第10話 地 揺 る ぎ
神田明神の鳥居前の水茶屋に、宗助と喜市は居る。床几に座っているが、どうにも尻が落ち着かない。約束は九つ{昼十二時}。
お圭は神田川にかかる橋を渡って来る
来たら、何と言って迎えてやろう。
よう、久しぶりだ・・は変か。
元気そうだ・・変わらねえな・・色が白くなって娘らしく丸くなったと言っていた。
それと、あれだ。
知らん顔はわざとらしいし、嫌味に聞こえたらまずい。
“ほかの男見て、おいらたちのこと、見直したんじゃねえのかい。何たって、三年足らずで四十両、まっとうに働いてこさえたんだからな。ま、二人で半分ずつだけどよ”
それで、すぐに飯に行こう。食いながらならぎこちなさもとれるはずだ。
実家に送り届けた武藤も、着物を届けたついでに素人娘の化粧の仕方を指南したという朋絵様も、口をそろえて、お圭を誉めた。
「切れ長の目が綺麗で、口元に愛嬌があって何より色白で、ほんに好ましい娘さん」
になっていると。
想像できなかった。
「信じられねえな、あの牛蒡娘が・・」
「元々顔だちはよかったんだよ。色が褪めたら色白になるのは当たり前だ」」
宗助は立ったり座ったり、落ち着きがない。
喜市も川の方に目を凝らす。お圭なら、あの弾むような歩き方を一目で見分けられる自信があった。
九つの捨て鐘が一つ鳴ったところで、ずんっと座っていた床几が動いた。
一瞬の静寂。
高いところから飛び降りた時のように下腹がよじれ、思う間もなく茶屋の柱が倒れた。
庇が落ちてくる。
「宗助、生きてるか」
「喜市っちやんっ」
「床几の下に潜れ」
舟に乗っているようにゆらゆら、そして揺れがようやく収まった。
茶屋の婆さんが、床几の足に縋り付いてヒイヒイ悲鳴ともつかぬ声をあげている。
湯を沸かしていた竈から火が出ていた。
「宗助、釜の湯をかけろ。飛び散った火は踏みつぶせ」
喜市は二尺も動いて傾いた水瓶を持ち上げて、火元に投げた。水瓶が壊れて、水浸しになったが。火は消えた。
婆さんを助けて道の真ん中に出ると、掛小屋の店は同じ方向に倒れ、下敷きになった者を近所の者が引き出そうとしている。
観音屋の半纏に手を通しながら、若い衆が何人か走ってくる。
「お怪我はありやせんか。下敷きになってるお人は・・」
元締めの指示だろう。と、いうことは観音屋は無事なようだ。
若い衆を捕まえて、皆の安否を確かめ、
「普請場へ、行かにゃあならねえ」
宗助も日本橋の方に目をやって、
「私も、お店へ・・お圭は・・」
「お圭も実家を案じて戻ったろうよ」
「そうだね、きっと実家に戻ってる」
「行くぜ」
喜市は駆け出した。これまで普請したところが崩れていないか、見て回らねばならない。
「宗助、余震があるかもしれねえ。気ぃつけてな」
「喜市っちゃんも」
橋の向こうは火の海だった。
時が悪かった。昼飯時・・竈に火が残っていただろう。火鉢を出している家も少なくはなかった。
擦り半(掻き回すような半鐘の鳴らしかた。火事が近いという知らせ}が自棄ののように聞こえた。
喜の字組が手掛けた普請は大小三つ。場所が離れているので時はかかったが、どこもぴりっとも崩れていなかった。
「さすが棟梁たちだぜ」
思わず声が漏れたら、
「うむ、さすが喜の字組よ」
と声が帰ってきた。普請方の武士が三人、やはり見回っていたらしく、大きく頷いていた。
そこへ棟梁たち五人衆も駆けつけ、一様に安堵の吐息を吐く。
「みんな、怪我ぁねえかい?」
「家は壊れましたがね。なあに、もともと傾いてたんでさあ」
なんとも逞しい五人衆だった。
「内神田で火が出てる。道々聞いたんだが、油屋に火が回ったそうだ。観音屋も炊き出しをするから、手が空いてたら手伝ってくれ」
言い置いて引き返す。粂爺ぃや小僧蕎麦の連中の安否が気がかりだった。
河原の、粂爺ぃの小屋は見事に板切れの山になっていたが、中に人はいなかった。猪牙舟もない。
小さい余震が何度かあった。町が身震いしているようだった。
通りはどこもごったがえしていた。家の壊れた者はもちろん、壊れてない者も、家の中にいるのが怖いのだ。
シゲ達の長屋は傾いて、水浸しだった。ここも火が出たのだろう。近くの空き地で小僧蕎麦の五人を見つけた。無事なようだ。
「みな、大丈夫か」と寄って行くと、竹が怒ったように
「正太が土間から転げ落ちて,おでこを打った。シゲが割れた茶碗踏んで足に怪我、粂爺ぃが来て、今、水やらきれいな布やら探しに行ってる」
「そうか、じゃあこれ・・」
喜市は懐から印籠を取り出すと、中から小さな竹の皮包みを取り出した。喜の字組を旗揚げした時、親父、つまり前の弥兵衛がくれたもので。怪我の恐れのある現場に持って行けと言われた。腰にぶらぶらさせるのは邪魔だし、粋ではないと懐に入れていた。竹の皮には金創膏が入っている。
「シゲ、手当てが終わったら観音屋へ行け。炊き出しの手伝いをするんだ。竹、みんなを頼むぞ」
内神田の火事はまだ全部が鎮火したわけではなかった。煙が立ち込め、あちこちで、いきなり炎が燃え上がる。火消しや鳶の者が数人づつ組になって瓦礫の山の間を走り回り、炎を見つけては叩き潰していた。
喜市は、うっかり火を踏んで着物に燃え移るのを防ぐため、尻端折りして、焼け跡を大回りして、お圭の実家に向かった。
すると、煙の向こうから膝が見えるほど腰高に着物の裾をからげた少女が来るのが見えた。
「お圭」
思わず叫んだ。
すると、駆け寄ってきたのは・・お糸。
「お姉ちゃんは?」
お糸が訊く。びくんと心の臓が跳ねた・
「ま・・さか、帰ってねえのか?」
「え?え?喜市さんたち、お姉ちゃんと一緒じゃなかったの」
体中の血が一気に下がったような気がした。
足元が覚束ない。二歩ほど下がって、喜市はようやく踏みとどまった。
「こ・・ここは煙い。橋の上に出よう」
昌平橋に出た。川風が煙を流してくれる。
「お圭は・・・何刻頃家をでたんだ?」
「近所を見て回りたいって、八つ過ぎにはでかけたんだけど、こ、こんな時に嘘つかないよね」
「地揺るぎがあったのは、九つの捨て鐘が鳴り始めた時だ。お圭はまだ来てなかった。どこか知り合いのうちに・・はないか」
「家移りしてるし、三年ぶりだし」
「どこ、行きゃあがった。あの馬鹿」
橋の欄干に縋って、思わずしゃがみこんでしまった。が、すぐに立ち上がり
「探す。見つけてやる」
「あ、あたいも・・」
「お糸はうちに戻れ。外は危ない。足の悪いお父っつあん連れて、近くの寺の境内とか、広くて安全なところで待ってろ。お圭は、おいらがきっと探す」
急拵えの救護所が何か所かできていた。喜市は駆け足でそれらを回り、四軒目で宗助に出会った。
「お店は無事だった。それで家に行ったら、お圭、戻ってないって言うし、火傷とか怪我でもしてるんじゃないかって心配で・・」
宗助も尻からげで襷までかけていた。
そこからは二人で、丹念に話を聞き、こんな女を見かけなかったかと、訪ね歩いた。
お圭らしい女を見た者はいなかった。
諦めきれず、二度、三度と探し回った。
そして、ついに喜市が言った。
「遺体の・・安置所に行ってみよう」
ごくり、と宗助が生唾を呑んだ。
河原や寺の墓地、神社の裏庭など、安置所も何か所かあった。
黒焦げの、性別も分からない御遺体、比較的きれいな御遺体。小さな子供の亡骸など、二人は息を詰め、手を合わせながら見て回った。
焼け野原に夕闇が迫っていた。火事の熱気も霜月の冷気に冷やされて、煙も薄れてきた。
神田川の畔で、二人は大きく冷気を吸い込んだ。
「い・・いなかったよね、お圭」
確かめるように宗助が言う。
あの黒焦げの棒っきれの一つがお圭だなんて、思いたくもないのだろう。
「ああ、いなかった」
喜市は断定する。棒っきれになろうが、潰れていようが、お圭なら何か・・分かる筈だ。
しばらく暮れゆく川面を眺めていた宗助が
「ねえ、一心庵は?」
喜市は宗助の背中をどんと一発。
「そうだ、一心庵だ。忘れてた」
言いながら駆け出している。宗助も襷を外しながら笑顔を見せた。
一心庵は、どれだけ丈夫に作ったんだ、と感心するくらい、古いくせに元の威容を保っていた。簡素な柱に屋根を付けただけの門も、教場も、新しく建て増しした別棟も、傾き一つなく、臨時の救護所になっていた。
「先生、先生、お、お圭は?」
走りこむなり、宗助が尋ねる、
武藤が振り向いて固まった。
「待ち合わせに・・来なかったのか」
宗助ではないが、喜市も立ち眩みがして、戸口に手をついて体を支えた。
宗助はしゃがみこんでいる。
早足で闇が訪れようとしていた。
此度の地揺るぎで火が出たのは内神田だけではなかった。昼餉時だったため、あちこちで火の手があがったが、真昼間で、火の気のあるところに人が多くいたせいか、それとも防火用水などの普段の用心が効いたのか、大火事になったのは数えるほどだった。
喜市はそれを一つ一つ訪ね歩いた。
お圭のような娘が一人で行けるはずのない遠くでも、念のために歩き回った。。
お圭は・・お圭はなぁ、手前ぇの身売りの借財を、追い借りするような女だぞ、朋輩女郎のために女郎の啖呵売するような女なんだ。
死ぬわけねえ。あいつがそう易々と死んでたまるか・・もうそれは、取り憑かれたかのようだった。
江戸の町の復興は素早い。地揺るぎから三日目には火事跡は更地になり、引き取られなかった遺体は無縁仏として葬られた。
あちこちに避難していた者も、知り人を頼ったり、御救い小屋に移ったりしていなくなり、五日目には、早くも長屋の建て前が行われるという速さだった。
探すところも無くなった喜市は、いつもの明神様の手水舎にいた。
柱にもたれて、ぼんやりしていると、石灯篭の後ろに人の気配を感じた。
まさか・・・
バアッとお圭が顔を出して、えへへと照れ笑いをするのではないか。
儚い思いで、灯篭の後ろに回ると、小柄な中年増が灯篭下の地面から赤い手拭を取り上げたところだった。
「おい、それは・・」
声をかけると、女はびくっとしたように立ち上がり、手拭を差し出した。
「い、いえね、ネコババしようとしたんじゃないんですよ。まだ取りに来てないのかなあって、心配になって・・」
赤い手拭には、宗助の黒漆の櫛と喜市の唐辛子の簪が包まれていた。
「ど、どうしたんだ、これ・・」
声が裏返っていた。
内神田の、橋のたもとで中年増はお圭らしき女と出会ったらしい。地揺るぎのすぐ後で、女は明神様にお参りに行った母親を案じて橋を渡ろうとしていた。
「明神様の方に行くのかい」
お圭らしき女はそう聞いてきたという。
そうだというと、これを鳥居から見て右の石灯篭の下に埋めておいてほしいと頼まれたのだそうだ。
「うっかり落として汚れたり、残ってた火種に当たって焦げたりしたらいけないだろ。すぐ取りにいくからさ」
そう言った女は、しくしく泣いている三つばかりの女の子の手をひいていたという。
「この子のおっ母さんを探してやらなきゃならないんだよ」
そして、火の出ている町に戻って行った。
喜市は震えていた。
叫びだしたいのをこらえ手拭に包まれた櫛と簪を握りしめていた。
恐らく、怖い顔をしていたのだろう。中年増は“じゃ、渡したよ”と口の中でいいながら逃げるように去って行った。
喜市は思わず膝をついた。それから向きを変えて灯篭にもたれ掛った。
お圭は、あの女は、そうやすやすと死んだりはしねえ。そう思って、諦めずまだ探して歩くつもりだった。しかし、あれから六日、生きているのなら、これを取りに来たはずだ。
体中の力が一気に抜けてしまって、喜市は目を開けていられなくなった。そのまましばらく気が遠くなっていたのかもしれない。
「さあお立ち合い、御存じ七色唐辛子だ」
お圭の、あのちょっと掠れた、けれどよく響く低い声が聞こえる。
三年前のあの声だ。
目を開ければ、赤い手拭で頭を包み、赤い襷を掛けた牛蒡娘がにっと笑いかけてくる。
いや、いや、いや。
目を開けては駄目だ。分かっている、空耳だ。
その証拠に、もう聞こえない。
手には、櫛と簪を包んだ赤い手拭がある。
お圭、橋の袂まで来てたんじゃねえか。もう一足、橋を渡ればおいらと宗助に会えたのに。ばかやろう、おおばかやろう。
おいらはまだ言ってねえんだぜ、おめえが好きだって、言ってねえ・・んだ。
涙ってなあこんな風に、次から次に出てくるもんなのか。きりがねえ。きりがねえけど、どうやって止めるのかわからねえ。
喜市は身動きもせず、ただ涙を流し続けた。
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