Ⅰ・初めての海と会談と1
どこまでも続く青い空、眩しいほどの強い陽射し、引いては返す波の音。
バルコニーに出た私は目の前に広がった光景に驚きました。
だって、太陽に照らされた大海原はキラキラと輝いて、見渡す限りどこまでもどこまでも続いている。水平線は青空と海の青が混ざり合って、こんな美しい青色は見たことがありません。
「すごいっ、これが海なんですね!」
「うみだ! うみだ!」
私の隣でイスラが背伸びしています。
バルコニーの手摺りが高いのですね、勇者とはいえまだ四歳ほどの子どもです。
抱っこしようとしましたが、その前にイスラの小さな体がひょいと持ちあがる。
ハウストでした。ハウストがイスラを抱きあげて隣に並びます。
「海は初めてだと言っていたな」
「はい。私とイスラも連れてきていただいてありがとうございます」
「政務中は一人にしてしまうが、滞在中は好きに過ごしてくれ」
「すみません、あなたはお仕事で来ているのに……」
「気にするな、俺も連れてきたいと思っていた」
「ありがとうございます」
そう、海へ遊びに来たのは私とイスラだけで、ハウストは政務で来ているのです。
それというのも今まで断絶状態だった魔界と精霊界が、先代魔王討伐を機に徐々に親交を結びだしました。
といっても、宿敵関係だった両界の関係がすぐに近づくわけがありません。最初は両界の重鎮や高官が会議や会合を重ね、そしてとうとう魔王ハウストと精霊王フェルベオが正式に会談をすることになったのです。そこで初めての会談場所はどちらの世界でもない緩衝地帯が選ばれました。
それがこの離島です。
離島がある海域は、魔界、精霊界、人間界に囲まれた緩衝地帯で、どの世界にも属していません。でも放置されているわけではなく、今回のような目的で各世界が第三国の地として利用している場所でした。
「会談は明日からですよね?」
「ああ。長引かせるつりはないが退屈したら言ってくれ、何か考える」
「大丈夫ですから、そんなこと気にしないでください」
気遣ってくれる気持ちは嬉しいですが、おまけで付いてきた身なので少し申し訳ないです。
それにこの島は緑豊かな山と清らかな川、なにより美しい海に囲まれていて、きっと退屈なんてする暇もありません。
この海辺の城も海にせりだした開放的な造りをしていて、バルコニーには白砂の浜辺に直接降りられる階段があるのです。
「今から海へ降りてみるか?」
「いいんですか?!」
「ああ。会談は明日からだからな、今日くらいお前とゆっくり過ごしたい」
「嬉しいです! ぜひ行きたいです!」
「オレもいく! オレも!」
イスラも嬉しそうに手を上げると、ハウストの腕からぴょんっと飛び降ります。
そして待ち切れないとばかりに砂浜へ続くバルコニーの階段を降りていきました。
「一人で海に入ってはいけませんよー!」
「わかってる!」
先に駆けだしてしまったイスラに苦笑し、私もハウストと一緒に浜辺に向かいます。
階段を降りる時に手を差し出され、恥ずかしさに顔が赤くなってしまいました。もちろんハウストに大切にされるのは嬉しいのですが、こういったエスコートは女性が受けるものなので恥ずかしさが勝ってしまうのです。
でもハウストを見ると彼はとても自然な様子のままです。
むしろなかなか手を取らない私を不思議そうに見ている。「どうした?」と目だけで問われ、困ってしまって視線を泳がせてしまう。
「……私は女性ではありませんよ?」
「女性ではないが、俺が大切にしたい相手だ」
迷惑だったか? と残念そうに見つめられ、躊躇いなど一瞬で遠くへ飛んでいきました。
「ありがとうございます!」
嬉しくなって口元が緩んでしまう。
あまりの単純さに我ながら呆れてしまいますが、嬉しいんですから仕方ないですよね。
差し出された彼の手に手を乗せると、優しく握られて階段を降りました。
ハウストと出会うまでエスコートされるような扱いを受けたことがないので、正直なところ少しだけ戸惑ってしまうこともあります。とても大切にされていると実感できるので嬉しいのですが、やっぱり恥ずかしさは拭えません。
でもこれは育ちの問題もありそうです。ハウストは幼少時から魔王になるべく教育を受けてきたことは想像に容易いですし、精霊界の大貴族だというジェノキスも飄々としながらも物腰は柔らかかったです。精霊王にいたってはまだ子どもだというのに王としての威厳まであります。いずれイスラにも相応しい教育を受けさせなければならないのかもしれませんね。
ハウストに手を取られながら階段を降り、浜辺へ降り立つ。
そこには先にいたイスラが波打ち際でしゃがみこみ、地面をじっと見つめていました。
私とハウストは顔を見合わせ、イスラの元へ足を向けます。
「どうしました?」
「ブレイラ、なにかいるぞ」
そう言った先には小さな生き物が横歩きで波打ち際を歩いていました。
「ああ、これはカニですね。私も市場でしか見たことがありませんが、カニは海の生き物ですよ。森にもウサギや鹿がいるでしょう? 海にもたくさん生き物がいるんです」
「これがカニ……」
ちょこちょこ横歩きするカニをイスラが興味津々に見ています。
初めての海に瞳も表情もキラキラと輝いている。いつもは無愛想であまり感情を表に出さない不器用な子ですが、どこまでも続いている広い海はイスラを開放的な気持ちにさせるようです。
でもその気持ち分かりますよ。
広大な大海原のさざ波はどれだけ見ていても飽きないもので、この大海の向こうに陸地があって、そこには国があるのだと思うと不思議な気持ちになります。どこまでも行けるんじゃないかと開放的な気持ちになって、私も海に入ってみたくなります。といっても泳げないので少しだけですが。
「海とは本当に素晴らしいところですね。こんなに美しい青は見たことがありません。山も良いですが、海も好きになれそうです」
「それは良かった。だが」
ハウストがそこで言葉を切ったかと思うと、ふわり、頭から薄手の白いヴェールを被せられました。
ふわりと軽いそれは頭から被っても足元まで裾が届くほど長く、体に纏ってしまえるほど大判なものでした。
大きいのに羽のように軽くて、隅には翡翠色の糸で織られた刺繍が施されています。一目で一級品だと分かるそれに困惑しました。
「これを贈ろう。強い陽射しを遮ってくれる」
「ええっ、こんな高価なものを頂いてしまうわけにはっ」
「山の陽射しと海の陽射しは違う。気が付いたら日焼けではなく火傷していた、というようなことになっては困るだろう? 人間の中には強すぎる陽射しで体調を崩してしまう者もいるらしい」
「ですが……」
それでも頷くことは出来ません。恋人になったとはいえ、先代魔王討伐が終わって勇者イスラを保護する必要はなくなったのに、今も居候のように魔界の城でお世話になっているんです。しかも身一つで魔界へ行ったので、身の回りの物や衣服も全てハウストに揃えてもらいました。もちろん揃えられた物は今まで見たことがないような高価なものばかり。
彼にとっては当たり前のことで些末なことかもしれませんが、私はどうしても恐縮してしまうのです。
「では言い方を変えよう。せっかく海まで来たのに体調を崩されては面倒だ」
「……うっ、それなら受け取ります」
そう言われてしまえば受け取るしかなくなります。
ヴェールを目深に被って顔を上げると、嬉しそうな笑みを浮かべているハウストと目が合いました。
「ありがとう。よく似合っている」
「私こそ、ありがとうございます」
「とても綺麗だ」
ヴェール越しに目元に口付けられて顔が熱くなる。きっと今の私は恥ずかしいほど真っ赤になっていることでしょう。
「……あなた、モテるでしょう?」
「なんだ急に」
「いえ、別に」
少しだけ拗ねた口調になってしまって彼が不思議そうな顔をしました。
……いけませんね。嬉しいのに、私とは全然違う彼の振る舞いに少し子供染みた気持ちになってしまいます。
「それより散歩しませんか? もう少し海を歩きたいです」
「もちろんだ。この先の入り江に洞窟があるらしい、行ってみるか?」
「はい! イスラ、戻ってきてください!」
「わかった!」
カニを追いかけていたイスラが走って戻ってきました。
「あっちに洞窟があるそうなんです。イスラも見に行きませんか?」
「いく! ブレイラ、て!」
「はいはい」
イスラと手を繋ぎ、ハウストと浜辺を歩きます。
途中イスラが綺麗な貝殻を拾ったり投げてみたりと遊びながら散歩しました。
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