第147話 記録に残らない狭間の曖昧な愛と愛

 少女の片割れに宿った今は亡き健気な妖エリゼハート視点



 何も無い白い世界に浮いていた。


 刀で腹を掻っ捌いた痛みはいつの間にか薄れて、ぷかぷかと流されていく感覚だけが残っている。


 きっとその感覚も紛い物に過ぎず、とっくの昔に私は生命としての活動を終えているんでしょう。


 荒れに荒れていた借り物の心からは解き放たれたらしく、精神はとても清らかだった。


 何一つ心残りが無く逝ける。

 ずっと働いてきた分のお返しがようやく届いたのか。


 もう……心残りは無いんだ……。


 次第に意識は薄れていき、私はこの世界から消え去るだろう。


 その後は到着してからのお楽しみ。

 無に帰すか、輪廻の円環に放り込まれるか。


 どちらにしろ私という存在は跡形もなく消えるはずだ。


 噂に聞く三途の川のイメージとは大幅に乖離している空間の中を流されていく。


 睡眠欲を想起させる意識の衰退が始まる。

 その支配には抗えず、ただただ身を委ねるしかなかった。


 私はエリゼの歩む人生の観測者。

 彼女を介して世界を眺めてきた。


 これまで、色々なことがあったな。


 思い出せるほとんどが辛い出来事なのは驚きですけど、最後の最後に特大の幸せを誇る舞台が観られて本当に良かった。


 エリゼが報われて……とても嬉しかった……。



「待って!」



 重さを無視して浮遊しているこの感じ、まるで海に漂っているみたい。


 このまま何処か彼方へ流されて、気付いた時には死んでいる。


 もし生まれ変わるなら、私は何を望むのでしょうか。



「お願いだから止まって!!」



 馬鹿なことを抜かす輩が後ろから追いかけてきている気がする。

 別に私の意思で流されている訳ではないというのに。


 そして、瀬戸際で聞こえるその声は聞き馴染みのあるものだった。


 きっと幻聴だろう。

 ここは死の境界線、立ち入れるのは命を終えた者ぐらい。


 ああ……死にかけている者も足を踏み入れる資格はあるか……。



「何これっ、全然上手く走れないいい!!」



 ……煩い。


 ついさっきまで怨嗟と絶望の大河に呑まれていた者の声とは思えない。


 だから、幸せで溺死しそうな女が現世から追いかけてきているのはまやかしだろう。

 私の存在を認識できなかった彼女が今更押し掛けて来る義理もないし。



「待って、待ってってば!」


「待ちませんよ。呪いを押し付けてくる阿呆のことなんか」



 振り返らずに情の感じられない言葉を投げておいた。


 ただ……悪態をつきつつも、質量の無い私の心は温かくなり始めている。


 ムカつく……喜んでいる自分がムカつく……。



「ありがとう! わたしを生かしてくれて、生かそうとしてくれて!」



 浮かんでいた体を起こして透明な地面へと足を着けた。

 足裏に接している透明のこれを地と呼んでいいのか分からないが、それ以外の言葉で形容できない。


 くるりと半回転すると、そこには息も絶え絶えなエリゼ・グランデが膝に手をついていた。


 何も無い世界を背にわたしエリゼが存在している。


 ありがとう、そんな言葉を伝える為にこんな場所までやってきたのか。

 一つ間違えれば死んでしまうかもしれないこんな場所へ。



「今更何の用ですか」


「遅くなってごめんね……あなたのこと……気付こうとしなくてごめんなさい……」



 エリゼが忘れたいと思っている記憶やシュガーテールが寄越す絶望を飲み込み、死を食い止めるだけの存在。

 それがエリゼハートを名乗る者の正体。


 そんな私に宿主が気付けてしまうなんて本末転倒にも程がある。


 私を認識できない、それは至極当然こと。

 だから謝る必要なんて無いのに。



「最悪、本当に最悪です。

 こんな昇天間際になって来られても困ります」



 もう、従順な私は残っていなかった。


 今まで思いもしなかった本音が我こそはと喉元へ集結している。

 代弁者ではない私の気持ちが溢れてくる。


 宿主に対してこんな言い草……許されるはずがないのに……。



「全部あなたのおかげだったんだね。

 えるにゃが壊された時も、みゅんみゅんが襲われた時も、アヤイロちゃんにクスリを打たれた時も……。

 いつもあなたが救ってくれていたんだね。

 ありがとう、わたしを助けてくれて」



 自我を持ってきちんと働けたのは、あの遺跡で起きた奇跡以降の二件だけですけど。


 それにしても、どこから覗いても最低な思い出ばかりだ。

 私との繋がりがそんなドロドロとした汚いモノだけなんて……ちょっと悲しいかもしれない。



「べ、別に当然のことをしたまでなんですけど。

 過剰に感謝されてももう何も返せませんよ」



 人知れず募っていた不平不満をぶち撒けたいのに、うまく喋れない。


 この人が相手だと頭の内側が沸騰してしまう。


 感情をたった一つしか選べない。


 ……これは酷なことをしてくれましたね、エリゼ。

 私はもう覚悟ができていたというのに、その誇りに砂を掛けないで頂きたい。



「ううん、返さないといけないのはわたしの方だよ。

 わたしの大切な人とわたしを救ってくれてありがとう」


「ミュエルは当然として、エリゼは私でもあるんですからそりゃ助けますよ。

 逆の立場ならあなたもそうしてるはずです。

 だから、本当に感謝する必要なんてないんですよ。

 それに……目が覚めた時にはこの会話のこと忘れてると思いますから」



 ここは死にゆく者の道。

 約束された一方通行を遡るのなら、ここで得たものを捨てて戻らねばいけない。


 だから、この邂逅は記憶に残らない。

 

 意味がないんですよ、この会話には。



「ごめんね……なんか、強がってるの全部わかっちゃうかも」


「……そりゃエリゼは私ですからね」


「だから、ほんとのこと言って。

 わたしも私を知りたい。

 記憶に残らなくても、事実は残るから」



 観測者がいなければ事実にもならない。

 そんなことを口走りそうになったけどやめておいた。


 野暮だっていうのもあるし、エリゼはそれに気付いているだろうから。

 だって、私はわたしエリゼですし。



 でも……そう言ってくれるなら……少しだけ望んでも良いのかな……。

 始まることのなかった夢の続きを……この刹那に煌めかせたい……。



 ううん、その前に、私からも謝っておかないといけないことがある。


 この一週間……いや、もう少し前から私は役目を全うできなくなっていた。

 際限無く産まれ落ちる絶望の種を抑えきれなくなっていた。


 だからエリゼは、深い絶望に身を堕とす羽目になってしまった。


 ほとんどアヤイロ・エレジーショートの責任ですけど、私もかなり負い目を感じている。


 エリゼの望みに応えられなかった。

 そんな弱さが私を包み込んでいる。



「ごめんなさい、エリゼ。

 最後の方は殆ど何もしてあげられませんでした。

 『シュガーテール』の代償を抑え込むはずの私が、負の感情に耐えきれなくなっちゃって……」


「それって、わたしが落ちこんじゃったからだよね……」



 小さく頷く。


 彼女は私の鏡のような存在。

 隠し事をしても意味が無いのはもう理解している。


 どうせ記憶に残らないのなら、気を配る必要もないか。



「そうですねー、エリゼがどこまでもポジティブ太陽女だったら私も苦労せずに済んだんですけどねー」


「うぅ、ごめんなさい……」


「冗談ですよ。かなり酷い目に遭ったんですから、落ち込んで当然です」



 世界で最も再開したくなかった女に弄ばれて、世界で最も愛していた女は逃げ出してしまった。

 そんな仕打ちを受けて落ち込まない女はいないでしょう。


 だから、これからはたくさん笑ってたくさん幸せになってください。

 逃げ出した女はもうエリゼを手放さないから。



「絶望も奇跡の代償も、全部私が持っていきます。

 だけど、傷付いた心だけはどうにもできません。

 もっと時間があれば私がなんとかしてあげたんですけどね。

 そういうのはミュエルやお友達にお任せします」



 エリゼは俯き、辛気臭く悲しそうに私を見上げる。



「もう……無理なんだね……」


「はい、無理ですね」



 無理という単語が何を指しているのかなんて考えるまでもない。


 私の魂は既に死が確定している。

 これはもうどうやっても覆らない最後通告。


 命と引き換えに呪いを解いてあげるんですから、悲壮感有り余る面を見せないでほしい。

 満面の笑みで拳を上げられてもそれはそれで困りますけど。


 とにかく、悲しい別れだけは嫌だ。



「名前……教えてよ。本当の名前」


「え、名前ですか?

 えー……なまえぇ?

 一応種族としてはイツキってあやかしなんですけど、私自身の名前はないんです」



 エリゼハートなんてふざけた名前を自称していたけど、それは偽りの名前。


 私は無から発生した泡沫の存在。

 

 親もいなければ保護者もいない。

 偶々召喚されただけの魔族に過ぎない。


 そんな私に名前なんてあるはずもなく。


 ……うん、そうですね。

 だったら私は願おう。


 最初で最後の贈り物を。



「だからエリゼ、私に名前をください」


「え、えぇ!? そんな急に言われても」


「急に言い出したのはエリゼの方ですよ。

 だからお願いします、私に名前をください」


「うん、分かった。まかせて」



 そう言うと、エリゼは眉を顰めて口を手で覆う。


 私の体を隈なく観察しながらぶつぶつ何かを呟いている。


 エリゼが私を想ってくれている。

 それだけで胸の内は幸せだった。


 残された時間はもう長くない。


 短い時間の間で、あなたはどれだけの幸せをくれるのだろうか。


 なんて事を考えていると、エリゼがぱぁっと笑顔になり私の顔を見上げた。



「決めた!」


「食べ物の名前とかはやめてくださいよ」


「流石にそんなことはしないよ!

 けど、気に入ってもらえるかは賭けかな」



 一か八かの名前なんて、不安マシマシなんですけど。



「じゃあ、発表するね」


「お願いします」



 大気の存在しない曖昧な世界で少女は緩やかに息を吸う。


 胸を撫で下ろして軽く顔を横に振ると、その可愛らしい口を開けた。



「エリゼ……っていうのはどうかな?

 あなたはわたしだから、これが一番似合うかなって」



 あぁ、これは……なんて言えば良いんだろう……。


 嬉しいという言葉には収まらない多幸感が星となって降り注いでいる。

 流れ星が体内を駆け巡って宇宙を何度も誕生させている。


 簡単な言葉で言うならば……。



「すっごく嬉しいです!!」



 危うく浄化されるぐらいには。



「ふふっ、喜んでくれて良かった」


「名前、魂に刻んでずっと抱えていきますね。

 ふふっ、もうすっごくすっごく嬉しいです!」


「……ねぇエリゼ、ほんとにありがとう。大好きだよ」


「はぅっ、ふ、不意打ちはずるいですよ……」


「エリゼ、ほんとのこと教えて」



 駄目だ、もう我慢できない。


 溢れ出す。

 感情が無限に溢れ出している。


 端的に言うと、私はエリゼに恋をしていた。


 分裂した心の代弁者としての私ではなく、宿った魂である私はエリゼを愛してしまった。


 ずっと近くに居たからか自ずと惹かれていた。

 それに、エリゼは魔族の私ですら篭絡させてしまう程の魅力が備わっている。


 人助けを厭わない勇敢な精神と一途に夢を追うその姿勢。

 おまけに不憫な過去には庇護欲や母性が駆り立てられる。


 とにかく、私にはドンピシャな女だった。

 ま、何かとライバルになり得そうな人物は多かったんですけど。


 そして、惚れたと同時に実らないと理解してしまった。

 どれだけエリゼを救っても、彼女の瞳に映る女はミュエル・ドットハグラただ一人。


 私は残酷な悲恋を課せられていた。


 ……全部全部押し付けたくせに、私の願いは何一つ叶えてくれなかったな。


 でも、今手を伸ばせば少しだけ私の為に時間を費やしてくれるかもしれない。


 震える唇を動かして声を出す。


 好きな女に手を伸ばす勇気だけは、エリゼから譲り受けた数少ない特徴の一つなんですよ。



「だっ……だ、大好きなエリゼともっとお話ししていたい。

 買い物もしたかったし、一緒にお風呂も入りたかったです。

 食事もしたかったですね。

 好きな食べ物も嫌いな食べ物も全く同じだから、きっと楽しかったですよ。

 エリゼに似合いそうな服もずっと考えてました。

 今度、アゲハアガペーに出向いたら教えてあげますね。

 それで……海とかも行きたい……。

 星空が宿る夜の海に揺蕩い……手を結んでいたい……のに……」


「エリゼ、おいで」



 少女は両手を大きく広げる。


 私は願望を続々と口にしながらその胸に飛び込んでいた。


 温かい……。


 ……。



「なんで、なんで……。

 あんなに一緒にいたのに、ずっとエリゼを側で見守ってきたのに。

 なんで私は夢を語る事だけしか許されないんでしょうか……」


「ごめんね、わたしが不甲斐ないせいで」


「気にしないでエリゼ。

 これはきっと呪いの後遺症です。

 あ、そうだ……シュガーテールのことは大切にしてあげてください。

 あれは私と同じぐらいに健気ですから」



 私を受け入れてくれた腕に力が入る。


 見上げると、優しく微笑むエリゼがいた。

 抱きしめられた私は少女の胸に顔を埋める。


 かっこいい感じで通そうと思ってたたんですけどね……。



「全部曝け出して良いんだよ。甘えてもいいんだからね」


「うっ、ああ、うぅあ、ああああああぁぁああ、エリゼ、とっても幸せです。

 本当はもっともっと一緒にいたい。

 こんなとこで死にたくない……死にたくないよ……。

 もっと遊びたかった、エリゼと遊びたかった。

 でも、私に与えられた使命はこれだから……だから……もう少しだけ頑張れる。

 ごめんなさい、わがまま言って。

 困らせるつもりなんてなかったのに」


「全然わがままなんかじゃないよ」



 小さな手が私の頭に触れると、わしゃわしゃと撫で始める。


 何か、大事な尊厳が破壊された気がする。

 それで私の中に眠る猫のような部分が高揚し始めていた。



「エリゼが……エリゼが悪いんですよっ!

 こんな危ない場所まで来ちゃ駄目じゃないですか!!

 死んじゃうかもなんですよ!!」



 支離滅裂な事を口走っている気がする。

 もはや脊髄の反射で感情を喘いでいる。


 もう、どうなってもいい。

 どうせ記憶に残らないのなら暴れてみよう。



「だって、あなたエリゼはわたしを生かしてくれるんでしょ。

 だから安心して追いかけられたんだよ」


「うっ、うううううううう!!

 す、好きっ!! 永遠に好き! めっちゃ好き!! 全部好きです!!

 エリゼ大好き!!」


「て、照れるなぁ。でも、ごめ」


「あああああああ!!

 答えは聞いてませんから!!

 勝手に振ろうとしないで!!

 この阿保がっ!!」


「流石はわたしの半身。

 嫌なことから逃げたくなるのは一緒だね」


「うっ……嬉しくないかも……。

 ……変ですよね、私がわたしエリゼを好きになるなんて」


「誰かを本気で好きになること自体が変なんだよ。

 だから安心して、わたしもあなたもエリゼは二人揃って変人だから」


「素敵な考え方ですね。ありがとう、エリゼ」



 回答不要の告白を済ませた私は少しの間ハグという行為を楽しんだ。


 抱きしめられて撫でられるなんて初めてのことだったけど、とても心地が良かったな。


 最後の最後にとんだサプライズでした。

 これで満足ということにしておきましょう。


 幸福を堪能した私はエリゼの体から離れる。


 名残惜しさを殺して未だに見慣れない少女の顔を見つめた。



「エリゼ、あなたがいない間ミュエルがメイド業をこなせていたか聞いてあげてください。

 もし駄メイドに戻っていたのなら、家事力は願望器が授けたものと断言していいでしょう。

 だけど、そうじゃないとしたらどうですか?

 しっかりメイドをやれていたのなら、それはもうエリゼ自身がミュエルの運命を変えたと断言できるのでは?」



 この空間での会話は記憶に残らない。

 それを知りながらも私は伝えられずにはいれなかった。



「え、それって」


「ふふ、らしくないことをしましたね。

 恋敵に花を持たす真似をするとは」



 驚き嬉々を表す少女から離れる。


 二人の隙間はもう埋まらない。

 私はこれから何処か彼方へ消えゆく運命。



「じゃあ、またどこかで会いましょう。

 さようなら、わたしエリゼ

 冬の向こう側で希望は待っています。

 狂い咲いて桜の吹雪を世界の果てまで運びましょう。

 さようならエリゼ・グランデ、私が愛した人……ばいばい」


「ばいばい、エリゼ」



 小さく手を振ると、エリゼは大きく振り返してくれた。


 やっぱりわたしエリゼには笑顔が似合いますね。


 彼女に背を向けて私は歩き出す。

 終わるまでは、この足で歩いて行こう。


 振り返らず進み続ける。


 きっと、この対話は彼女の日記に綴られることはない。

 そんな曖昧な世界での出来事。


 もしかすると死の間際に見た幻かもしれない。

 でも、それはそれで良いかな。


 白い世界を歩く。

 時には走ってみたり、跳んでみたり。


 春、夏、秋。

 これまで見てきた思い出を振り返りながら歩く。


 もう少し先まで見たかったな。

 ミュエル、エリゼを幸せにしてあげてくださいね。


 ……。



 ああ、なんだか眠いな。


 ぐっすり眠って……来世に備えよう……。



 ……。



 ……。



 ……。



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