第42話
注文の品を佐紀の目の前に並べながら、店を抜けて話をしてきていいという許可をもらったと彼女に告げた。そんな対応をしてくれるとは想像もしていなかったのか、佐紀は聞き終えてすぐ、目を丸くして静かに驚いていた。彼女のそんな顔を見るのは初めてだった。
「お店の人、優しいんだね」
感心している佐紀の言葉に僕は同調して頷く。
「それじゃあ、抜ける前に色々終わらせておくから、とりあえず佐紀は食べてて。また声をかけるよ」
僕が言うと、佐紀はフォークを手にしてチーズケーキを口に運んだ。この店のケーキの出来がいいことは知っていたけれど、それにしても咀嚼する彼女の顔は分かりやすくほつれていった。
「うん、待ってる」
やはり彼女は笑顔の方が自然だと思った。
二十分ほどしてから、やっと持ち場を離れる余裕ができた。千加さんに一声かけてから席に戻ると、既に佐紀はケーキも飲み物も空にして、茶色いカバーのつけられた文庫本に視線を落としていた。
「ごめん、待たせた」
声をかけられてから近くにいる僕の存在に気づいた様子の佐紀は、のんびりとした所作で読みかけの本を閉じ、軽く伸びをしてから席を立った。
「ううん、大丈夫だよ。ケーキ、すごく美味しかったからね」
それから佐紀は会計を済ませ、二人で店を出た。
ちょうど彼女はバスで帰るつもりだったらしく、次のバスが来るまでの間、僕たちは話をすることにした。
「バスって久しぶりに乗ったな」
時刻表を覗き込みながら佐紀が呟く。年季の入ったそれは、角の方が折れて捲れてしまっていた。
「そういえば、遥くん。怪我はもう大丈夫?」
先週まであざの残っていた僕の頬と鏡合わせの位置の自分の頬を指さして、佐紀が訊く。僕は頷いてから、「もう結構経つしね」と加えた。
佐紀は安心したような微笑みを浮かべ、それから何かを思い出すように遠くを見つめた。
「あの日ね、遥くんと別れてから、あの人と会ったの」
「あの人って……林のこと、だよね」
彼の名前を口にするのに、まだ少し躊躇いがあった。でも、それは罪悪感や恐怖からじゃない。治りかけた傷が疼くような感覚に近かった。
「うん」
視線を遠くに置いたまま、佐紀は僕の問いを肯定する。
「私が呼んだの。それで、言ったんだ。『これから先、あなたが何をしてくれても、私はあのときのことを許せないし、許すつもりもない』って」
自分が今、どんな感情を抱いているのか定かじゃなかった。驚きであることは確かだったけれど、単純なそれではなくて、どこか佐紀の行動に納得もしているような、はっきりとした名前のつけようがない、不思議な心の動きだった。
「……林は、なんて言ってた?」
「『分かってた』って。『分かってたけど、知らないふりをしてた。いつか許されるんじゃないかって、言い聞かせ続けてたんだ』って言って、泣いてた」
もちろん、林が佐紀にしたことは消えない。たとえ何人の人間が過去の出来事として軽んじたとしても、佐紀があの日から背負い続けているものの重量は変わらない。
でも、だからといって開き直れてしまう人間はきっと一生、同じように誰かのことを虐げて、まるで平気な顔でやり過ごして生きていくのだろう。
少なくとも、林はそういう人種ではなかった。手段はどうであれ、彼は罪を滅ぼそうとしていた。自分によって癒えない傷を負った佐紀から、それでも最後の部分だけは逃げなかった。
「そっか」
別に林のことを肯定するつもりはない。けれど、自分の罪と睨み合い続ける息苦しさに、共感できるものがあるのも確かだった。
「頑張ったでしょ、私」
佐紀が僕の方に視線を戻し、無邪気に笑う。
「うん、正直驚いてる」
「遥くんのおかげでもあるんだよ」
首を傾げて、「分かんないと思うけど」と困ったように笑う佐紀の言葉通り、僕にはまるで心当たりがなかった。
例えばあのまま、佐紀が林の後ろめたさにつけ込み、いいように彼を利用したとして、それに対して僕が嫌悪感を抱くことはないだろう。だって、それは本来、彼女が行使してしかるべき権利なのだから。
「ボロボロの遥くんを見てたら、私だけずるい人になりたくないなって、思ったから」
でもきっと、その時僕は心のどこかで、そんな生き方は彼女らしくないと思うのかもしれない。願わくば、過去に縛られずに生きてほしいと思うのかも。
「よかった。殴られた甲斐があったよ」
結局答えが知れることでもないけれど、少なくとも佐紀が林に対して放った言葉は、僕を安心させていた。僕は彼女の、思ったことを素直に口に出せるところが好きだから。
「そうだ。好きな人とは、今どんな感じ?」
突然の切り返しだった。
予期していないタイミングで容赦のない問いが突き刺さる。しかし佐紀に攻撃の意図がないことは分かった。
どう説明しようか少し考えて、思いつくまま話すことに決めた。
「その人、ずっと入院してて、週に何度か面会に行ってる。ここで働き始めたのも、その交通費だったりを稼ぎたかったから」
相手が佐紀だからか、僕はありのままを伝えられた。
「病気、なの?」
「うん、心臓の病気で、治らない。この夏が終わるまで、生きてられるかも分からないんだ」
僕の言葉を聞き、佐紀は俯いた。
停留所の簡易的な屋根の下にいても、地面から反射した熱からは逃げられない。店を出てそんなに経っていないのに、じわっと背中に汗が滲むのを感じる。
八月の蝉の声は、僕たちの静寂を許さなかった。
「辛くないの」
しばらくして、ふと、彼女が呟いた。
「遥くんは、その人といて辛くないの。その人がいなくなっちゃったら、遥くんも……」
「辛いよ。こうしてる今だって、時間が経つのが怖いし、きっとそのときが来るまで、いや、いざ目の前に来ても、気持ちの整理なんかつかないんだろうなって思う」
改めてこんなふうに弱音を吐くのは初めてだった。彼方さんの前ではなるべく普段通りでいようと努めているし、彼女といるときに悲しくなることは少ないから、言葉にする機会がなかった。
「でも」
でも、彼女の病のことを忘れたわけじゃない。彼女が病から逃げられないように、彼女を失うことからも、僕は逃げられない。
「今、あの人のことを忘れて楽な思いをする方が、これから先の人生においてずっと辛いことなんだって、僕は知ってる。――だから、自分のために、最後まで彼女から目を背けたくない」
それだけなんだよ、と僕は結んだ。佐紀は顔を伏せたままだった。
「悔しい」
なんとか絞り出したような、ひどく潰れた声。それは佐紀のものだった。
「最低、なんだけど。そんなの分かってるんだけど。正直、ちょっとその人が羨ましいとか、思ってる自分がいる」
苦しそうに言葉を紡ぎながら、佐紀は顔を上げた。彼女は大粒の涙を流して、顔を赤くして、でも少しもそれらを隠さないまま僕を見つめていた。
「……そんなふうに思う自分が嫌なの。ずっと見てたんだよ。だから、今の遥くんが一番生き生きとしてることくらい分かる、分かるの。分かってても悔しい」
それは叫びだった。彼女の痛みだった。
本当に、本当の、心の底からの言葉だった。ずるさも汚さも何も隠していなかった。佐紀の歪みきった表情と、全く同じだった。
「悔しい……から」
他人に全てを晒すことの恐ろしさを、僕は知っていた。まとまらない言葉をまとまらないまま口に出すことの不安感も、何もかも、僕は知っていた。
佐紀は僕の方に数歩近づき、無言のまま数秒目を合わせた。その目に怒りは感じない。まるで、何かを深く問いかけているようだった。
少しして、静かに、佐紀は右手を上げた。その手は弱く握られていた。
そのままその拳は、僕の胸のあたりを軽く叩いた。痛みはなかった。代わりに、佐紀の体温と、微かな震えが伝わってきた。
「これから遥くんは、死ぬほど傷つけばいいの」
そう言って、佐紀はぐちゃぐちゃの顔のまま、わざとらしく口角を上げて、笑った。
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