ロスト・チャイルド・サバイバー

小谷杏子

第一章 この世のオモテとウラ

第一章 この世のオモテとウラ 1

 その日、俺は世界から消えた。


 この世には、オモテとウラが混在している。

 街を行く人々の顔は大半がオモテであり、感情はウラにある。

 ほら。あの教師はいつも、俺たち生徒のご機嫌をうかがうように、現国の授業をする。オモテはそうで、ウラを一切見せない。でも、絶対ウラの感情があるに決まってる。

 授業の内容は、芥川龍之介の羅生門。舞台は平安。荒れた羅生門で起きる一幕を描いた小説を、冴えない中年男が慣れた口調で説明する。当時の様子、物語の筋、人間の善悪についてつらつらと。

 この時代の物語は、単純に難しくてつまらなくて、荒唐無稽なおとぎ話にさえ思う。

 しかし、人間という生き物のオモテとウラを小難しく描いているので、どこか共感できる節があった。

『どうにもならないことを、どうにかする。生きるための手段ですね。はい、手段を選んでいられないと下男は思ったわけです。はい』

 俺はノートを見つめた。

 生きるための手段か──俺は今、その帰路に立たされているんだろうな。

 なぜ、急にこんなことを考えているのか。

 そう思った瞬間、視点が変わる。

 ノートに目を向けていたはずの目は、今、荒れ果てた森林の奥深くを映し出していた。

 体はボロボロで、節々が痛いと感じる。気持ち悪い冷たい空気が、皮膚の表面がめくれてむき出しの生傷を撫でた。

 ひゅうっと一筋の風が吹く。

 その音が自分の浅い呼吸なのかどうか、判断することも難しくなってきた。

 森の中。ひとりきり。どうして俺はこんなところにいるのか。

 今のは走馬灯ってやつなのか。死を実感した人間が、その死を回避しようとする能力、的な。

 しかし、死を回避するための記憶がない。

 俺はつい笑いをこぼした。しかし、喉の奥が疲れていて、まともに笑うこともできない。呼吸もままならない。口元だけに笑みを浮かべるしか、今はできない。

「はぁ……死にたくねぇ……っ」

 死にたくない。まだ、死にたくないのに、十五年で俺の人生は終わるのか。

 いや、そんなことはない。そんなこと、あってはならない。

 でなきゃ、泣き叫ぶ妹を見捨てて、ここまで来ていない。

 俺は痛む体を起こした。内臓が体の中でぐちゃぐちゃになっている気がする。動くたびに吐き気を催し、どす黒い血を噴き出す。

 汚い。汚いのに、それでも生きたいと思ってしまう。

 この衝動はなんなのだろう。生への執着? ろくでもない十五年だったくせに、まだ未来に希望を持っているとでもいうんだろうか。

 親に殺されかけて、今、ここにいるわけだが。親も死ぬしか選択肢がなかったんだろうが、そんなのお前らの都合だろ。俺を巻き込むんじゃねぇ。

 恨みとともに血が抜けていく。痛みに呻いて、情けない声を出しながら、俺は道なき道を進んだ。

 霧が濃い。もうどこを歩いてるのか分からない。

 ぬかるみもひどくなり、そのたびに足を取られる。靴が脱げた。そして、もう脱げる靴もなくなり、足を踏み出そうとすれば、足を取られる。

「あっ」

 あっけなく倒れれば、体がきしんだ。あぁ、もうこれ、無理かも。

 泥が口の中に入った。耳に不気味な柔らかいものが流れ込んでいくも、もうどうすることもできない。

 手を伸ばす。腕の力だけでも前へ行けないか。

 泥を掴んで這う。でも、やっぱり、もう無理だ。

「いやだ、死にたくねぇのに……助けて……誰か」

 誰でもいい。誰か。

 ──斧田おのだくんは、この世のオモテとウラ、どっちが生きやすいと思う?

 思い浮かんだのは、教室の片隅で涙を浮かべながら微笑む女子。彼女に助けを求めるなんて、本当にもう終わりかも。

 だっせぇ死に方。彼女に見られなくて本当に良かった。

「うわ。本当にだっせぇし、ろくでもねぇ死に方だな」

 唐突に、頭上から低い声が聞こえてきた。なんだ? 男? 救助か? いや、しかしなんだその口調。まるで、俺をあざ笑うかのような言い方だ。

 視線だけ上げると、痩身の男がいた。彼が立つ場所はトンネルの入り口。いや、鳥居か。湾曲した鳥居。

「おい、少年。君はまだこの境界に入りきれてない。このまま無様に死ぬか、血反吐を垂らしながら生きるための模索をするか、選べ」

 何それ。助けてくれねぇのかよ。

「そいつはお前の意思次第だぜ。なぁ、おい。どうする?」

 どうするって……そんなの、一択だろ。

「し、し、にたく、ねぇ……」

 泥に溺れた声が出てくると、頭上で高みの見物を決め込む男は、ため息をついた。

「了解。んじゃ、とっとと自分の意思で、ここまで来い。あと少しくらい動けや」

 俺はゆっくりと顔を上げた。

 大怪我負った人間を助けもせず、ただ眺めているだけのヤツをひとめ拝んでやろう。

 力を振り絞って上半身を起こすと、そこには全身黒の服を着た若い男が、腕を組んで立っていた。何か、片手に長い棒のようなものを持っている。

 そいつで俺を引っ張れば済むだろうが。

 怒りが湧き、腕に力を込めて這う。男は一歩ずつ下がっていき、俺が這う姿を見つめている。

 どんな顔かは分からない。もう目がはっきりと見えない。

 歯を食いしばっていくらか進み、脱力し、また進む。

「すげぇ執着心」

 あぁ、そうさ。生きるためならなんだってやるさ。家族を捨てても生きてやるんだ。

 体が霧の中に包まれていく。その霧のせいで、男の姿が見えなくなっていく。

「よし、まずは第一関門突破だな」

 男の声で、俺は動きを止めた。枯れ葉の感触が顔に張り付く。

 そのまま、意識が遠のいた。

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