投稿作
「――初めまして。
地獄に落ちろ――。そう強く思った結果、どうやら地獄に落ちたのは私の方だった。
◆◆◆
どこの世界でも二股はある。いや、二股なんて可愛らしい呼び方はよそう。弄びなのだから。なにが言いたいのかというとですね、私は遊ばれていたのですよ。
付き合っていたのは同じ大学で同じ学部の男。ついでに言えば、年も同じ。思い出したくもない元彼氏。あー、いや、うわべだけ彼氏? やあやあ、呼び方なんてどうでもいい! と、に、か、く! 私は遊ばれていた。
それが解ったのはクリスマスイブ。忘れもしないクリスマスイブ。最悪なクリスマスイブ。
意気込んで待ち合わせ三十分前に着いたのが悪かったのか、私は見つけてしまったのだ。恋人たちの聖地たるクリスマスツリーの前にいる仲睦まじいふたりの姿を。
男はアレで、女はかわいいと有名なあの子。一瞬で解った。ああ、そうなのかと。私は必要のない人間なのかと。
友人経由でのちほど解ったことだが、男はそれが高く、ほかの女に手を出すことで発散していた人であったのだ。知っていたのなら教えてほしかった。そう言って返ってきた言葉は、「恋は盲目。以上」である。確かに真理だ。恋に夢中になっているときほど、他人の言葉など聞きやしないね。本当にすみません。
ひっそりとその場を去ったクリスマスイブの日、待ちぼうけでメッセージアプリから連絡をしてきた男に対し、私は「本命がいたんだ」と返した。男のメッセージは「なら終わりな。楽しめたんだからよかっただろ?」である。
地獄に落ちろやくそ野郎! と思わずにいられなかった私の気持ちが解っていただけただろうか。
それからはくそ野郎を忘れるために過ごしていたわけですが、ひょんなことから地獄に落ちたのは私でしたわー。魔法陣っぽいのに包まれたのならば、異世界召喚だと思うでしょう? いや、地獄も異世界といえば異世界でしょうがね。あはははは。なんだかもうよく解らなくて、テンションを上げるしかない。ウェーイ! ウェーイ!! ってか。あは。あはははは。
そんな心中を知る由もない穏やかな声音で「閻魔羅闍」と名乗った男は、続けざまに「あなたの名前はなんと仰るのでしょうか?」と問うてきた。「はは、なんだこれ」と、呟きにも似た乾いた笑いを上げるしかない姿を特段不審がることもなく、ぺたりと地面に座る格好となっていた私と視線を合わせるためか腰を屈めている。がしかし、残る身長差のお蔭か、上目遣いでしか対処できない。
うんうん、赤色の道衣に似た服装がよく似合っていますね。目に痛くなるような真っ赤ではなく、落ち着いた赤色。明度と彩度を落としている渋い赤というのかな、こういうのは。
男の後ろにいる数人の男たちは護衛かなにかであろう。手には槍が握られているしね。着ている服は男と同じようなものだが、色が違う。紺色だ。やはり身分の違いという明確な差がこの世界にもあるのだろう。などといろいろ考えているうちになんとか冷静さを取り戻したが、辺りを見渡すのにはぎこちなさが残る。いきなりの展開だし、そうなるのは私だけではないはずだ。ないはずだよね……? 少々不安になりながらも、ああ、なるほどと、納得するのは早かった。これもサブカルチャーに揉まれまくったお蔭だろう。ありがとうございます!
目に映ったものは、町のなかというような風景だ。地獄なのに長閑という言葉が似合うような、そんな町。そして――竜宮城のような王宮も近かった。朱色が輝く中華然とした王宮。つまり、地獄は中華風異世界だったわけですね。解ります。いや、やっぱりさっぱり解りませんね!
「あの、聞いていますか?」
「オーケーオーケー、大丈夫です。現実逃避中ですから!」
「聞いていませんよね、それは」
真顔で返ってきた言葉、すなわち、イケメンボイスでさらに冷静さを重ねられたようで、男、いや、閻魔羅闍様――うん、長いから閻魔様と呼ぼう。「さん」ではなく「様」なのは、おそらくはお偉いさんだからである――を観察する余裕が生まれる。男の言うことを鵜呑みにするのならば、閻魔様は地獄の長であるからして、下手な真似などできやしない。それでも眼福な美形だ。そしてイケメンボイスな長身痩躯。印象はそんなところか。
短い黒髪はさらさらとした質感を持っており、触り心地がよさげだと思った。私の茶髪とは大違いなわけである。天然物ではあるのだが、手入れは手を抜いているのでさらさらではない。私は髪を命にはしていないので、髪を拭いたあとにコンディショナーを使うなんて面倒くさいとしか思えないのだ。世の中のしっかり女子は、自分自身にしっかり時間をかけているのだよ、男子諸君。おっと、私の話はどうでもいいのか。
話を戻して――目の色は赤だが、忌避はない。それどころか、綺麗で困る。血のような赤ではなく、濃い赤紫色。赤ワインのような色だ。ワインレッドだっけ? 端正な顔も相まって、宝石のようだなあという感想しか浮かばない。閻魔様はまるでひとつの細工のようだ。人間離れをしている、とても美しい人。
ああ、けれども――湧き上がるのは憎しみ。アイツではない違う人だというのに、一発ぶん殴りたい欲求が発生した。
「ああああー、殴りたいぃ!」
「ああ、あなたは騙されていたわけですからね。憎いのも解りますが、あの男と私は違う」
「解ります。解りますが、殴りたいです」
気がすまないから。なにを言っているのか自分でもよく解らなくなってきてしまったが、閻魔様は目を二回瞬くと、「解りました」と小さく頷いた。「そうですね。あまり痛いのは勘弁願いたいのですが、あなたがあの男の幻影を砕くというのなら、喜んで殴られましょうか」とはにかむのも忘れない。
「え、マゾな人ですか?」
「その解釈はやめてください。時間も惜しいので、早くしましょう。さあ、どうぞ」
ちょっと引きましたよと表すような私の言葉を尻目に、言い切って軽く目を閉じた閻魔様。周りは小さくどよめくが、主が決めたことに反対はしないようだ。忠誠心が高いのはいいことだね。
「――それでは失礼して」
ふんっ! と腹に一発。「ぐっ!?」と噎せるような声が頭上から降ってきましたが、私はすっきりしました。尊い犠牲は忘れません。
腹を撫でながらはあと短く息を吐いた閻魔様は、恨めしそうに呟いた。「……腹とはまた予想外ですよ……」と。
「綺麗な顔を殴りたくなかったんです。だからボディーにしました」
「そうですか。あなたが落ち着いたようならもうなんでもよいです。そろそろ名前を教えてくれませんか?」
「乙女雪子といいます。初対面で失礼でしょうが、あなたは本当に閻魔様なんでしょうか?」
「ええ、この世界を管理する者で間違いないですね。閻魔は管理職であるだけですので、「
「ああ、はい。解りました」
柔らかく笑うその顔を私はどこで見ただろう。そう思ったのはなぜだろうかと緩く首を傾げると、閻魔様――ではなく、常世さんは「あなたを喚んだ理由を話しましょう」と私の手を引いた。首を傾げたことを特に気にすることもなく。
◆◆◆
地獄に舞い降りた天使とも表すに
そんな私の疑問は難なく言葉に乗るが、常世さんの返事にすぐさま
そして――、元の世界に戻れると言われてしまえば、協力せざるを得ないだろう。よく出来た話と言われればそれまでであるが、私は嫌いではない。ちなみに、私が選ばれた理由が『暇そうだから』なのだけは解せませんわ。そんな理由で人を喚んだのですかと脱力しましたよ。暇そうなのは私だけではないと思いますが、イケメンに出逢えたのだから文句は心に留めておこう。
「解りました。私でよければ手伝います。その代わり、衣食住の保障をお願いします」
「ええ、それはもちろん。では雪子さん、改めてよろしくお願いいたしますね」
イケメンボイスで下の名前を呼ばないで。しかもさんづけ。ちょっとときめいてしまったではないですか! よし、イケボは危険だと頭に入れておこう。これ以上ときめかないように。私はまだ傷心であるのだから。くそ野郎のせいで!
思い出してぐぎぐぎ湧き上がった怒りは、「部屋を案内します」との声に弾けたのはよかった。一発殴るのはもうダメだからね。
与えられた部屋はベッドに本棚、センターテーブルといった少ない数の家具が置かれた簡素といっても差し支えないほどだったけれども、なぜだか安心する。住んでいたアパートに似た広さだからだろう。大学近くにある学生アパートはワンルームにキッチンが備わったいわゆる1Kと呼ばれるタイプで二棟あり、きちんと男女別れていましたよ。難なく借りることが出来たのは、運がよかったんだろうな。センターテーブルの下に焦げ茶色の絨毯、もとい、虎のような生き物の毛皮が敷かれていたのには驚きましたが、思ったよりもふわふわふさふさだったのでまあいいかとなりましたよねー。
ベッドの上でゴロンゴロン寝転がりながらこれからどうなるんだろうなと考えるが、なるようにしかならないかと結論を出した。不安がないのが大きかったのだろう。そう、なぜか不安がない。それに、どこか懐かしい感じがしたのだ。まあ、懐かしい感じは生で竜宮城もどきを見られたからだろうけれどもね。絵本の世界が広がっていたら、わあ懐かしい! となるよねえ? しかしまさか、地獄に絵本の世界が広がっているとは思わない。いやあ、不思議なこともあるね。
ひとり納得していればノックの音が聞こえてきた。起き上がって「開いてますよー」と答えると、すぐさまドアが開き、常世さんが顔を出す。おう、美しいですね。
「さっきぶりですね」
「ええ、困ったことがないかと思いまして」
「お忙しいなかありがとうございます。いまはまだ大丈夫ですね。この先は解りませんが」
地獄の仕来たりなど全く解らないのでと続けると、常世さんは「仕来たりなど、あってないようなものですよ。ここは魂を鎮めるべき場所ですから」と笑みを浮かべた。ついで、「私も手が離せないこともあるので、雪子さんのお世話をする者を選んできました」と、背後を振り返り、小さな子を隣に立たせる。立たせるというのか、浮かんでおりますね。妖精とおぼしき女の子が。あ、羽はないから精霊の方ですかね? 袖の広い薄青色の道衣がなんともかわいらしい。
「お初にお目にかかります。
「こちらこそよろしくお願いします。それと、私に様は似合わないので、様以外で好きに呼んでください」
「え、ですが……」
一度頭を下げた結さんに答えると、困惑顔をして常世さんを振り返る。第一声で思ったのは、アニメ声をしているなということだ。かわいらしい声。
肩を少し越した真っ直ぐの蒼色――黒ではなく蒼色で合っているよね? の髪もアニメっぽいんですが、深い青は黒色に引けを取らないようだ。目はやはり宝石のようにきらきらしている。ターコイズブルーと表すべきだろうか。髪も目も綺麗で羨ましいな。なんといっても、全体的にかわいらしい。
常世さんと結さんが話し合った結果を見るに、どうやら雪子さんを勝ち取れたらしい。いやー、よかったよかった。
「では改めまして、よろしくお願いします」
続けざまに「こちらこそ」と答えると、結さんは目尻を下げた。「――はい、姉様」という優しげな声とともに。
おや、どうやら妹が出来ましたよ。かわいい妹が。まさかの地獄でね!
一人っ子だからか下の子に憧れていた部分もあり、妹、妹とはしゃいでいる姿を常世さんは笑顔で見ていた。――気がする。
引き攣るような笑顔ではなく、なにか微笑ましいものを見るような笑顔だったことが救いでしたが、年甲斐もなくはしゃいですみません。本当に。
◆◆◆
地獄というからには有名なアレ――八大地獄で構成されているのかと思えば、そうではないらしい。そもそも、私が知る地獄とこの地獄は大違いなのだから、細かい違いがあっても気にする必要はないのかもしれない。
長く着ていると汚れるかもという考えから、着ていたものやトートバッグはお風呂に案内されたときに結さんに預けたので、私は皆さんと同じく道衣に身を包んでいる。色は淡いピンク。おしゃれ道衣というのかな? 結さんは常世さんに届けたと言っていたので、保管されていることだろう。ついでに、髪も結ってもらいました。高い位置でまとめたポニーテールです。私の髪は胸を隠すほどの長さはあるので。
夕食も大皿料理でありましたが、朝食も大皿料理でした。おばちゃ……ううんっ、違った失礼! お姉さんが立つ注文口で主食と一汁を注文して、好きなテーブルへ。人は疎らのようだが、おいしそうな料理の前には人がいる。自然の摂理のように。より詳しく言えば、主食はパンかご飯かパスタかを選べるし、一汁にもいろいろな種類がありましたよ。
広い食堂の長テーブルに並べられた大皿の数々にも圧巻されるしかない。作るのが大変だろうが、豪華絢爛だ。食べ放題に似てはいるのだが、取り分けて各自のテーブルに運ぶわけではないので、少しばかり違う。トングやレンゲやお玉などで小皿に取り分けて食べるスタイルは、どうやら
話を戻して、聞いたところによれば、やっぱり精霊だということなので、姿は自由自在に変えられるらしい。ならいつも大きな姿でいいんだけどという言葉には、「あくまで私は常世様と雪子さんを繋ぐためにいますので」という謙虚な言をいただいてしまった。これはおそらく、アレだ。神視点でふたりの世界を見守り隊の亜種のようなものだろう。壁になりたい的な。私には解るよ。私も好きな俳優さんやアイドルたちを見ているときには壁になりたい系だから。私のことなどお気になさらずというね。
「結さんは嫌いなものとかあるの?」
「そうですね、苦手なものはタッケーですね。少々固いので」
「おいしいけどなあ」
野菜炒めが盛られた大皿の端に選り分けられているタッケーならぬタケノコを取り、もりもり食べる私に結さんは苦笑を漏らした。確かに少々固いが、食べられないこともない固さだからかもりもりいけますよ。ときどきあるえぐみが抜けきっていないものにあたることもないしね。
好き嫌いせずに食べなさいなんて言いませんよ、私は。私にだって嫌いなものはあるし。アレとかソレとかコレとかね。
「雪子さんはよく食べますね」
「あ、常世さん。おはようございます」
お椀らしきものが乗る四角いトレーを手にした常世さんが隣に座るが、空いている席はいっぱいありますぜ、旦那と言いたい欲に駆られる。ほんの一瞬だけだが。わざわざ隣に座らなくてもいいのですよ、旦那。いやまあ、朝から美しい尊顔を拝められたことには感謝しますけれども。小皿に残るタケノコを咀嚼しながらのイケメン観察。味つけがいいから進む進む。あんかけなのがまたいいよね。
「今日からよろしくお願いしますね」
「はい。出来る限りのお手伝いをさせていただきますよ」
はいきたと答えると、常世さんはお椀――お茶漬けに口をつけ始めた。鯛茶漬けっぽい見た目だが、匂いは鮭茶漬け。ちょっと混乱するが、おいしそうに食べる常世さんを見るに味は確かなようだ。
「おいしいですか?」
「ええ、おいしいですよ。出汁がたまりませんね」
「よし、次はお茶漬けにいこう」
どんな味がするんだろうか。やっぱり鮭茶漬けなんだろうか。そう思いを馳せていれば、あっという間に終わりを告げた。おいしかったです。
朝食後はいよいよ《宝》探しである。まずは王宮を出るところからだ。お付きの人はおらずふたりきり。その上、なぜか手を繋いでいるという超絶謎仕様です。これ、繋ぐ必要はあるのですかね? と考えて、いや、あったわ! という結論に達する。迷えば終わりですよねと。
「案外手が冷たいんですね」
「よく言われます」
「……そうですか」
それはそれはおモテになっているんでしょうね。ほうほう。私も彼氏がほしいんですよねとちょっとイラっとしましたが、本当にちょっとだけですよ。そうですね、小指の爪の半分ぐらいですかね。まあ、すぐに消えましたが。いやだって、力を込めてぎゅっとされたのでね。ときめきの方が急上昇しましたよ。
――ではなくて! ええい、ときめいてばかりいるんじゃない! 聞きたいことは聞かないとね!
「お付きの人は連れてこなくてよかったんですか?」
「ええ、邪魔ですから」
「ばっさりしてますね!」
まさかのお邪魔虫発言をいただきました! まあ、本当の意味でのお邪魔虫というわけではなさそうだけれども。
堅牢な門を抜けた先に広がるのは、やっぱり長閑な風景。王宮の周りということは、城下町なのかな? 人々の喋り声とともに木々が風に靡き、鳥が歌う。空気も澄んでいておいしい気がする。
「地獄は執念や怨念が渦巻いたおどろおどろしいところだと思っていましたが、美しいですよね」
「ここはただの一角にすぎませんよ」
右隣から届く声に「そうなんですか? 恐ろしいのはちょっと無理なんですけれど」と投げかけていると、腕を引かれて一歩、いや、二、三歩踏み出していた。恐ろしいのはちょっと! 遠慮したいんですが! という心の叫びとは裏腹に、目の前が歪む。立ち眩みや世界が回るように感じる目眩に似たように、ぐんにょりと。
「あ……」
あれ? ここはどこだ?
辺りを見渡して解るが、広がるのは砂地。どこまでいっても砂地。いや、サボテンさんが等間隔にお目見えしているけれども、トゲのないサボテンである。つるつる。完全においしそうなメロンソーダかメロンゼリーだ。半透明な緑色をしているしね。
「砂漠ですよね、ここは」
「正しく言えば、砂漠ではなく砂丘ですね」
ううん? 砂丘ということは、普通の道もあるということですか? そうだとするのならば、慌てる必要もないのか。
と、いうわけで、もう一度ぐるりと辺りを見渡して深呼吸。うん、ここも空気がおいしい。新鮮だね。
「おいしそうなサボテンですよね」
「その感想は当たりですよ。食べられますから」
こぼしたひとことに返るのは、常世さんの笑み――楽しそうな微笑みだった。女殺しと名づけてもいいですかね? これはおモテになるのも当然ですわ。
殺られてたまるかと微笑みから視線を逸らし、サボテンに送る。ぷるぷるしていそうだなあと思いつつも、「食べられるのならば、ちょっとだけ食べてみたいです」と漏らすと、「行きましょうか」とすかさずエスコートされていく。女殺しは健在でしたか! 私は勝てません!
おぉうと、悔しさいっぱいになってしまったがそれそれで、繋いでいる右手の代わりに、左手の人差し指でサボテン――私の背丈とほぼ同じ大きさだった――に触れると、弾力が伝わってきた。さすが見た目がゼリーだけのことはある。「おぉ! ぷるぷるは裏切らないそうですね!」と興奮ぎみに言うなか、甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。メロン色なのにいちご臭なのがまた混乱を誘うが、地獄の生態系はこういうものなのだろう。ちぐはぐしていると解ってしまえば驚きはない。ああ、いや、やっぱり少々混乱するかもしれませんね。未知との遭遇なわけなので。
「切りますね」
「お願いします」
繋いでいた温もりが離れると、手のひらを上にしたように伸びる枝先――枝であっているのかは不明だが――の先端部を、どこからか出した短剣で少しばかりいただく。切り分けられた先、どちらからもじゅわりと液体が滲み、芳醇な匂いを辺りに撒き散らしていった。そう、いちごの匂いを。
「味はどうなんだろう?」
液体を振って落とし、どこかに短剣を戻したあとに「どうぞ」と差し出されたサボテンを「ありがとうございます」と受け取るが、変なベタつきは一切ない。やっぱり不思議なものだ。
いちごの匂いに誘われるようにサボテンを口に含むと――あら、びっくり、メロンの味がした。どうやら見た目と味が違わないものにあたったらしい。
「おいしいです!」
「お口に合っていてよかったです。ここには《宝》はないようなので、戻りましょうか」
あっさり言って踵を返そうとする常世さんの裾を「待ってください!」と引くと、「どうかしましたか?」と首を傾げる。イケメンは首を傾げてもイケメンなんだなあと感心するが、違う。いまは感心している場合ではない。
「厚かましいお願いなんですが、サボテンを持って帰るわけにはいきませんか? 結さんにも食べさせてあげたいんです」
「そういうことなら大丈夫ですよ。では、少し離れてください。ああ、三歩ほどで構いません」
快諾に気をよくして、言われるままに三歩ほど後退すると、常世さんはちょっといただいたサボテンに手のひらを向けた。かと思えば、淡いオレンジ色の光があふれていき、サボテンを包んでいく。そうして、瞬間的に姿が消えた。
ああ、そうですか。魔法もあるんですね。さすが異世界。いやいや、魔法と呼ばれているのかは解りませんが!
「魔法、ですよね?」
「ええ、仰るとおりに魔法です。食堂の厨房に送りましたから、食事に出てくるはずですよ」
「大変ありがたいんですが、いきなりサボテンを送り込まれる方にもなったほうがいいですよ?」
「慣れているので問題はありません。甘いものは人気ですから、すぐになくなるはずなのでもうひとつ送りましょう」
隣――といっても少々距離はあるが――に生えていたサボテンも送り込まれていく。ぷるりと揺れる姿がなんとなくかわいいなあと思った。しかし、普段からどれだけ送り込まれているのやら。いくら慣れているといっても、捌くのは捌くので大変そうである。
「あ!」
消えたサボテンの先に白い物体が見えた。長いミミを持つ小動物が。逃がさないぜと俊敏に近づくけれども、白い物体が逃げることもない。鼻をひくつかせるだけだ。
「うさぎがいる……!」
姿は子うさぎそのもの。小さくてかわいい。屈んで頭を撫でてやると、「ぴゅふぅん」と機嫌よさげに鳴いた。威嚇されないのならこっちのものですよね! とわしゃわしゃ撫でまくってやる。ふわふわ! ふっわふわ!
「満足しましたか?」
「はい。放置してすみませんでした」
ひとしきり撫でてから「ありがとうね」と解放すると、うさぎは「ぴゅっ」と短く鳴いてから、手の甲に鼻を押しつけてきた。常世さんの通訳を聞くに、どうやら「どういたしまして」と言っているらしい。礼儀正しいうさぎもいたものだ。さらばだ! と言うように元気よく走り出すうさぎを見送ると、常世さんの手が頭に伸びる。なぜか。
「私の頭は触り心地がよくないですよ?」
「良い悪いの話ではないですよ。ちょうどよい位置にあったのですから」
「はあ、そうですか。まあ、不快感はないので、いいんですけどね。満足するまでどうぞご自由に」
あのうさぎはこの砂丘に生息しているのだとか、サボテンの名前はサッボーというのだとか、この世界は有から無を生み、無から有を生み出しているのだとか、頭を撫でられながらの言葉の数々に、ふむふむなるほどなるほどと頷くばかりだ。
聞けば聞くほど、やっぱり私の知る地獄の様相ではない。それでも、この雰囲気は嫌いじゃないなあと思う。不思議と。
「帰りましょうか」
「はい」
差し出された手に手を重ねると、常世さんは微笑んだ。なぜかとても嬉しげに。
うん、なんの心の準備もしていなかったからか、ただただときめいたよね!
◆◆◆
言われたとおりに、甘味ものの人気は世界どこでも共通のようでした。よもや瞬殺に近いなんて、誰が思うでしょうか。私と結さんの分は常世さん権限できちんとひとつづつ用意されていたのは嬉しかったです。結さんからもお礼を言われてしまったしね。「おいしいものは皆で食べるともっとおいしい」という考えに基づいた行動なので、お礼は必要ありませんが。瞬殺だけは恐ろしいんだけれども。
「常世さんは甘いものが苦手なんですか?」
「いえ、苦手ではないですよ」
「あ、違うんですか? サッボーのヨーグルトソース和えを食べていないので、てっきり苦手かと思いましたよ」
鯛茶漬けならぬ鮭茶漬け、でもなく――まさかの梅茶漬けをぺろりと食べ終えたあと、甘味にも舌鼓を打つ。サッボーを一口サイズに切って、茶色のヨーグルトと和えたもの。色に関しては少々引くような見た目ではあるが、匂いはおいしそうな香りだ。どんな味がするのかと、ドキドキしながら口に含んだのは数秒前か。口内に広がったのは、メロンヨーグルトの味でした。酸味がいい塩梅となっていて、木匙が止まることはない。
常世さんの返事にふむふむと頷くと、赤紫の瞳が愉快げに細められた。すごく色っぽいですね。やっぱりイケメンは強い。
「いまは食べている姿を見ている方が好きなので」
「へー、そうなんですか」
確かに、おいしそうに食べる姿を見るのは気持ちいいからなあと納得していると、左横から「……姉様……」と嘆息が聞こえてくる。うん? どうしたというのかね?
「結さんは私になにか言いたいことがあると?」
「あー、いえ、姉様はにぶ……、いえ、姉様のままだなあと思いまして」
「にぶがなにを表しているのかはさっぱり解らないけど、私は私だよ?」
それ以外のなにに見えるんですか、あはははと笑うと、結さんも「そうですね」と笑みをこぼす。「姉様は姉様なのだからかわいいんですよね」と続けて。
「いや、かわいいのは結さんですから!」
はい、ごちそうさま! と、勢いよくトレーに小皿を戻して、返却口へ逃走を図る。「結の言うことは的確ですね」と紡ぐ常世さんから逃げたかったから。イケボやめて。朝から顔が熱くなるから!
はてさて、朝のイケボ
一瞬で世界が変わるという移動手段はおかしい気もするが、ここは地獄という名の異世界なので、気にしてはならないのですよ。早く慣れなければなるまい。
いまは川沿いをまったり歩いています。「ここも違うようですね」と宣ったので。手を繋ぎながらだからか少々緊張するが、川の水は綺麗だし、小鳥だってゆったり飛んでいるし、なかなかにいいのかもしれない。
「あ、魚が跳ねました! いまの見ましたか?」
「ええ、見ましたよ。あれはあぜですね。雪子さんの世界でいうと、鮎ですか」
ほうほう、鮎がいるのか。なるほど。サボテンもあったし、うさぎもいたのだから、鮎がいてもなんの問題もあるまい。
「鮎なら食べられますねー」
「食べますか?」
「いいえ、遠慮しておきます。朝食をたっぷり食べてしまったので、入りませんからね」
道衣の上からぽふぽふとお腹を叩くと、常世さんは苦笑した。「本当においしそうに食べていましたよね」と。
「では、また来ましょうか」
「いいですね! 約束ですよ?」
ふふふと笑みをこぼした瞬間、目の前に映像が浮かぶ。なんの前触れもなく。楽しそうな顔をする常世さんの姿が。
「――雪子さん?」
「あっ、はいっ!」
なんなんだろうかと考えていると、常世さんの声が耳に届いた。没頭はダメだろう。失礼だ。右隣に――川の方を歩く常世さんに視線を遣ると、柔らかな笑みをこぼす。
「どうかしましたか?」
「いえ、すみません。川が綺麗なので、見とれていました」
「そうですか。ですが、やはり外ですので長居は禁物です。冷えてはいけませんからね。もう少ししたら帰りましょう」
「はい」
とっさの言いわけを疑う素振りがない常世さんは、案外優しい人なのかもしれないなあ。
せせらぎの音を耳にしながら、私は今日も頭を撫でられていた。身長差はこうして利用されるようですよ。
◆◆◆
三日目の《宝》探しは火山である。といっても、休火山らしい。ごろごろある岩や斜面に気をつけながら、火口付近まで登ります。まあ、火口からちょっと離れたところに転移したからか、移動に時間はかかっていませんが。あと、高山病もない。魔法便利。
「地獄名山ですか?」
「登山者は多いですが、この山は違いますね。名山はここより西にあります。もう少し高い山ですね」
「ここからの眺めもいいんですけどね」
登山の経験はないが、テレビなどで見る連なる山々の景色そのままだ。実に神々しい。
「ここに《宝》はありますか?」
「いいえ、気配はないですね」
「お、山小屋もあるみたいですね。行ってみましょうよ!」
否定するかのように頭を振る常世さんを視線で追えば、背後に山小屋が見えた。こぢんまりとした見た目だが、距離があるからだろう。腕を引いて近づくと、茶色い羽をした小鳥が出迎えてくれた。山小屋はしっかりした作りで、それなりの大きさがあるようだ。やっぱり距離があったから小さく見えたらしい。
ロッジの階段を上がりドアを開けるが、誰もいない。だが、埃臭くはないので、いまはたまたまいない時間なのかもしれない。
「誰もいませんね」
「ここまで登っていないだけでしょう」
「だといいですね」
静かにドアを閉めて、背後に立っているであろう常世さんを振り返る。「帰りましょうか」と。
目の前に広がったのは、常世さんの心配した顔。数秒だけだったし、なにをどう心配しているのかも解らないけれども、そんな顔をしてほしくないと思った。思ってしまった。
「そうですね、帰りましょう」
差し出した手に重なる手は――思いの外、熱さを持っているのに気がついてしまった。その手の大きさにも。
◆◆◆
四日目は森であった。鬱蒼と木々が茂る森のなかですよ。それでも日の光をたっぷり受けているようなので、陰鬱さなどは微塵もない。清々しさしかありません。
相も変わらず手を繋いでいるが、ここではそれが安心材料となっていた。森で迷ったら終わりだからね。
「いやあ、空気がおいしいですね!」
「森林浴に来る者もいますからね」
「動物はいますかね?」
「小動物は多いはずですよ」
「またうさぎに会えたら嬉しいですねー。最大限愛でるつもりですよ~」
私も全ては解りませんがと続ける常世さんに対して、企むようにふふふと答える。言ったとおり、ふわふわうさぎに会えたら、最大限愛でてやるんだぜ。そう決意を新たにして足を進ませる。びょびょびょ~んという甲高い鳥の鳴き声を聞きながら。気の抜けるような鳴き方だが、この森には必要なんだろう。
「とても歩きやすいですね」
「歩きやすくしていますから」
あ、それはありがとうございますと答えると同時に、にこりと笑った常世さんの髪が風に靡いていく。舞う色香が凄まじい。いや、元々色香のおばけだったんですが、髪が舞うだけでこうも違うのか。いやいや、風呂上がりも水が滴るいい男でしたけれども。《宝》探しの体力温存のために、大浴場から上がればすぐに寝てしまっていたから、あまり長く会話はしていませんでしたがね。それでも、傾くなかれと己を律しておりましたよ。はい。
おばけ怖いわあと心のなかで呟きつつ、柔らかな日差しに目を細めてぶらぶら歩く先、拓けた場所に出たようだ。草も花も咲き誇る、草原と花畑を一緒にしたという見た目。一面綿毛が舞っているのかと思ったが、よく見れば違うことが解った。その正体は、発光する球体だ。小さな小さな淡い光たち。黄、赤、緑、青、茶、黒、白といろんな色があり、風に揺られてあっちこっちにふよふよ浮かんでいる。とても幻想的だ。夜になればきっともっと美しくなるだろう。
「ここは……?」
「鎮めの森です。魂を鎮めるべき場所ですね。訪れた所全てに、このような場所はありますよ」
「地獄ですよね、ここ。鎮めるべき場所というよりは罪を償うべき場所ではないですかね?」
「あなたの知る地獄はそうでしょうが、ここは《地下獄園》――略して《地獄》ですから、また違いますね。魂が送られてくる世界はいくつもあるので、解りやすいようにひとつひとつ名をつけたようです。《地下》は最下層の意であり、《獄》は裁きの意、《園》は場所を表しています。つまり、ここは《最下層にあたる裁きを行うべき場所》ということです。ああ、裁きといっても、先ほど言ったように、魂を鎮めるだけですよ?」
「どんな感じに鎮めるんでしょうか? 目の前を見るに、風に乗ったり跳ねたり、好き勝手にふわふわ飛んでいるようなんですが……」
「そうですね。鎮めるというよりは、封じ込めていると言えるでしょうか。場所を確保して放り込んで終わりです。あとは長い長い年月をかけて有から無を作りあげていく。
「あー、まあ、それはそうですね。そこを考えると、こんがらがりますから」
ふむと空いた片手を顎に添えた常世さんが漏らした言葉は当然のことだ。世界がどのようにして出来たのかなんて、考えた出したらキリがないし。それにしても、鎮めるといっても結構大雑把なんですね。
「常世さんの役割は、魂の監視ですか?」
「ええ、その考えで間違いないです。あとはこの世界に生を受けた者を安寧に導くことですね」
「立派ですね。私なんて、二股野郎なんか地獄に落ちろと願うような女なんですよ」
「願うのもしかたのない状況だったと思いますよ」
まるでその場を見ていたような口振りだが、この人はなにを知っているのだろう。いや、魔法が存在する世界なのだから、別の世界を覗くのなんて容易い――のか? そう思った瞬間、目の前に現れた光景に目を丸める。どうしてだか、いま視界を埋めるのは常世さんのドアップだった。
なんだこれと固まる私にさらに顔が近づいてくる。右耳辺りに触れるか触れないかまで迫ってきたあと、『――残念ながら、
ああ、そうか、私は――。
「――私も、あなたが見た景色を見たい、です」
「そ、れは――」
常世さんは一度目を見張ると、これ以上ないといったような甘い顔をする。おそらくは理解したのだろう。私が記憶を取り戻したことを。「封印が弱くなっていたことは解っていました」とこぼされる言葉には、頷きを返す。そうなんですかと言いたげに。
――私はこの世界に生まれた精霊。無から生み出された有である。気づいたら砂丘に立っており、同じように生まれた精霊たち――仲間とともに風に乗ってあっちこっちに旅をした。旅といっても、空の上から町並みを眺めることが主であり、興味深いものがあれば町に降りては皆で散策をするという気ままなものだ。精霊だと訝しげな空気にならないのは、そういう世界だからとしか言えない。精霊だろうがなんだろうが、そこに在ればきちんと在るのだから。
どうやら結さんも仲間のひとりだったようで、姉様となついてくれていたらしい。なるほど、このときから私は姉様と呼ばれていたのですね。仲間たちや旅する精霊から自然と知識を手に入れることが出来たが、もちろん、元から備わっていたものもある。要は赤ちゃんと同じだろう。
ふらふら旅をするなかで、私は出逢ったのだ。綺麗な顔をした男に。――そう、常世さんに。
彼はひとり、王宮の屋上で町並みを眺めていた。夕日に染められる町並みを。佇まいがもう美しく、ああ、綺麗だなあと自然と心引かれたのだ。私は仲間たちより先に、一歩を踏み出した。驚かせないように慎重に。そう心に決めて、彼の左横に立つ。
『こんにちは』
一瞬沈黙が走るがしかし、『はい。こんにちは』と返ってきた笑みに胸が温かくなった。返事が遅れたのは驚いたからだと言われ、驚かせないようにと行動した私など無意味だった。けれども、彼はすぐに精霊だと理解したようだ。それもそのはずで、彼の張った結界を脅かさない存在は、無害なものだけに限るのだから。
精霊は純粋なので、無害にあたるらしい。私はそうであるのかは解らないけれども。だって私は、瞬間的に落ちてしまった。心引かれてしまった。閻魔羅闍という存在に。この世界を統べる者に。美しいその人に。
――その日から、私たちはたくさんの話をした。小さな姿でも大きな姿でも。お互い名乗りあった屋上で。常世さんの仕事の合間という短い時間だったけれども、私には睡眠も食事も必要ないことだからか、ずっと待つことが出来ましたね。恋する乙女は強いのですよ。いやね、正確にいえば、寝られるしおいしい食事の味も解るのだが、そういう時間も惜しかったんですよねえ。こればっかりは、自身が精霊でよかったと心から思わざるを得ない。もう少しだけつけ加えると、あの日も休憩のために屋上にいたようだ。誰もいない世界で、ひとりぼんやりしたいらしい。では、私は邪魔なんじゃないんだろうかと聞くと、『癒されるので問題はないですよ』と返ってきた。柔らかな笑みとともに。それとですね、私の行動はずっと仲間たちに見守られていたこと、そして、仲間たちが雇われていたことには目を丸めるしかなかった。『いつの間に雇ったんですか』との言葉には、『雇ったのはほんの最近ですよ。雪子さんと一緒にいたいと言っていたので』と言われてしまう。すぐさま、『なら、私も皆といたいので雇ってください』と懇願した。私だって、大切に想う気持ちは皆と変わらない。結果、ちゃんと雇われましたが、立場は変わりませんでした。屋上で待つのが勤めなんですよ、私の。
仕事が休みのときは、散歩にも行きました。迷わないようにと手を繋いで、いろんなところへと。小動物と戯れたり、魚を釣ったり、山登りをしたり、森林浴をしたりと楽しかったです。仕事の愚痴のひとつもこぼしていいはずなのに、全くこぼさないのはすごいですよね。聖人かと感心したのは私だけではないはずだ。
どうやら常世さんは現世も眺めることが出来るようで、この世界ではない世界を語る姿にもっともっと惹かれていってしまいましたよ。楽しそうに瞳を輝かせる姿は大変かわいらしかったからね。
だから私は――行きたいと思った。その瞳に映る世界を、この目で見たいと思った。強く強く。
『――私もあなたが見た景色を見たいです!』
『ゆ……、雪子さん?』
大きな姿のまま詰め寄ると、常世さんはなにがなんだか解らないといった顔になる。屋上にはふたりきり。誰の邪魔もなく話せるので、包み隠さずに全てを話した。同じ世界を共有したいのだということを。
詰め寄ったらばすぐさま口元を隠すように手を添えていた常世さんだが、『そういう顔をされるのは』だとか『女の子ひとりでは危ないでしょうし』だとかの言葉は聞こえてくる。あと一押しかもしれないと、私は私の出来る精一杯のことをした。
『私はあなたが大好きなんです。あなたの見る世界を、私にも見せてくれませんか?』
『……弱いものですね。私も』
苦笑する常世さんは私の背中に腕を回して強く抱きしめてきた。『ふぇあっ!?』と、今度は私が慌ててしまう。右の耳に顔を寄せられると、さらに心臓が忙しなくなる。
『輝く瞳で言われると、嫌だとしても断れませんよ。――残念ながら、
雪子さん。いつでもあなたを見守っていますよ。
私が最後に見たのは、言葉とは裏腹なとても心配そうな顔。ふわりと躯が浮いたかと思えば――私は【乙女雪子】となっていた。大学生の女の子に。この世界での一切を封じた代わりに、戸籍や家族、そして長い人生の記憶、そういったものを作り上げられて。
恋心とともに封じられていた記憶を取り戻したいまこそ解るが、大事な大事な
「――どうして記憶を封じたんですか?」
「簡単な話ですよ。あなたが混乱しないようにですね。喚び戻す際に緩んだようですが。断片的な記憶を見て、よく解らないといった反応をする姿はとてもかわいらしかったです」
「なにを言っているんですか! かわいくないですよ! 私はっ! あなた以外に惹かれてしまったんですよ!? 最低な女なんですよおおおおっ!」
大好きな人がいたのに、別な人に惹かれたなんて、嫌われてもしかたがないではないか。
嫌われたくない。けれども、嫌われてもしかたがないことをした。呆れられたかも解らない。いろいろな思いがぐるぐる巡ると、じわりと涙が浮かぶ。滲む視界の先にいる常世さんがなんの反応も示さないのが怖かった。怖すぎた。やっぱり嫌われてしまったんだろう。二股野郎と罵っても、私自身も二股をしていたのだから。しかもその上、解りやすい好意を無下にしていたとあれば、好感度はだだ下がりになるしかない。結さんは『あー、いえ、姉様はにぶ……、いえ、姉様のままだなあと思いまして』とやんわりと濁していたが、おそらくは鈍い人だと言いたかったんだろう。端から見れば、なぜ解らない!? と叫びたくなるほどだから。ああ、私はなんてダメなんだろう。なんて愚かなんだろう。
やるせなさにふたたび涙が浮かんだ先、「すみません。あまりにかわいくて見とれていました。泣かなくとも大丈夫ですよ」と背中を撫でられる。温もりに安心して、さらに涙があふれ出した。
「記憶を封じた上の行動に、悪いもなにもありません。強いて言うのならば――、悪いのは私の方ですよ」
あなたの幸せを願えなかったのですから――。
そっと涙を拭われたあと、そんな言葉とともにそのまま胸のなかへと収まってしまう。「あ、う、えっ……、と、常世さんっ!?」と慌てると、魔法が使われたようで、熱かった目元がすっきりする。
「申し訳ないのですが、あなたを送り出してから気がつきました。私は存外嫉妬深いのだとね。早く送らなければ離れ難くなると思い早急に送りましたが、あなたがあの男に笑いかける度に苦い思いをしましたよ」
「は、はい。すみません……」
「いいえ、謝る必要はないのですから、気にしないでください。そうですね。これからは私に笑いかけてほしい。あの男以上に」
「常世さんが許してくれるのならば」
嫉妬をしてくれていたのかと嬉しい気持ちになると同時に、思わず謝罪を口にすると、頭を撫でられた。そうしてふふふと楽しそうに笑う声が耳をくすぐる。くすぐったさに身を捩るが、言わなければならないことはちゃんと言えた。許してくれるのなら、許されるのならば、私はもう一度あなたに恋をしたいのだと――。
「おかしなことを言いますね。許すも許さないもありません。あなたを送り出したのは私です。全ての責は私にある。私がどんな感情を抱こうが、あなたが罪悪感を覚える必要はないのですよ」
「そうは言いましても、二股は消えない事実ですから」
「……解りました。あなたの気持ちもありますからね。無理に流せとは言いませんよ、もう。ですからここで区切り、話を変えましょう」
言うとおりに、なんだかんだで納得はしてくれたらしい。二股事件は私の最大の問題だが、いますぐにどうこう出来るはずもない。譲ってくれた優しさに嬉しさがあふれた瞬間、「――あなたを喚び戻した理由が解りますか?」と問われ、「うえっ!?」と変な声が出てしまう。いやだって、理由は聞きましたからね、ちゃんと。
「暇そうだから、ですよね? そう言っていましたし」
「いいえ、違います。あなたをほかの男に取られたくなかったからです。浅ましいぐらいに、私はあなたに溺れている。とても癒されると同時に、愛しいとも思っているんです。あなたが帰りたいと言い出さないために、とっさに《宝》探しを提案したほどに」
「え、まさか出任せだったんですか!?」
「そうですよ、出任せです。あなたとともにいたいがために作り上げた虚構ですよ。話に合わせるために、《宝》探しと称して、あなたと出かけた場所を巡りました。冷められるのは、あなたを騙していた私の方だと思いませんか?」
「騙していたなんてそんなことっ」
そんなことはない。それは胸を張って言える。端から見れば、確かに騙されていたと感じるかも解らないけれども、楽しかったからか騙されていたとは思わない。思えない。そもそも、それだけで私が常世さんに冷めるわけもないのに。
そんな言葉を伝えると、なんと額に唇を落としてくる。優しい手つきで前髪を掻き分けて。「ふぉおぉおっ!?」と驚くと、口端を緩めた。ふにゃりとした笑顔は格別のようだ。う、美しかわいいですね!
「――同じですよ。私も冷めません。私はあなたがどんなことをしようとも受け入れます。傍にいたいし、傍にいてほしい。この先もずっと」
「わ、私も傍にいたいです! ――あ、ですが、その……」
そうだと大事なことを思い出して言葉に詰まる。貞操はいただかれなかったが、ファーストキスとはおさらばをしている。あちこちに視線を遣っていても、伝えなければそれこそ冷められてしまうと覚悟を決め、恐る恐る視線を上げて口を開いた。「キ、キスは初めて、ではないです」と。
「ああ、はい。言われなくとも知っていますよ」
「すみません」
「あー、いえ、あの男とキスをしたことを知っているということではなくてですね……。なんと言えばよいのか……」
「はい……?」
頬を染める姿に対し、なにも思い当たることがないんですがと首を傾げると、常世さんは手で口元を押さえながら小さな声でモゴモゴ紡いだ。
あなたの唇を一番に奪ったのは私です。
わけが解らず目を瞬きながら、「それはどういう意味でしょうか?」と問う私に、常世さんは続けていく。
「日向でうとうとしているときが多かったですよね?」
「はい。気持ちよいなあと、つい」
「そういうことです」
「え、っと……、つまり、寝込みを襲った、ということですか?」
「その言い方はやめてください。ああ、いえ、やはり正しいのかもしれません。同意はなかったですからね」
「私は気がつきませんでしたが、何回ぐらいしましたか?」
「そうですね。三回ほどはして――……」
いましたと答える前に、はたと止まった常世さんは顔を真っ赤にさせる。「尋問めいたことはやめてください!」と声を上げながら。
「アイツとは二回です。常世さんの勝ちですよ!」
「勝負はしていませんが、誇らしいですね。もっと回数を増やしていきましょうか」
「お、お手柔らかにお願いします!」
喜ばしげにすっと目を細めつつの提案に、私は「ほわぁ!?」と声を荒らげる。いやだって、すぐさま唇が奪われましたよ! 言ったそばからするなんて、強引な人だ! いや、嫌ではないんですがね。ただ、そう、恥ずかしいだけであって!
熱くなった顔を胸板に押しつけ、恨めしそうに言葉に乗せる。「常世さんは案外激しい人なんですね」と。
「誤解を招くような言い方はやめてください。ですがそうですね、あなたを離す気がないからと添えておきます」
「私も、離す気はないと言っておきますよ。――大好きですから」
ね? と合わせた視線の先には、耳まで真っ赤に染まった顔があった。完全に蕩けきっている尊顔が。
あ、これは私の勝ちですかな? ――いやいや、やっぱり引き分けですよね。引き分け!
顔があっついです。ああ、それと、改めてよろしくお願いしますね?
大きな背中に腕を回して言うと、「こちらこそ末長くお願いします」と返される。私たちはこうして、ようやく想いを伝えることが出来たようだ。
草津よいとこならぬ地獄よいとこ一度はおいで。ただし、長たる常世さんは私の想い人なので、おいでになるのなら、覚悟を持ってお願いします。
(おわり)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます