第102話 わたしは今、どこを向いているの

 エリゼ視点



 夢と現実が一瞬にして移り変わり、強引に目は覚めた。

 夢が鮮明すぎたためか、疲れが全く取れていない。


 息遣いが乱れて胸が上下している。


 窓を隠す布。

 白いカーテンに透ける空は、まだ色づいていなかった。


 冷たい。

 鳥肌が立つような肌寒さが襲う。


 布団を少し持ち上げて自分の体を覗くと、湿っているような空気が流れ出た。


 最悪だ。

 服がびしょびしょになるぐらい、尋常じゃないほどの汗をかいている。


 臭くはないよね……。


 念の為布団の中の匂いを嗅いだ。


 みゅんみゅんの匂いがした。


 ……。


 悪夢だった。


 ううん、目にしたのは夢じゃない。

 わたしが辿ってきた現実だ。


 忘れようと、必死に蓋を閉めてきた記憶。


 記憶の上映を見ていると、当時の感情まで思い出してしまった。


 苦しさも、憎しみも、怒りも、諦めも、全部思い出した。


 心が擦り減っていく感覚。


 一瞬にして塗り替えられる思考の向き。


 自分が自分じゃなくっていく恐怖。


 体は震えていた。

 あの日々の孤独と憎悪。


 それは弱いわたしが死を望んでしまう程のもの。


 でも、今とあの時じゃ状況が違う。


 目の前には大きな体がある。


 わたしにはメイドがいる。


 みゅんみゅんが側にいてくれる。


 だから、少しぐらい甘えても良いよね。



「ごめんね……」



 隣で眠っているあなたの体を強く抱きしめた。


 ごめんね、みゅんみゅん。


 わたし、汚い人間だった。


 あなたの隣に立てるような良い人間じゃなかった。


 どうか起きないで。


 わたしを見ないで。


 嫌わないで。


 ……。


 わたしを包み込む感触があった。


 優しく、傷つけないように。

 綿を摘む力加減でそっと抱かれる。


 食いしばって堪えているのに、顔は濡れていく。



「うぅ……ぐずっ……」



 何も言わずに頭を撫でてくれた。


 安心と詫びが出てくる。

 わたしを受け入れてくれる人がいる安心と、汗と涙で濡れたわたしなんかを包んでくれてという申し訳なさ。


 そしてわたしは、再び眠りに落ちた。


 メイドの体温を感じながら、心の音を聞きながら。





 ☆





 次に目が覚めると、すっかり太陽が昇り始めている頃だった。

 白いカーテンは明るく光を透かしている。


 そして、わたしの頭は胸の中を潜っていた。


 ……まじか。


 でも、興奮より癒しの方が大きかった。

 あなたが離れていないことの嬉しさを感じていたから。


 とりあえず、記念に深呼吸をしておいた。


 肺の中をみゅんみゅんで満たす。


 永遠にこの時間が続けばいいのにな。


 なんとなく顔を上げると、目が合った。

 みゅんみゅんと。



「ご主人様……な、何をしてるんだ」


「ごごごごご、ごめん! く、癖で!!」


「癖……? 胸の間で息を吸うことが、癖……?」


「えっと癖っていうか、本能っていうか、出来心っていうか」



 咄嗟に口から出た言葉は最低なもので、それを包み隠そうとする言葉も最低なものだった。


 変に言い訳をするぐらいなら、正直に深呼吸をしたかったと答えればよかったな。



「別に構わない、ご主人様が喜んでくれるなら」


「え、じゃ、じゃあ……時々やらせてもらおうかな」



 何を言っているんだろうわたしは。


 でも、それを言えるのならまだわたしは腐っていないということだろう。

 あの悪夢を思い出してなおこんな呑気なことを言えるのは、わたしの心はまだ折れていないということなんだ。


 やぱり、わたしを癒してくれるのはあなただけ。


 カーテンを開けて日光を浴びる。

 眩しさから逃げようと目を細めて変顔になってしまっている自分達の顔を見合って笑った。


 窓を開け外気を取り込む。

 少し寒くなってきた秋の朝を肌で感じる。


 みゅんみゅんと一緒に起きると、そのまま下の階へ降りた。


 顔を洗って、歯を磨いて、寝癖を直して、朝ごはんを食べた。


 そして、わたしは普段着に、みゅんみゅんは給仕服に着替える。

 平穏な一日が始まる。


 屋敷中の掃除、植物の手入れ、洗濯物。

 みゅんみゅんが働いている姿を眺めながら、わたしは思考を巡らせていた。


 朝ごはんを食べている時、 アヤイロちゃん達と一緒に暮らしていた頃の話をしようか迷ったんだけど、わたしは伝えられなかった。


 ……見捨てられたくないから。


 わたしの汚点を知れば、みゅんみゅんはわたしを離れてしまうかもしれない。


 幻滅されるかもしれない。


 それが怖い。


 わたしからみゅんみゅんが離れてしまうのが怖かった。


 そんな人じゃないって知っているはずなのに、どこかで彼女を疑っている自分が心底気持ち悪い。


 ……でも、本当にみゅんみゅんはわたしの側で居てくれるのかな。


 知らない誰かのメイドになっちゃわないかな。


 ……。


 マイナスに考えるのはやめよう。

 明るいことを考えて、明るい未来を描こう。


 太陽が空の頂点付近に達した昼頃。

 みゅんみゅんは昼ご飯の料理を始めていた。


 お鍋でスープを作りながら、フライパンで何かを炒めている。


 出会った頃は卵すら割れなかったのに、すごく成長してるな。

 もうとっくの昔にわたしは越されているのかも。


 こうやって、どんどんわたしの先に行っちゃうんだろうな。

 成長している姿を見せてくれるのは嬉しいけど、遠くに行っちゃうようで少しだけ寂しい。


 人は変わっていく。

 だからそういうものなんだと理解している。


 みゅんみゅんが遠くに行ったように感じるのなら、わたしが追いつけばいいんだ。


 そういえば、最後に買い出しに行ったのって一週間ぐらい前だったような気がする。



「食材ってまだあったっけ?」


「……そろそろ切れるはず。

 昼食を済ましたら出かけてこよう。

 私が買ってくるから、ご主人様は家で待っていてくれ」



 それは、気遣いと心配による提案だった。


 いつもは二人で出かけていてそれが普通なのに、昨日のことを懸念しているみゅんみゅんはわたしを傷付けないようにと考慮してくれている。


 うれしいな。

 でも。



「わたしも一緒に行きたいな」



 離れたくない。


 単純にそう思った。


 それに、わたし達は一緒にいないといけない。

 あの時も、あの時も、離れ離れになって悲しいことが起きてしまったから。


 そんなの偶然だって分かってる。

 それでも離れちゃいけない気がする。



「けど、またあいつらと顔を合わせることになるかもしれない」


「心配してくれてありがとう。

 でも……嫌なんだ。

 このまま怯え続けるだけの生活は嫌だから。

 二人で過ごせる場所が少なくなるのは嫌だから」



 あの人達の思い通りにはなりたくなるのは、嫌だから。


 嫌だから嫌だからと否定的な言葉を選んでしまったけど、とにかくわたしは進みたいんだ。


 わたしの夢は止まっちゃったけど、しないといけないことはたくさんある。


 忘れていた記憶、逃げてきた過去。

 それに向き合って責任を果たさないと。


 でもこれじゃあ、前向きなのか後ろ向きなのか全然分からないや。


 でも、これ以上落ち込んではいられないのは確か。

 わたしは元気な姿をあなたに見ていて欲しいから。


 迷惑ばっかり掛けていられない。


 みゅんみゅんには笑顔でいてもらいたいから。

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