第四章 休暇迷宮 4

 迷宮の中で俺たちは途方に暮れた。話を聞いてもまったくわけが分からない。

 しかし、ハチは驚きはしていたもののなんだか察したらしく、ため息をついて頭を掻いた。

「分かった。お嬢ちゃんは安全なとこにいなよ。終わるまでは絶対に、ここへ来るな」

「はい! 分かりました! では、よろしくお頼み申します」

 女給ちゃんが耳をピンと立たせて、深々とお辞儀して天井の引き戸を閉める。

 俺たちだけになるやいなや、ハチは持ってきていた薙刀をキュウに渡した。

「あざっす!」

「肌身放さず持っとけよな」

 ビシッと指を突きつけるハチに対し、キュウは軽々しく「うぃっす」と返事した。

「何体いるんだろ。一体とか?」

 俺の問に、キュウが首を傾げる。

「一体でこんなわけわからんことをするヤツなら、とんでもないぞ」

「キュウ、お前はひとりでもいけるだろ? 手分けして探そう」

 唐突にハチが真面目に指示を出す。これにキュウは「はーい」と間延びした声で素直に従うと「じゃ、オレはこっちのふすま見てきます」と言って、さっさとその場を後にした。

 その後をついていこうかと思ったが、ハチが俺の頭をガシッと掴むので立ち止まるしかなかった。

「お前は俺といっしょ。こっちのふすまから行く」

「なんで、俺はハチといっしょに?」

「ちょいと特殊なヤツだからだよ」

 そう言う彼の横顔は、いつもの気だるそうな表情だったので、真意が見えない。

 なるほど? まぁ、確かにこんな空間を作ってしまうという業魔イル……タダモノじゃない、か。

 一つ目のふすまをハチが開ける。部屋は空っぽで、とくに異常はない。二つ目。三つ目。どんどん開けていくも果てがない。地味な捜索が続いた。

「うーん。ハズレかな」

 無言が続いたせいか、ハチが突然大きな独り言を放つ。

「キュウんとこにいるのかねぇ」

 ふすまを開ける。お、とハチが声を上げた。

「レイ」

 ちょいちょいと手招きされ、俺も覗き見てみる。すると、部屋の中に子猫サイズの繭のようなものが動いていた。小さな目が四つあり、俺たちの姿を見るとあわあわと逃げようとする。しかし、どんくさいそれは壁にぶつかって転んだ。

「え、これが?」

「いや、厳密に言えばこれの親分がいるわけだな。もうこれだけ小さいのを作ってるってことは、まだまだ出てくんぞ」

 そう言って、ハチはニヤリと笑った。

「はい、点数稼ぎの時間だ。レイ、やれ」

「……うん」

 なんともスリルのない退治である。俺はためらいがちに刀を抜き、小さく震える業魔イルを斬った。小さくキィッと悲鳴を上げたそれはあっけなく骸となる。

「はい、次」

 ふすまを開ける。こうしていくつか見送ったあと、何体かの小さな業魔イルをゆるやかに退治していった。だから、頭の片隅ではカレーのことがちらついてしまう。

「カレー、もう冷めたかもなぁ」

「大丈夫大丈夫、俺のが来たときはまだだったし」

「いや、ここに来てもう何分経ったよ。とっくに冷めてそう」

「じゃあ、あとで女将に作り直してもらおうぜ」

 どこまでも楽観的なハチである。俺は渋々、足元にうごめく業魔イルを斬った。

「あー、キリがねぇ。どんだけいるのか分かんないのがもう……」

「そうイラつくなって。いいじゃん、生還希望者サバイバーなんだし、退治すりゃするだけ目標にたどり着ける」

 俺の背中をとんとん叩きながら言うハチが、一歩踏み出してふすまを開けた。その際、驚かせるように業魔イルが大きく口を開けて飛びかかろうとした。それをハチは素早くかわし、懐刀で刺し、真っ二つに斬る。

 その鮮やかな手さばきに、俺は素直に感心してしまった。

「ハチって、本当に強いよな……」

「何年ここにいると思ってんだよ」

「何年いるのさ」

「……内緒」

 ハチはふすまを開けた。俺はハチが斬った業魔イルの断面を一瞥した。なめらかな断面がだんだん朽ちていく。

「ハチはさー」

「ん?」

生還希望者サバイバーだったって、本当?」

 軽く訊くつもりが、口調に重たさを含んでしまった。ハチの足がピタリと止まる。しかし、それも一瞬のことですぐにふすまを開けながら「おー」と軽く返してきた。

「フウに聞いた?」

「うん」

「あのバカめ。ったく、ムカつくなぁ」

 そのことに関しては同意しかねる。俺は笑いもせず、頷きもせず、無反応を貫いた。それがどうにも空気を重たくさせたので、ハチが片眉を上げながらふり返った。

「別にもう過ぎたことだぜ。この仕事するって決めたときに現世への未練も断ち切ったしさ」

「嘘だろ、それ」

 遮るように言うと、彼はわずかに目を見開いた。そして気まずそうにふいっと顔をそらす。スタスタと部屋に入り、ふすまに手をかける。

「なんでそんなこと言うんだよ」

「………」

「あ、あれか。克馬抹消ころしたからか? それで、お前も俺に逆恨みされていつか業魔イルに食わされるかもって、そう思ってるわけ?」

「……いや」

「確かに一回、食わされそうになったもんな。なるほどなるほど」

「ハチ」

 ふすまをパンと開けるハチ。その苛立ちが伝わり、俺は言葉を飲み込んだ。

 やがて彼の深いため息が聞こえてくる。

「俺は別に、もういいんだって。それをお前に八つ当たりしたってダセェじゃん」

 それはなんだか自分にも言い聞かせるような響きを持っていた。

 ほら、やっぱりまだ諦めてないんだろ。

「……無理して俺に付き合わなくていいよ、もう」

 それは気遣いの意味で言ったことだった。ハチは何も答えない。近づくと、彼は素早く俺に向かってふり返った。その速さに追いつけず、まさか刀が奪われていたことにも気づかなかった。

 ハチが俺の刀をうばって振りかぶる。その瞳は真っ暗で、何を見ているのか分からない。一瞬のことだった。俺は身動きできずにその場で固まったまま。

 しかし、衝撃は一切なかった。代わりに、背後で金属をこするような悲鳴がした。

 振り返ろうと首を回す。しかし、ハチが俺の胸ぐらを引っ張るので、それをしっかり認めることができなかった。

 俺はハチの腕で隣の部屋に移動させられる。ハチは刀についた黒い体液をその場で振ると、刀身を拭った。

 そこで、ようやく俺はハチが斬ったものを見た。

「え……?」

 それは、すでに形を保てなくなっていき、やがては朽ちていく。しかし、猫耳だけはしっかり目に焼き付いた。

「……業魔イルというのは、人間が生み出す負の感情だと、そう言ったよな」

「え? うん……」

 ハチの静かな言葉が唐突に浮かび、俺は一歩遅れて反応する。

「それらが妖怪に取り憑くこともある」

「え?」

「取り憑かれた妖怪は無自覚に業魔イルを育て、殻を破るように背中から業魔イルとして生まれ変わる」

 その言葉とともに、俺の頭で嫌なイメージが広がった。それはつまり、あの女給ちゃんが業魔イルだったということか。そういうことも、あるってことなのか。あ、だから植物や獣や蟲といった種類が存在するのか。

 呆然とする俺に、ハチは憂いの目を向けた。

「んで、そういう業魔イルは妖術を使う。こういう空間を作って隠れて避難することも、ここに人間を迷わせて食うことも可能ってわけさ。キュウはあの感じだと知ってるな」

 なるほど。だから、キュウをひとりで探索に向かわせたわけだ。

 俺はうまく回らない思考の中でそれだけ考えた。

 ハチは袂を探り、タバコを出して火をつけた。フィルターを吸い、ふうっと煙を吐き出す。

「それ、かなりエグいもんだからさぁ、あんまり見せたくないんだよね。ほら、カレー食えなくなるかもだし」

「はぁ……って、そんなこと気にするなよ」

 こんなときにまで、カレーの心配なんてしてられないだろ。

 すると、ハチはクスッと笑った。

「それもそうだな。まぁ、でも、メシの前にこんなことやるのはなぁって、俺の気遣いってやつじゃん。素直にありがたく思えよ」

 だんだんと視界がぐらついていく。いや、靄が溶けるように仮想空間が崩れていく。

 気がつくと、俺たちは店の一階にある座敷にいた。にぎやかな声音が聞こえてくる。ポコポコとサイフォンが鳴る音が耳に届く。

 ハチがタバコを携帯灰皿に押し込み、座敷のふすまを開けようとした。その彼の背中に言う。

「あのさ」

「ん?」

「俺のこと、なんでそんなに守ってくれるの?」

 ──あんたのこと、大嫌いよ、あいつ。

 フウの意地悪な声がよぎり、つい子どもっぽく訊いてしまう。そんな俺に対し、ハチはふり返って目を丸くさせた。そして、苦笑しながら言う。

「担当だから。それじゃダメ?」

「じゃあ、俺のことどう思ってるの?」

「なんだよ、気持ち悪いんだけど。俺、そういう趣味ないよ」

「うるさいな! 俺にもねぇよ! いいから答えて!」

 つい声を荒らげると、ハチはからかうように笑った。

「別になんとも。かわいげのあるガキとしか思ってねぇ」

 そう言って袖を翻すと、ふすまを開けて出ていった。俺はため息をついた。

 ふと顔を上げると、目の前のカウンターに女郎蜘蛛の女将が柔和に微笑んでいる。

 気まずくなり、すぐにその場を離れて二階へ戻った。


 キュウも戻ってきたので、ようやく落ち着いてテーブルにつく。その瞬間を見計らったかのように、女将がカレーを三皿運んできた。

「本日はお手数おかけしまして。申し訳ありませんでした」

「そんなこと、微塵も思ってないくせにさぁ」

 すかさずハチが嫌そうに文句を言う。すると、妖艶な女将は上品にクスリと笑った。

「いえいえ、本当に申し訳なく思っておりますわよ。まさか従業員に業魔イルが取り憑いていたとは思いもせず。しかし、市局に連絡をしますとねぇ……ほら、営業停止になりますでしょ? どうしたものかと困ってまして」

 そして、彼女は妖しく目を細めて含むような言い方をする。

「今日のハチさんは非番でしたわね」

「はいはい、分かってますよ。市局には言わないから」

 ハチは面倒そうに手を振った。

「ここのカレー、食えなくなるのは困るからな」

「ふふふ。恩に着ます。本日はサービスいたしますので、どうぞごゆるりと、心ゆくまでおくつろぎくださいませ」

 そう言うと、女将は俺たちの前にカレー皿を置いた。

 にこりと微笑む彼女と目があい、自然と口角が上がる。キュウも同じらしく、だらしなく鼻の下を伸ばしていた。

 うまそうな香辛料の香りがふわっと鼻腔を刺激し、俺たちは念願のカレーを頬張った。こっくりとした濃厚なうまみとゴロゴロの具材が絶品で、堪らず目をつむって唸った。

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