第28話

 あえて明確にしていなかったものを自覚した途端、喉の奥に、何かが引っかかっているような気がした。体の中から手が伸びて、目の前の彼方さんに触れたがっているような、そんな気が。

 今まで誰の前でも晒したことのなかった、化け物ではなく、未鳴遥としての自分が、顔を出そうとしていた。


「僕、もう自分の意思じゃ泣けないんです」


 慣れないことを言おうとしているからか、背中に微かな電気が走る。もしかすると、これから先を口に出すことを制止しようとしているのかもしれない。


「悲しいって感覚がないんです。少なくとも、自分に向けてその感情が持てない。全部、仕方ないことだって言い聞かせるのが当たり前になったから」


 彼方さんは何を言ってくれるのだろう。

 勝手に口走っておいて、僕は期待に似た何かを感じていた。明るく聞き入れてくれるだけでも、それはそれでよかった。だって、彼女じゃなければ空気に触れることのなかった言葉たちだから。彼方さんにだけ分かってもらえればそれでよかった。


「だからもう、僕に雨を降らせる力なんてないんですよ。僕はただ、突発的な雨を予知できるだけ。雨が、僕に涙を流させてるだけなんです」


 けれど、顔を上げた僕の目の前にいたのは、少なくとも僕の想像していた彼方さんではなかった。目を丸くして、驚きの感情を押し殺せていない、そんな表情だった。


「……そう、なんだ。じゃあ、遥はなんにも悪くないね」


 どうにかして体制を持ち直した様子の彼方さんは、いつもの顔をして僕を慰めた。まるで、耳に入ってこなかった。


 彼方さんは、それから店を出るまで口を開かなかった。僕も、さっきの彼女の表情が頭から消えてくれなくて、何も言えないでいた。

 そのまま、海辺の方へと僕たちは歩いた。と言っても、彼方さんが黙ったまま歩き出したのを後ろからついて行っただけなのだけれど。


「そうだ」


 ちょうど僕の靴が砂浜に踏み入ったとき、彼方さんが言った。彼女の顔は前方を向いたままで、海を見ているというより、僕を見ないようにしているように感じた。


「明日から、しばらく会えないと思う」


 波の音が、ひどく鼓膜に刺さった。なんで、と訊く前に、彼方さんが続ける。


「ほら、この間からの用事、あれ仕事なの。全部放り投げて逃げたのを、今必死に取り戻してるって感じ」


 彼方さんは歩みを止めると、砂浜の上に座り込んだ。この人は服が汚れるのをなんとも思ってないんだな、と改めてそんなどうでもいいことを思う。


「僕のせいですか」

「……何が?」


 とぼけたように彼方さんが返す。まだ、その目は僕の方を向いてくれない。


「僕があのとき彼方さんを止めたから。彼方さんはまた面倒なことに向き合わなきゃいけなくなった、そうですよね」


 言いながら自己矛盾で頭が痛くなる。僕はどうしてほしいんだろう。これじゃあ、彼女にあのとき死んだ方が楽だったと言ってるようなものだ。

 いや、きっとそうではあったんだ。全てを放り投げて死ぬ覚悟をした彼方さんにとって、一度捨てたものを拾い集めて前向きに生きろだなんて、そんな無責任なことを僕はどこかで思っている。


「私も分かんない、自分の気持ちとかそういうの。泣けないのは、多分私も同じ」


 折り曲げた膝を抱いて、彼方さんは呟く。僕よりも少し高い背丈の彼女の背中は今、すごく小さな薄氷のようだった。


「でも今は、まだ生きなきゃなあって、ちゃんと思ってるよ」


 いつも僕のことをまっすぐに見つめてくれる、硝子のような瞳が、このときの僕にはどこか潤んで見えた。


「全部、遥のおかげだね」


 この言葉を手放しで喜べたら、どれだけよかっただろう。けれど、そんな偽物の安心に溺れていいわけがない。

 僕は、彼方さんが嘘つきなのを知っているんだから。

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