6

「とっても、大事な人から貰ったものなんよ」

「大事な人。それって……?」

「そうやねぇ、何て言うたらええんかな。初恋……いうんかなぁ」

 和子は、そっと左手の薬指を撫でた。きっと、その指輪をはめていたのはずっと昔のことなのだろう。指輪の跡など残らないほど昔の思い出。

 それをどれほど積み重ねたのかはわからない。だが、和子にとって長い結婚生活よりもずっと楽しく、喜びに満ちていた時間なのだということがわかる。

「その人って、どんな人なんですか?」

「ずーっと昔に会ったきりやからあんまり覚えてへんのよ。でも、そうやなぁ……」

 和子は、目をつぶって遠い記憶に想いを馳せていた。

「格好いい人やったなぁ。古風な恰好やったし、いつも愛想がなかったけど、役者さんみたいやった。なにより、優しかった。あんなに優しい人、初めて会うた」

「他の誰よりってことですか?」

 和子は、何も言わず、深く頷いた。

「18の時やった。お見合いしろって言われてね。でも相手は色々悪い噂のある人やった。酒癖も女癖も博打癖も悪い、おまけに人当たりも良うないて、有名やった。自分が人身御供なんやてすぐにわかったわ。だから、逃げた。逃げてどうなるもんでもないってわかってたけど、これ以上酷い所に行くてわかってて、黙って従えんかった。だけど、所詮は世間知らずの浅知恵や。体力もお金も尽きて、途方にくれた。この、地下街やったわ」

 和子がそう言ったのを聞き、初名は思わず周囲を見回した。誰ひとり、和子の声や様子に振り返る様子もない。その時も、今と同じように、誰からも見向きもされず心細かったのだろうかと、考えた。

「正確にはこことちゃうけどね。もっと駅に近いところ。人ごみの中で、10代の娘が俯いて呆然としてるもんやから、変な男が寄って来てしもてね。私も、もうどうにでもなれて思ったわ。そうしたら、急に周り中煙だらけになったんよ」

「……え? 煙ですか?」

 和子は悪戯を楽しむ子供のようにけたけた笑うように言った。

「そう、あれはびっくりしたわ。皆あたふたしてる間に、誰かが手を引いて連れ出してくれてね。どうやったんかはわからへんのやけど、助かったんよ」

「へ、へぇ……でもとにかく、助けてくれるなんてカッコいいですね」

 初名がそう言うと、和子はほんの少し頬を赤くして頷いた。浮かべた笑みは照れているようであり、同時にどこか誇らしげだった。

「その人は、その後どうしたんですか?」

「指輪をくれたんよ。左手の薬指に、指輪をはめてくれた」


ーー西洋の、約束の証の一つなんやて。遠く離れても、ずっと傍にいるっていう約束や

 

「あの人の思い出があったから、どんなに辛くても耐えられたわ。たとえ今、周りに味方が一人もいなくても、遠く離れた場所にはあの人がいてくれる。そう思ったら、何とかやってこれた」

「……素敵ですね」

「そう思ってくれる?」

 初名が頷くと、和子は嬉しそうに、どこか恥ずかしそうにはにかんでいた。

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