第27話


 スバルは栃木を突っ切り、ついに群馬に入った。冬の太陽はすでに沈み、辺りはすっかり暗くなっている。少し冷えてきていて、海斗はヒーターを強くしてくれた。

 2人の間には、再び緊迫感が漂っている。那須高原サービスエリアに入ってトイレを借り給油したのだが、そこから再び白いセダンが現れたのだ。

 しかも、もう一台怪しい車がいた。黒いワゴンだ。間に関係ない車を何台も挟んでいるし、かなり離れているので、ナンバープレートは見えなかった。

「ここで高速下りないとなんないから、あいつら見張りを増やしたんだべか」

「どうだろうな……関東に入ったわけだし、東京から探しに出て、サービスエリアで待ち構えてたっていう可能性の方が高い気がする。どっちにしても、面倒だな……」

 時間は5時半を回っていた。周囲は広々と開けてはいたが、せっかく景色を見通せても、もう暗く、あまり景色を見る意味はなくなっている。

「どうする?」

「とりあえず、タイヤは交換したい」

 時宗は海斗の判断に任せることにした。車について自分は何も知らないし。

 海斗は館林インターから高速を降り、少し幹線道路を走った後、コンビニの横から細い道に入った。インターチェンジから大して遠くない。道の先に見えるトタンのぼろい建物が、目当ての整備工場らしい。

 時宗は後ろを振り向いた。ついてくる車はいない。だが表通りを、黒いワゴンが直進していった。海斗が緊張した声で訊く。

「ついてきてるか?」

「黒の方が来てる」

 まずはあれを探った方がいいな。時宗は頭の中で自分の装備を確認した。何が使える?

 海斗は無言のまま、整備工場へ向かってウインカーを上げた。

 サービスエリアですでに電話を入れてあったので、海斗が敷地に車を入れると、中から出てきた作業服姿の若い男が誘導してくれた。事務室から40代ぐらいの男が出てくる。

「こんばんは。いっつもすみません。今日ちょっと急いでるんで、タイヤ交換だけで……セッティングはいじんないで行きます」

 車から降りながら、海斗は男に声をかけた。訳ありの海斗の事情を、この男も知っているのだろうか。時宗のことは、やはりいないものとして扱うというのが暗黙のルールらしい。

「タイヤ交換だけで大丈夫か?」

「う~ん、ちょっとアンダーが強くなってはきてるんだけど、とにかく今回は……時間ないんで」

 時宗は、今野の肩を軽く叩き耳元で言った。

「すまん、電話してくる」

「わかった」

 整備工場の中で電話をするのは、ガソリンスタンド同様に危ない気がして、時宗は敷地の外の歩道で敬樹に電話をすることにした。

 何かあった時のために、海斗とはもう連絡先を交換してある。好きな奴の電話番号をゲット……などという浮かれた雰囲気ではなかったのだが、とにかく、何かあれば堂々と連絡できるというのは精神的にかなりの安心感を時宗に与えた。大事な人間と二度と会えなくなる不安が、自分の中にこんなに根を張っていることさえ、時宗は意識しようとしていなかったのだ。

 まず工場のすぐ外で、時宗は超小型カメラをリュックから出して、ダウンジャケットのポケットに取りつけた。一見するとボタンにしか見えない。操作がスマホのアプリでできる便利なものだ。ポケットにはボイスレコーダーも入れる。反対のポケットには念のため防犯ブザー。

 尾行している連中が工場の前を通れば運がいい。

 準備ができると、時宗は歩道に出て敬樹に電話をかけた。2コールで敬樹が出る。

「時宗さん今どこですか?」

 敬樹は不安だったのだろう。泣きそうな声だった。

「今、群馬の館林ってところだ。ここでの用事が1時間近くかかって、それから1時間と少しで都心にたどりつく。あとは道路の混み具合で変わってくるんだけど、多分8時頃には一段落つく。終わったら、そのままそっちに行くけど……お前は今どんな状況だ?」

「警察の人たちは、事務所を調べるのが一応終わりそうです。犯人から連絡が来るかもっていうことで、今夜は事務所に何人か泊まり込んでくれるって。あと、ぼくは自分の部屋に戻ってきてます。こっちもリビングにお巡りさんが泊まって連絡待ちしてくれることになりました」

「ひとまずは心強いな。弥二郎か犯人から連絡は?」

「今のところないって言ってました。ぼく途中で具合悪くなって、病院で診てもらって、今自分の部屋で横になってるんです」

 敬樹はかなり頑張っている。早く帰ってやりたいのだが、こちらも緊迫した状況になりつつある。

 表通りとは反対側から、黒いワゴンがゆっくり走ってきた。一周してきたなと時宗は気づいた。

「ちょっと待ってくれ」

 通話を切らないまま、スマホをいじっているふりでカメラの角度を調整し、ワゴンが通り過ぎていく間にナンバープレートと運転席、助手席を連写する。

「敬樹。こっちを尾行している車のナンバーと運転手の顔を押さえた。そっちにデータ送るけど、受け取れるか?」

「リビングのノートパソコンなら……」

「そうか。受け取って、警察に渡してくれ。それと今回の仕事を依頼してきたじいさんが誰なのか、どっかにデータとかないか?」

「事務所のパソコンも、マンションのノートパソコンも警察の人と一緒に探したんですけど、全然見つからないんです。弁護士さんの方でも見つかってないって」

「そうか……俺の方でもちょっとツテを辿って探してみるけど……明日になるな。とにかく、弥二郎を助けるためには、ちゃんと寝て体力を温存しておくんだぞ」

「わかりました。時宗さん……」

 敬樹の声が、か細くなる。

「気をつけて、早く帰ってきてくださいね」

「あぁ。俺のことは心配しなくていい。お前は弥二郎のために、自分を大事にしろ」

「わかりました。それじゃ」

 電話を切ると、時宗はカメラの画像をもう一度確認しながら考え事を続けた。

 一体全体、今回のこの大騒動の引き金になったじいさんってのは、どこの誰なんだ? 弥二郎の昔馴染みね……。

 弥二郎の人間関係を知っていそうな心当たりが一人いる。弥二郎の父親にして時宗の祖父だ。

 ただ。

 会いたくねぇぇぇ。

 会ってももらえねぇぇぇ。

 子どもの頃にはベタベタに可愛がってもらっていたのを覚えているのだが、祖父はとにかく偏屈だった。自分の長男、つまり時宗の父親に半ば強引に南条鉄道の経営を取られたのがショックだったのかもしれない。時宗が小学校低学年の頃に引退宣言をして、さっさと松濤の邸宅に引き籠ってしまっている。

 この祖父、なにせおっかない。時宗が生まれる前に、父親の義時が身代金目的で誘拐された時には、「犯罪に走るような最低の無能に誘拐される間抜けは、一族には必要ない」と言い放ったという。義時はまだ7歳だったのだが。

 子供は4人いるのに、長男にはグループを潰されそうな勢いだし、その下の2人は絶縁状態で音信不通、わずかに末っ子の弥次郎だけが、かろうじて関係を保っている状態だ。

 決めたことは頑として変えず、長男にグループ当主の地位を譲った後は、絶対にグループのことに口を出そうとはしない。ニュースなどで南条グループが危ないことは知っているだろうに、不気味に沈黙を守っている。

 時宗の父親と兄は、最初のうちこそビクついていたのだが、一切何も言われないことで図に乗り、最近の行動は目に余るようになっている。潰れるなら潰れてしまえという投げやりなボケ老人と化した祖父が、時宗には哀しかった。

 時宗が幼い頃、祖父は時宗にだけは優しかった。時宗を膝の上に載せて、舌足らずな話を真剣に聞いてくれたのだ。一族の花見など、政財界の大物を招く大きな行事の時でさえ、祖父は時宗を膝に座らせていた。時宗は何も知らないまま、当時の政界や財界の大立者と話し、ちっちゃな指で折り紙を折っては彼らに渡していた。

 祖父とは、もう10年以上会っていない。小学校を卒業した時に挨拶に行ったのだが、その時、祖父は箱をくれた。寄木細工の小さな秘密箱で、決まった手順で仕掛けを解かなければ開かないものだ。

 だが兄の時頼が、それを横からひったくった。

 祖父は烈火のごとく怒り、箱を兄から奪い返すと、兄をかばった父親もろとも屋敷から叩き出した。父親は、「時宗だけを贔屓にするなら、もう金輪際、父さんに時宗は会わせないからな」と怒鳴った。時宗は強引に父親に引きずられて屋敷から連れ出され、祖父とはそれきりになってしまった。

 祖父から連絡が来たことはない。弥二郎だけが一年に数回、様子を見に行っているらしい。相変わらず自分で決めたルールを厳格に守っているそうな。就寝時間は夜の9時。それ以降は、たとえ身内が死のうと起きてこない。

 タイヤ交換を終えて都心に入るまでを2時間半と見ても、その時点で8時。四ツ谷から五反田の事務所に行き、その後にきちんと訪問用スーツに着替えて松濤の祖父の屋敷に行けば、どう考えても9時過ぎになる。

 今夜祖父に会うのは無理なのだ。

 弥次郎は今、どこでどんな目にあっているのか。

 夜の空を眺めて、時宗は奥歯を噛みしめた。途方に暮れている暇はない。考えろ。今の状況がどうにもならないなら、どこに突破口があるか考えるんだ。

 時宗は一旦戻った。2人の整備士がタイヤ交換をきびきびやっている。海斗はその近くで、リフトに載せられ宙に浮いた愛車を不安そうに見ていた。

「あとどのぐらいかかる?」

 時宗が聞くと、海斗は作業をしている整備士の手元を見た。

「アラインメントは今回ちょさねぇし、超特急でやってもらってっから……割と早い。あと……20分ぐらい」

 思ったより早いな。急げば祖父の就寝時間に間に合うんじゃないか? まぁ……東京の道は期待しない方がいい。それに尾行をまけないなら、そもそも五反田の事務所に行くのさえ覚束ない。都心に入るまでに、色々な場合に合わせた対応をできるだけ多く考えて海斗と共有しておくか。

 時計を見る。20分か……その間に何ができるだろう。

 尾行は2組。黒いワゴンのナンバーはさっき押さえた。弥次郎が誘拐され、はっきり事件性がある以上、警察は即座に調べるはずだ。白いセダンの方のナンバーは記憶しているものの、できれば乗っている奴の顔まで欲しい。

 トイレを借りて、周辺の地図をスマホで見ながら待ち、残り10分程度になったところで、時宗は海斗に耳打ちした。

「ここに来る時、表通りの角にコンビニあったろ?」

「あぁ……」

「ちょっとあそこに行って尾行を探ってくる。終わったら、迎えに来てくれるか?」

「わかった」

 海斗を安心させるように軽く肩を叩き、時宗は整備工場を出た。

 時宗の勘では、白いセダンはあのコンビニの駐車場にいる。周辺の地図を見てみたら、この細道の先は他の大きい道路につながっていない。ぐるっと住宅街を回ってあの表通りに戻るしかないのだ。

 つまりあのコンビニで見張っている限り、海斗は逃げられない。海斗の「ルート」を知っているなら、この細道に入る必要はないのだ。一方、黒いワゴンは反対の方からこの細道に入り、発見される危険を冒して整備工場を確認して行った。あのワゴンは海斗の「ルート」を知らない。

 細道を、時宗は小走りで抜けた。もし時宗の考えが正しいなら……。

 コンビニの明るい駐車場に足を踏み入れたところで、時宗は声を上げそうになった。

 やったぜ!

 白いセダンどころか、黒いワゴンもいる。この細道の構造を見て、出口で待っていれば大丈夫という結論に至ったのだろう。2台はお互いを知らないということも、ほぼ確定。バカどもめ、仲良く並んでのんびりコンビニの営業妨害しやがって、買い物ちゃんとしろ。

 カメラはすでに長時間録画モードだ。

 時宗は、わざと目立つようにキョロキョロ辺りを見回しながらコンビニに入った。強炭酸水をまずカゴに入れ、おにぎりとアンパン、それにチロルチョコもついでに買う。

 変なローカルフードはないだろうか。

 見た限りではわからず、時宗はとりあえずレジに並んだ。

 会計を済ませると、コンビニを出てすぐに強炭酸水の蓋を開ける。一口だけ飲み、蓋を緩めに閉める。

 入口の横で、時宗はアンパンの封を切った。一口食べながらスマホをいじる。

 もちろんカメラ操作のためだ。体を動かしてアングルを調整し、白いセダンのナンバープレートと運転席、助手席を撮っていく。ズームにしてみたが、やはり違法なスモークフィルムが貼られているらしく、乗っている人間の顔は見えなかった。

 なんとか顔を見られないもんかね。

 パンをむしゃむしゃやりながら、時宗は駐車場の状況を撮っていく。どっちかが手を出してこないだろうか。

 油断しきってパンを食ってる時宗くん、今なら出血大サービスで誘拐し放題! 警備もいなけりゃ車もなし。南条グループ当主の御次男ですぜ。身代金は多分払ってもらえないけども。

 そんなことを思いながら、時宗は大口を開けてアンパンにかぶりついた。張り込み中に食うのはアンパンっていうのは漫画かなんかで見たけど、張り込まれてる方がアンパン食ってるのはネタになるだろうか。

 くだらないことを考えている目の前で、意を決したように黒いワゴンのエンジンがかかった。助手席が開き、中から30代ぐらいの男が降りてくる。後部座席にもいるなと時宗は踏んだ。とっさにポケットに手を入れ、ボイスレコーダーのボタンを押す。

 財閥の御曹司を舐めんなよ。誘拐されそうになったことぐらいあるわい。降りてきた男が時宗を押さえ込み、後部座席の男がドアを開けて引っ張り込む手筈だ。

「おいお前」

 男が時宗に向かって声を上げた。絶妙に趣味の悪いストライプのスーツ、手入れの悪いクロコダイル型押しの靴。まったく服装がなってない。精神衛生の欠けた奴がかっこつけんな。

 おそらくヤクザの下っ端だ。どうせ普段はおどおどしてるくせに、いっちょまえに時宗を脅す気満々。肩をいからせた歩き方がチンケなヤンキーなんだよ。重心もなってない。あんなん、ちょっとつっついたら転がせる。

 気づかぬふりで、時宗はアンパンをもこもこ頬張っていた。

「おい」

 イラついた調子で男が再び声を出す。黒いワゴンがゆっくりと動き始めた。ワゴンの向こうで白いセダンもエンジンをかける。黒いワゴンが自分たちと同じ奴をターゲットにしていることに気づいたらしい。

「はい?」

 きょとんとした顔で、時宗は近づく男の顔を見た。もちろん左手のスマホでカメラをズームし、顔を録画している。

「お前、時宗っていうんだろ?」

「はぁ……いえ、違いますけど……」

 戸惑い全開、人の好さそうな必殺のボンクラ顔で、時宗は男を見返した。えぇ~? 誰が時宗くんなんですか? 今のボクは南時雄っていうしがない好青年なんです。

 時宗は用心してスマホをポケットにしまった。格闘になった時にスマホを吹っ飛ばすのは致命的にマズい。

「トボけんな。お前が時宗だってこっちは知ってんだぞ」

「はぁ」

 海斗を狙ってるんじゃないのか? それとも、車がない方を確実に拉致する算段か?

 白いセダンが、ゆっくりと黒いワゴンの後ろから姿を現わした。成り行きを見ている。2台とも、いつでも走り出せる状態だ。

 海斗! まだか?!

 時宗は心の中でわめいた。タイミングが合わなきゃマジで生き別れだ。早く来てくれ。前倒しで友だちに採用してくれたんだろうが!

 黒いワゴンの後部ドアが小さくカチャリと鳴った。やばいやばいやばい。

 その時、低いエンジン音が聞こえた。細道からだ。

 来た!!

 時宗は動いた。一瞬で男に足払いをかけてひっくり返し、炭酸水を後部ドアに投げつけておいて黒いワゴンの前に飛び出る。運転手がとっさにブレーキを踏み、ワゴンがつんのめる。よろけたふりで白いセダンのボンネットに倒れ込み、横になるようにしてカメラアングルを運転席と助手席に合わせ込む。

 焦ったのだろう、白いセダンの助手席のドアが開いた。男が顔を突き出し「バカ野郎!」と怒鳴っている。引っかかったな、バカはお前だ!! そいつの顔をカメラに収めると、時宗は地面に降り立ちスバルに向かって走った。

 海斗の運転は見事だった。細道から状況が見えた瞬間、海斗はアクセル全開で駐車場に突入した。甲高いタイヤの音。スピンするように車の向きを一気に変える。どんぴしゃり時宗の目の前に助手席のドアがある。

 時宗が車に飛び込むと同時に、海斗は表通りに走り出た。一時停止もしていないくせに、周囲のすべての車の動きを見切った、鮮やかな進入で車線に乗る。周りが全員止まって見える。スバルは滑らかに加速していく。シフトチェンジに乱れはない。エンジン音が綺麗に高くなっていき、エクスタシーを感じる瞬間にギアが上がる。

「時宗! 怪我してねぇか?!」

「あれはトリックだ。灯りのおかげで運転手の顔も撮れた。大成功だ」

「お前……ヒヤヒヤさせんな!」

 泣きそうな声で海斗が怒っている。白いセダンのボンネットに乗り上げたのが事故に見えたのだろう。

「俺はなんともない。詳しい話は説明してやるから、とりあえず高速に戻ろうぜ」

「わかった。わかったけどお前ほんとに怪我してねんだな?!」

「めっちゃ本気で心配してくれてる?」

「あったりまえだ! ここで死んだらどうすんだアホタレ!!」

 友だち認定はしてもらえたが、逆にアホタレ認定はまだ解除されていないのか。時宗くん頑張りましたよ? かっこいい身のこなし見てました? ……まぁ、事故に見せるような動き方しか見てなきゃ心配だわな。

 海斗の心からの心配顔に、悪いことをしたなと思うと同時にくすぐったくなる。純粋に心配してくれる海斗が、本当に……好きだ。

「心配させて悪かった。全員の顔を撮るために狙って動いたんだ。ちなみに俺、空手は一応三段。護身術として習わされた」

 海斗は少しほっとした顔になった。

「そういうのは早く言え。あと、なんか計画してんなら先にちゃんと言え」

「次からそうする。ツナマヨのおにぎり食うか?」

「……食う。まったく……」

 意気揚々とおにぎりのフィルムをむき始めた時宗を乗せ、海斗は再び高速の入口へとスバルを駆った。


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