第二服 同乳連枝
いささめに 時待つまにぞ 日は経ぬる
武者子も吾子も ともにはぐくむ
千屋は堺の今市町にあり、この辺りは住吉大社の社領である。今市町の西には
宿院頓宮は住吉大社の
今市辺りには納屋衆が多く住んでおり、千屋や本家の
その千屋に、ひっそりと訪れた客人があった。そのため、離れに近づかぬよう父に言われた
そして、多呂丸は昼過ぎからずっと二人の
紗衣は多呂丸からすると
二人の赤子のうち、一人は十日ばかり前に生まれたばかりの弟・
千熊丸は豪奢な
「あれ、多呂や……多呂もほしいかぇ?」
紗衣は多呂丸がじっと見ているのに気付くと、手招きしてみせた。多呂丸はカッと頬を紅く染めて大きく
「多呂は赤子ではありませぬ! 志郎の分が
ほほほと、紗衣は笑った。
「かぁさまはたんと乳が出るに、志郎の分など無ぅなりゃせんがね」
笑顔でそう紗衣がいうと、多呂丸はばつが悪そうにしょげ返ってしまった。もう一人の赤子への意地悪と思われたと心配したのだろう。
「多呂はいい
そう言うと紗衣はクシャクシャっと多呂丸の頭を撫でた。多呂丸ははにかんで笑顔を紗衣に向ける。幼い童の笑顔に千熊丸の乳母も紗衣の侍女も安堵した表情を浮かべていた。
紗衣の言葉に多呂丸は気づいたことがある。千熊丸がこののちもずっと、千屋に滞在するらしいということだ。それならば志郎丸と千熊丸が乳兄弟になる。武家の子弟というのは母親だけに育てられることは基本的にない。武家の妻というのは夫の留守を守る女主人であり、家臣の妻らの面倒をみる当主の代行者であり、奉公人の差配の役目がある。それ故、特に赤子に掛り切りになることは出来ないからだ。とはいっても、普通は子を外に出すことはない。乳母に
千熊丸の乳母は阿波の豪族の
志郎丸が生まれた
大騒動の発端は
践祚とは、皇太子または皇太弟・皇太孫などの皇位継承者が皇位を受け継ぐことを云う。即位の礼が国の内外に知らせるのに対し、践祚の儀とは「
その戦国の世にあって幕府を支える管領との仲違いである。元々、高国は積極的に義稙公を擁立したわけではなかった。大内義興の軍勢と戦って敗れることを回避するために、疑り深く馬の合わぬ
高国の意向を受けた朝廷は、
伊勢貞忠は足利義澄・義稙に仕えた
飯川国信・大舘尚氏はともに奉公衆であり、幕府直属の軍事や代官などを務めている。特に大舘尚氏は父・
その将軍を支えていた細川氏は永正の
三好之長は阿波守護細川
久米氏というのは伊予の
これの一族が阿波へ入り、三好郡に土着して勢力を伸ばしていく。主家である小笠原氏の姻戚となり、主家が没落すると、これに取って代わったのである。
そして細川
そして、
高国勢の包囲を破れなかった之長は
千熊丸の父は三好元長という。細川澄元に仕えた之長の四男であり、嫡子の
「
親しげに与右衛門に話す人物、六十を少し過ぎたばかりの老人で、物腰も柔らかく人当りも良さそうであるが、小兵の割にはガッチリとした
「いやいや、
蔵人とよばれた好々爺は、三好元長の叔父で
「蔵人などと呼んでくれるな与右衛門殿。昔のように気安く彦四郎でよい。それにな、千熊を預かってもらえること以上に、今の大事はあるまいよ」
高々と笑い声を挙げる
そもそも与右衛門は三好之長と付き合いがあった。之長が堺には進出した折、これをいち早く支援したのは他でもない
彦四郎とはその時以来のつきあいであり、与右衛門としては三好一族を
「これからな、讃岐の
十河氏は古代に讃岐に下向した
「ほう、十河殿と申しますと、左衛門尉殿ですかな」
商売のネタになりそうなことであれば、聞き逃すまいと、心の居住まいを正した。
「いや、あそこに若いのがいてな。元長さまの小姓にどうであろうかと思っての」
存景には金光丸という十二歳になる男子があった。中立を保つ十河に阿波から楔を打つことで、畿内への進出を容易くしたい意図が明らかである。東讃の最西部に三好の影響が及べば、摂津との経路が一つではなくなり、孤立する危険性が減るのだ。
四国から畿内へと手をのばすには淡路だけの経路では心許ない。最短経路の淡路以外にも補給路や退路は確保しておかねばならぬ。また、軍勢を養う拠点となる摂津にも近い東讃は抑えておきたい重要な土地である。
「なぁるほど、これはなかなかの買い物ですな」
十河氏は植田氏の中でも庶流であり、
「ふぉっふぉっふぉっふぉ、そうであろう、そうであろう」
大仰に頷き返す
現在、阿波に逼塞する元長の周囲は刺客の危険性が大きくなっているということだ。刺客を送りつけているのは高国一派、やり手の
その一方で、元長も調略の手を讃岐に伸ばし、同族の伊予の久米氏にも阿波への移住を呼び掛けているのであろう。元長だけでなく、之秀の異母兄長尚も手勢を集めていた。ここで十河氏が三好に通じれば安富氏を三好氏の下風に置くことができる。
「そうなりますと、土産が要りますな?」
にっこりと人好きのする笑顔で商売人の顔となった与右衛門に、一頻り之秀が大笑いをした。
「それよ、それ! 与右衛門殿はそうでなくてはならぬ」
「いつも千屋をご贔屓にありがとうございます」
与右衛門が態とらしく畳に額を擦り付ける。
さらに高笑いをする之秀に顔を上げた与右衛門が戯けた表情を見せると、二人で見合って高笑いを挙げた。
「彦四郎様、手前そろそろ身代を譲ろうかと思っておりました」
「ほう。与兵衛殿にか」
「はい。そのつもりでおりましたが、彦四郎様のお話を聞く限り、あと数年は先延ばしにしなければならないようでござりますな」
にたり。
与右衛門は掴んだという顔をした。
調略には贈物が必要であり、堺と東讃の商人らには繋がりがある。千屋とて納屋衆の端くれ、ここで大商いを捨てる手はなかった。
「そうしてくれるかの?」
之秀は間髪を入れず答えた。
その眼差しは真剣そのもの。それもそのはず、元長は叔父の長尚に押されて家中での発言力を落としている。之秀の長兄之長か嫡子長秀が生きていれば、長尚も表向きは対立するようなことはしなかったろう。長尚は之長の強引な遣り口に反対であったし、異母兄弟故の行き違いもあったやも知れなかった。なにより長男・長久を失ったことが、宗家から心が離れた原因かも知れぬ。
しかし、だからこそ之秀は元長を推戴した。元長とて若いが、三好は今赤子の当主を戴く訳にはいかなかった。長秀の子は之秀が引き取り、養育している。ゆくゆくは元長に許しを得て一家を立てさせてやろうと思っている。子のない之秀の跡を継がせても良いとも考えていた。
「勿論でございますとも。彦四郎様とご当代様が再起する手助け、身代が傾かぬ限りさせていただきましょう」
「恩に着る」
今度は之秀が頭を下げた。
之長もそうだったが、三好の者は商人を見下さず、対等に付き合ってくれる。これは与右衛門にとって嬉しいことだった。
「彦四郎様、頭を上げてくだされ」
「儂の頭で済むものなら、いくらでも下げようほどに、な」
元長の頭は下げさせぬつもりなのであろう。与右衛門とてそこを求める気はなかった。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。
「では、又甥の顔でも見てくるかの」
「かしこまりました。こちらでございます」
与右衛門が先導して母屋に案内する。穏やかな五月の一日が過ぎ去ろうとしていた。
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