乾きやすいように火の前で広げていく。


「すぐに乾くと思うので、そのまま待っていてくださいね」

「ああ、すまない」

「いえ、私は、なにも」


 男は腰に布を巻き付けただけの格好で焚火の前に座っています。

 鍛えられた胸板や腹筋が露わになって、なんだか目のやり場に困ってしまう。顔が熱くなってしまいますが、これはきっと焚火のせい。


「髪が少し濡れています。寒くありませんか?」


 そう言って男の側に私も腰を下ろします。

 間には二人分の距離。いきなり口付けられた事は忘れていません。


「大丈夫だ。俺こそ急がせてしまったようで悪かった」

「私は大丈夫ですから」


 沈黙が落ちました。

 男の側に二頭の狼が擦り寄って、一緒に焚火の炎に当たっています。

 普段からとても可愛がっているのですね。

 沈黙に耐え切れなくて、私はその狼について聞いてみます。


「その狼の名前はなんというのですか? 初めて見た時は驚きましたが、とても懐っこいですね」

「……クウヤとエンキだ」

「そうですか。素敵な名前ですね」


 また沈黙。会話が続きませんでした。

 男をちらりと横目に見て、落ち着かない気持ちになってしまいます。

 眉間に皺を寄せて気難しい顔をしていますね。もしかして怒らせてしまったのでしょうか。


「……あなたは私を知っているんですよね」

「ああ」

「もし会ったことがあるなら、私は、あなたを忘れてしまったということですよね」


 ぽつりと言って、唇を噛みしめました。

 そんな顔しないでください。きっと普段のあなたは凛々しい表情をしているのでしょう? 今はとても辛そうな、苦しそうな顔をしている。それって私が忘れてしまっているからですよね。


「……ごめんなさい。覚えていなくて」

「お前が謝るな」


 そう言って男は焚火の炎を見つめます。

 私はその横顔になぜだか胸が苦しくなりました。

 濡れた男を見ていると、とても不思議な気持ちになるのです。どこか懐かしささえ覚えて、胸が痛いほど苦しくなって。


「あの、……名前を伺ってもいいでしょうか」


 戸惑いながらも聞くと男は複雑な顔をしてしまいました。

 私のせいですよね、ごめんなさい。


「……あなたは私を知っているのに、名前を聞いてしまう無礼を許してください」


 謝ると男は緩く首を振りました。

 そして私を見つめて名前を教えてくれる。


「ハウストだ」

「そうですか。あなたは、ハ、……あれ?」


 名前を口にしようとして、途中で止まる。

 たしかに名前を聞いたのに、その名を言葉にして、音にして、発声することができない。


「あれ、私……、あれ?」


 口元を抑えて男を見つめる。

 私の異変に気付いた男が訝しみ、「ブレイラ?」と名前を呼んでくれる。

 私も男の名前を呼びたいのに、唇からはなんの音も出てこない。


「あの、私、あれ? あなたは」


 自分の異変に混乱してしまう。

 名前をたしかに聞いたのに、聞いた瞬間、抜け落ちるようになくなるのです。


「あなたの、名前……、あ、……えっと」

「ブレイラ、無理をするな」

「でも、今、聞いたばかりなのに、どうしてでしょうか、……忘れてしまうんですっ」


 こんなこと初めてです。

 たしかに男は目の前にいるのに、声を聞いて、名前を知ったのに。


「ごめんなさいっ、わたし……」


 声が震えました。

 自分に起こっている異変が怖い。


「ブレイラ」


 ふいに手を握られました。

 大きな手で包むように握られ、その温もりに泣きたくなります。

 男を見ると優しく宥めるような面差しで私を見つめてくれている。


「明日も来る。またここで会おう」

「……怒っていませんか?」

「怒るわけがないだろう。明日も会ってほしい」


 眉間に皺を寄せたまま、でも真摯な顔で言われました。

 不安になった心が緩やかに溶けていく。

 私が頷くと、男は少しだけ安堵した顔になりました。


「ありがとう」


 そう言って男が手に力を籠める。

 お礼を言うのは私の方です。だって、男は私が落ち着くまでずっと手を握っていてくれました。






◆◆◆◆◆◆


 夜。

 ただでさえ薄暗い冥界が夜になって更に闇に包まれる。

 パチパチと焚火の爆ぜる音を聞きながら、ハウストとフェルベオは向き合っていた。


「で、母君と会いながら、どうして連れ戻さなかった」

「好きで連れ戻さなかったわけじゃない」


 ハウストは淡々と言い返したが、自分とて連れ戻したいのは山々だった。でも出来なかったのだ。

 今ここには冥界に潜入した四人のうちハウストとフェルベオの姿があった。

 ラマダとの戦闘中に途中離脱した二人だが、夜になって偶然にも合流したのである。

 ジェノキスとイスラとは合流できなかったが、死んだということはないだろう。特に三界の王であるイスラに何かあればすぐに分かる。

 そしてなにより、イスラとは合流できなくて良かったのかもしれない。今のブレイラはハウストだけでなくイスラのことも忘れているだろう。幼い子どもがその事実を知るには酷すぎた。


「ブレイラは記憶を失くしていた。いや、置き換わっていたと言った方が正しいかもしれない。俺の名を教えても、すぐに抜け落ちて名を呼ぶことすらできなくなっていた。おそらくイスラの名も呼べないだろう」

「勇者殿が知ったらショックだろうな」

「ああ、泣き崩れる」

「立ち直れないだろうな。手が付けられなくなるぞ」

「まあな」


 安易に想像できてしまう。

 今はブレイラ奪還という目的を掲げ、勇者としてなんとか踏ん張っているのだ。だからこそ会わせられない。


「そっちは何があった。何もなかったわけではないだろう」


 ハウストはそう言ってちらりとフェルベオを見る。

 精霊王が好む白い衣装が少し汚れていた。


「森を少し破壊してみたら冥王が来たぞ。少し戦って、奴は決着がつく前に去っていった」

「始末できなかったのか」


 情けないとばかりの視線にフェルベオは苛立ったように舌打ちした。

 そもそも冥王は三界の王と同じく神格の存在。精霊王と冥王が戦って簡単に決着がつくものでもない。


「先に立ち去ったのはあっちだ。それにしても冥王はなにを考えている。勇者殿と同じくらいの子どもの姿をしていた」


 そんな趣味でもあるのかとフェルベオは鼻で笑う。

 ハウストは口元を歪め、「さあな」とそれ以上答えることはない。

 おそらく記憶の置き換えで、ゼロスがイスラの立ち位置に成り代わっている。それは想像に難くないことだ。


「明日もブレイラに会ってくる。そこでお前に頼みがあるんだが」

「…………母君と冥王を引き離せと言いたいんだろ」

「そうだ」

「簡単に言ってくれる」

「出来ない訳ではないだろう」

「当たり前だ。僕を誰だと思っている」


 胸を張ったフェルベオに、「それならやれ」とハウストは焚火に枯れ木を投げ入れた。

 それが頼む態度かとフェルベオはイラッとしたが耐える。

 ここが正念場だと分かっているのだ。


「この世界とは近いうちに決着をつけることになる。それまでに母君を取り戻せ」

「分かっている」


 嫌というほど分かっている。

 ハウストとて今すぐ取り戻したい。

 強引な手段に出ることも考えたが、ブレイラを見ているとそれが出来なかった。

 理由は簡単だ。怯えられて、嫌われるのが怖かったのである。

 ハウストは自嘲した。

 馬鹿げている。子どもでもあるまいし嫌われるのが怖かったなど。

 だが以前、ブレイラに泣きながら嫌いだと言われたことがあった。ブレイラがイスラとともに魔界から逃げた時だ。

 その時のことを思い出すと、どうしても強引な真似はできなかったのだ。


「記憶の事はともかく、母君は元気そうだったか?」

「ああ、山で暮らしていた時のようだった」

「そうか、大きな怪我をしていないならいい。母君は人間だ、僕たちと違ってなんの力も持っていない」


 守ってやらなければと意気込むフェルベオにハウストも頷く。

 自分やジェノキスとは違った意味でフェルベオもブレイラを大切に思ってくれている。それはイスラがブレイラに向ける感情ともまた違ったものだろう。

 フェルベオ相手に警戒を抱いたことはないが、今日のブレイラを思い出してなんとも言えない気分になる。

 ブレイラはなんの警戒もなく水浴びをしていたが、あの姿はいけない。最初に再会したのが自分で本当に良かった。

 そんな場合ではないのに、今のような事態でなければと思わなかったわけではない。

 ほぼ全裸の状態で濡れた布を素肌に纏わり付けていたブレイラを思い出す。隠しきれない体のライン、尻の丸みにぴたりと張り付いた濡れた布……。

 無意識に口元が緩みそうになり、さり気なく口元を手で覆った。


「……おい、なにを考えている」

「…………なんのことだ?」

「魔界の宰相は苦労しているだろうな」

「少し黙っていろ」


 ハウストがじろりと睨む。

 魔王の睨みは三界の者たちを震え上がらせるものだ。しかし、ここにいるのは同じ三界の王である。

 フェルベオは軽く笑うと、「さっさと取り戻せ」と肩を竦めたのだった。


◆◆◆◆◆◆





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