第39話
店から彼方さんの病院に行くには、一度バスで駅まで戻り、更に八駅ほど電車に乗る必要があった。別に座っているだけなので大した苦ではないけれど、ひたすらに待ち遠しかった。早く彼方さんに会って、アルバイトのことや、その他の他愛もないあれこれを聞いてほしかった。
目的の駅に着いてからも、そこから病院まではずっと上り坂になっている。急ぎたい自分と底の知れた体力のせめぎあいの中、十五分ほどかけてようやく病院が見えてきた。
「未鳴遥です。三〇六号室の井辺さんの面会で来ました」
昨日の千加さんと同じように受付を済ませ、エレベーターに乗り込む。まだ体は熱を持っていた。
廊下を渡り、突き当たりの個室の扉に手をかける。ノックを忘れてしまったことに気づいたのは、扉が開ききってからだった。
「彼方さ……」
僕は立ち尽くしてしまっていた。
そこにいたのは、僕のよく知っている彼方さんとは少し違っていた。
髪を片耳にかけて唇を結び、水中深くに潜っているような静かさのまま、スケッチブックに鉛筆を走らせる彼女の姿を、僕は素直に美しいと思った。
「遥?」
少ししてから、彼方さんは僕の来訪に気づいた。彼女は慌ててスケッチブックを閉じ、鉛筆の炭で汚れた右手をすぐそばに置いてあったウエットティッシュで拭いた。
「え、いつからいたの」
「今さっきです」
声もかけずに眺めていたとは言えず、そう答えた。
「絵本ですか」
「そう。もうすぐ最後のページの下描きが終わるところだから」
「すみません、変なタイミングで」
「全然」
「キリのいいところまで気にせず描いてください」
「じゃあ今がちょうどいいタイミングだった」
そう言って、彼方さんは膝の上に置いていたスケッチブックを棚にしまった。
僕はそれ以上何も言わず、ベッド横の椅子に座った。さすがに、こうなった彼方さんがてこでも動かないことくらいは学習しているからだ。
「そうだ。バイトどんな感じ? ウェイターさんでしょ、注文覚えるの大変そうだよね」
「メモがあるので、そこまで大変じゃないですよ。千加さんがすごく丁寧に教えてくれますし。今は単純に繁忙期なので、物理的に捌ききれないのが困りますけど」
「すご……。遥、もう社会人じゃん」
彼方さんは大袈裟なくらい感心した様子だった。
「彼方さんもでしょ」
「そう見える?」
「……」
「おいおい、何か答えなよ」
「嘘はつけないので」
「……まあいいや。あ、そうだ。ねえ見て、これ今度の絵本の主人公なんだけど、初回限定盤だけキーホルダーを付けてもらえることになってさ、まだ試作品だけど、一個もらっちゃった」
彼方さんがポケットから取り出したのは、蛙のキャラクターが壁をよじ登っているデザインのキーホルダーだった。それは今まで僕が見たことのない絵柄で、でも彼方さんが描いたものだとはっきりと分かった。
「どう? めちゃくちゃ可愛いでしょ」
不思議だ。
目の前にいるのは、余命僅かの病人のはずなのに、僕の目には彼女が誰よりも生きる気力で満ち満ちているように見える。
絶望に溺れ、海に沈もうとしていた彼女は今再び、顔も知らない誰かに届けるための絵を描いている。そこに自分がいなくとも、残る何かを記し続けている。
それがどれだけとんでもないことなのか、僕には到底推し量れない。
「はい、すごく」
それでも最後まで、彼方さんが彼方さんらしくあってくれることが、何よりも嬉しかった。
「体調、どうですか」
一通りの話が落ち着いたころ、僕はそう話を振った。
「上々だね。先生に気味悪がられるくらい」
彼方さんは右腕を曲げて力こぶをつくるようなポーズを取りながら言った。明るい彼女の姿を見て、心からの安堵とは言えないまでも、少し胸が軽くなるのを感じる。
「よかったです」
「あ、ちょっと疑ってるでしょ? 本当に体調いいんだから。もしかしたら、あと一回くらい外に出れるかもしれないって言われたし」
あと一回。
もう彼方さんがこの部屋から出る機会は、それしかないのか。
沈みそうになる表情をなんとか保つ。落ち込むのは面会が終わってから一人でやればいい。
「そういえば、ご両親って」
言い終わってから、これは踏み入ってもいい部分なのだろうかという疑問が湧いてきた。
しかし、彼方さんは全く動揺しないまま答える。
「来ないよ。二人とも、もういないから。私が実家を出てすぐ、事故でね」
「すみません」
謝らないで、と言われるのは分かっていたけれど、僕はそう頭を下げた。思い返してみれば、彼方さんと僕との間で家族の話が出たことはない。
「気にしないで。それに、今は遥がいてくれるから寂しくないよ」
彼方さんは僕の中の罪悪感を払いのけるように優しく笑った。
「……あの」
「何?」
「話をしてもいいですか。全然、関係とかなくて、それに、長くなるかもしれない話なんですけど」
僕のおぼつかない前振りを、彼方さんは真剣さと柔らかさの中間のような表情のまま聞いて、頷いた。
「うん、いいよ。まとまんなくても、どれだけゆっくりでもいいから、聞きたい」
「ありがとうございます」
胸に手をやる。心臓は思っていたよりも普段のペースのまま鼓動をうっていた。
そして僕は、今日までの全てについて話した。
母が死に、初めて雨を降らして、他人を傷つけたあの日のこと。それによって生まれた佐紀の僕に対する想いや、河川敷での林とのこと。
彼方さんを、始めは自分の人生を上手く回していくために利用しようとしていたこと。
それら全ての話を、僕はした。
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