計略を紐解く

 






 老若男女、煌びやかな衣装を身に纏った人々が品のある所作で食事を楽しむ場。

 華美過ぎず、けれども高価なのだろうと感じさせる威厳のある装飾の数々がフロアに飾り付けられ、テレビ越しにしか見たこと無いような豪華な食事が円形の机に所狭しと並べられていた会場。

 高価そうな礼服に身を包んだ、見るからに上流階級の人々が催すそんな会食。

 『警視庁警視総監就任祝い』と言う名目で行われている、関係者による祝賀会である。


 完全に場違いではあるのだが……そんなところに私は居た。

 それも、御丁寧にこんな場にいても恥ずかしくない正装をして、これまで一度もしたことの無かった化粧なんて言うものをその道のプロの人に施されて、主役の隣の位置に陣取る形で、だ。

 鏡で自分の姿を見た時は、馬子にも衣裳と言うことわざの意味を実感することになるなんて、と思ってしまった程の変身具合。

 妙な気恥ずかしさがあって、家族には絶対に見せたくない部類の姿である。


 あれは誰なんだろうと言う周りの視線に呑まれ、血の気を引いた頭で司会の話を聞き飛ばしていた私に心配そうな視線を向ける袖子さんとそのお父さん。


 どうしてこうなった……と思いたいが、実のところこれは私から願い出たことなのだ。

 こんな場所に来たくは無かった、と言うのが本心ではあるのだが……目的の為にしっかりしなければと、口紅が塗られた自分の唇を小さく噛んで前を見た。


 ここまで来てヘタレるなんてしてはいけない。

 ここでミスをしてしまえば、確実に私の日常は崩壊するのだから。

 そう、心の中で自戒する。





 ‐1‐





 会食が始まる少し前。

 私は自分の家の数倍はある、袖子さんの屋敷に来ていた。


 と言うのも、お父さんの昇任祝いの会食が行われるから一緒に行かないかと袖子さんに誘われ、最初こそ断っていたのだが、少し事情が変わり、急遽会食への参加をお願いすることとなったからだ。


 事情が事情だっただけに、何の用意も出来ぬまま。

 当然そんな気位の高いような祝賀会への参加なんてしたことが無い私は、服装なども全部袖子さんに手配してもらう形になってしまった。


 だからこそ、どうあってもこの挨拶は避けて通れない。



「初めまして、袖子から話はよく聞いているよ。いつも袖子がお世話になっているそうだね」



 初老に差し掛かろうとしている歳の、どこか優し気な空気を纏った男性がそう言って私に笑い掛ける。

 初めて会う娘の友達である私に、下手に緊張させないようにと言う配慮して、どこにでもいるようなおじさんと言う雰囲気を醸し出してくる。

 わざわざ家の前で出迎えてくれたことも、私からの急な申し出を了承してくれたことも、この人が他人に気を配れる立派な人だと言う証明に他ならない。

 今も男性の後ろで、「どうだ立派なお父さんだろっ」と言わんばかりに鼻を膨らませて胸を張っている袖子さんが、常日頃からファザコンを発揮するだけの相手だと言うことも充分に理解できる。


 だが。

 相対した相手の緊張を無意識的に解きほぐし、優しいだけの人だと誤認させる所作を弁え、そのくせ人の心を見通すような目をしたこの人物の本質は、当然それだけではない。


 ……目の前にいるこの人は、あの神楽坂さんや飛鳥さんが所属する、犯罪者を捕える組織の最上位の地位に就く人なのだ。

 ただ優しいだけの人である筈がない。



「……私こそ、袖子さんには日頃からお世話になっています。今回は私のこんな無理を聞いて頂き、感謝しています」



 娘を利用している人間か。

 なにかしら目的や裏があるのか。

 そして、今回なぜこんな祝賀会に参加したいと言って来たのか。


 そんな心の中の疑いを、一切表に出さないまま見透かそうとしてくる袖子さんのお父さんに対して、私は何一つ気取らせない『緊張する同級生』を完璧に演じ切る。

 そもそも、こういう腹の探り合いは私の独壇場なのだ。

 いかに経験豊富な人物が相手だろうとどれほどの役職を持つ者だろうと、私の“読心”が封じられない限り、一方的に悟られることなどある訳がない。


 異能の出力が感じられない事。

 “読心”が出来る事。

 それから、心を読んで気になるところが無い事。


 それらをしっかりと確認し、少なくとも悪人でも異能持ちでない事を確かめた。


 友達の親が敵にならなくて良かった、と本気で思う。

 流石に、どんな悪人だったとしても友達の親に手を加えるのは少しだけ心が痛むのだ。

 そう思いながら目を細めて袖子さんのお父さんを見れば、何かを察したのか彼は柔和な笑みを浮かべていた額に少しだけ汗を滲ませた。


 ……どうやら少しだけ嫌な予感を感じさせてしまったらしい。

 流石にかなり察しが良い。

 少しミスをした、気を付けないと。



「パパ、パパ! 聞いて! 燐ちゃん凄いんだよ!! 前に私が悪い奴らに痛めつけられてた時助け出してくれたの! 燐ちゃんがいなかったら私もっと酷い目に遭ってたんだから!」

「あ、ああ、そうなんだね。この子が…………あの時、直接感謝を伝えられてなくて申し訳ないね。改めて、娘を助けてくれて本当にありがとう」

「えっ……あ、いや、そんな別に……」



 僅かに生じた不穏な空気を察したわけでもないだろうに、袖子さんが割って入るように会話に参加して、それまでの腹の探り合いの様なお互いの様子が霧散する。

 こんな娘を助けてくれた友達に疑いの目を向けるなんて……と言う自己嫌悪をしている袖子さんのお父さんに釣られて、私も自分の行いを反省してしまう。

 袖子さんのお父さんは職業柄他人を疑うしかないのに、私は対悪人状態で会話をしてしまっていた。



「あ、あの、この度は警視庁警視総監への昇任おめでとうございます」

「あ……ありがとう。今日の祝賀会は何も難しい事を考えないで楽しんでもらえたらと思うよ。さ、装いを整えないとね。もう予約を取っているから、遠慮しないで」



 そんな風に、快く私を自身の昇任祝いの祝賀会へ参加させてくれた袖子さんのお父さん。

 心底嬉しそうにする袖子さんに手を引かれ、色々とおめかししたのが数時間前の事だ。


 そして、私が祝賀会の雰囲気に呑まれ、後悔し始めたのは会食が始まって直ぐだった。

 私は悪くない。そもそも対人に慣れてない人間が、大多数が参加するパーティーに参加すること自体無謀だったのだ。



(うえぇぇ、人の多さに酔って来た……。もう……早く目的を果たさないと…………あ、ご飯美味しい……)


「燐ちゃん、やっぱり少し身だしなみを整えるだけで別人みたいに綺麗になってるよ! ほら、皆がチラチラと燐ちゃんのこと見てるし! 常々お洒落させたいなーと思ってた私の目に狂いは無かったんだね!!」

「……いやぁ、それはどうですかね。私は自分の事、綺麗だとは思った事無いですし、どっちかって言うと私の素材でここまで見てくれを良くできるプロの技術に驚かされたって言う方が正しいんじゃないですかね」

「燐ちゃんは卑屈だなー」



 そんな風に呆れたように私を見る袖子さんに対し、逆に呆れた眼差しを返す。


 私だって別に自分の事を不細工だとは思っていない、可愛い燐香ちゃんなのだから当然だ。

 だが、それも一般的な基準から見た場合。

 甚だ遺憾ではあるのだが袖子さんと比べてしまえば私なんて月とスッポンだし、スタイルも、品のある所作も完全敗北を喫している。

 色々と残念な部分があるが、こんな完璧超人でありあらゆる才覚に恵まれた袖子さんを前に、自分に自信を持てるのは、相当のメンタル強者にしか出来ないだろう。


 ……まあ、私には異能があるし、別に全てで負けているとは思っていないし……。


 なんて、そんな言い訳をしておくことにする。



 次々にお祝いの挨拶に来る人達に対応する袖子さんのお父さんを間近に見ながら、私は会場を見渡して机の上にある食事に手を付ける。

 どうにも周囲を確認したが、あの液体化する思考の読めない異能持ちの姿は見当たらない。

 この会場にはアレに類する奴は存在しないようだ。


 想定していたのとは違う状況だが……まあ、やるべきことは変わらない。



「……衿嘉、その子顔色悪いけど大丈夫なのか? 袖子ちゃんのお友達なんだろ?」

「ああ、袖子がどうしても友達を連れて来たいと無理を言ったらしくてね。この子には色々迷惑を掛けているようだからね、せめて楽しんでもらいたいと思ってるんだ。……燐香さん、体調が悪かったら私に気を遣わず席を外していいからね」

「だ、大丈夫です……」



 そんな風に、袖子お父さん、山峰衿嘉(やまみね えりか)さんとその隣にいる、衿嘉さんの旧友らしい男性からの心配の声に、私は取り敢えず大丈夫だと返答しておく。

 見知らぬ人ばかりの場所に放り込まれたストレスがほとんどだろうが、恐らく、周囲を警戒して昔のように一気に多くの人の深い部分の“読心”を行ったことがこの体調不良に関係しているのだろう。


 それなら少し時間を掛ければ慣れる……はず。



「燐ちゃん大丈夫……?」

「だ、大丈夫大丈夫……なんならご飯美味しくて、そこまで気にもならない程度だから」

「そう? 来てよかった?」

「うん、楽しいよ」

「えへへ、良かったぁ」



 心底嬉しそうにふにゃふにゃと笑顔になった袖子さん。

 こんな笑顔を他のクラスメイト達の前で見せれば一気に友達も増えるだろうに、なぜだか私の前だけでしかこの顔をしない。

 本当に小回りの利かない娘だと思う。


 袖子さんも集まった人達に父親のお祝いの言葉を掛けられていて碌に食事に手を付けられていなかったから、私はあらかじめ取り分けておいた食事の乗った小皿を手に持たせた。

 折角こんなに美味しい食事があるのだ、手が付けられないなんてもったいない。

 私にお礼を言いながらようやく食事に手を付け始めた袖子さんに、私がおすすめを教えていれば、挨拶が一段落した衿嘉さんも友人との会話を楽しみ始める。



「それにしても、ここまで来るのは本当に長かったな。あれから随分時間が掛かってしまったが、ようやく自分が思ってきたことを口に出せるようになる。……何もかもお前のおかげだよ」

「……よせ。まだ何も成してないだろう。ようやくスタート地点に着いただけだ。これから、見て見ぬふりをするしかなかった不満の改革を進めていくんだろう? それともなんだ、お前はもうこれで満足なのか?」

「ああ悪い、そうだ。そうだったな。少し気分が舞い上がっていた。これからやっていかなきゃいけないことが一杯あるものな。まだスタート地点に立っただけか……全く、気が休まらないものだ」

「お前にはまだまだ働いてもらわなきゃならないんだ。休んでる暇なんて無いんだぞ?」

「まだ働かせるつもりだなんて、なんて奴だ」



 そんな風に、今も親し気に衿嘉さんと話している旧友の男性に私は視線を向ける。

 普段学校でご飯をリスのように頬張っている人物とは思えない程、ちまちまと食事をしていた袖子さんに私はこっそり問いかける。



「……あの人って、昔からの知り合い?」

「え、剣崎さん? そうだよ、私の小さな頃から家族ぐるみの付き合いで、息子さんはまだ小さいんだけど、一緒に仮面ライダーを見る仲で私も仲良いんだ。仕事上のパパの関係だと、パパの腹心の部下、みたいな位置かなぁ……カッコいいよね。私も将来燐ちゃんとあんな感じの関係になりたいなぁ……」

「ふぅん……」



 竹馬の友。

 唯一絶対に心を許せる相手。

 それが、袖子さんのお父さん、衿嘉さんにとっての剣崎さんなのだろう。


 二人がどんな関係で、どんな経験を経て来たのかは知らないが、それは決して軽いものでは無い筈だ。

 無条件で信頼し合える人はどれだけ偉くなっても、いや、偉くなったからこそ掛け替えのない、貴重で大切なものなのだろう。


 そんな信頼し合う2人が、これからの日本の警察のトップに立つ。

 お互いに支え合いながら、きっとお互いに叱咤激励し合う関係をこれからも維持しながら。

 なるほど、確かにそういう人達が上にいる組織は良い方向へ向かうように思える。


 ……尊敬するお父さんがそうであるように、袖子さんも、この人の事を心の底から信頼しているのだろう。



「ところで美弥さんと阿澄くんは連れてこなかったのか? 袖子も会いたがっていたのに……と言うか、友達を紹介したがってた、の方が正しいんだろうが……」

「ああ、ちょっと野暮用があってな。衿嘉、そろそろ壇上挨拶があるだろ。準備しなくていいのか?」

「おっと、そうだ。すまん助かった。燐香さん、それでは私は挨拶に行くが、気にせず楽しんでほしい」

「あ、はい。ありがとうございます」



 こんな風に、周囲に気を配りながらも衿嘉さんを抜け目なくサポートする男性、剣崎さん。


 この祝賀会の会場に来た時もそうだった。

 あらかじめ、主役となる衿嘉さんが挨拶するのに適した場所を確保して、周りに危険が無い事を確かめておいてくれていた。

 そうするのが当然とでも言うように、様々な面に目を光らせ衿嘉さんのサポートをするのが仕事でも当然だった人物なのだろう。

 目立たず、派手さも無く、黒子に徹し、それでいてやるべきことをきっちりと弁えたこの男性は、きっととても有能な人だ。


 そっと、私は剣崎さんの前の机に置かれた、蓋の付いた容器を視線だけで確認する。

 持病のため、剣崎さんが常に持ち歩いているらしいその容器に入った薬。

 それを持ち歩いている事を、剣崎さんを知る者なら誰も疑問に思う人なんていない、そんなもの。



「さてと、それじゃあ準備にでも」



 衿嘉さんがそう言って挨拶に行く前の準備として、それまで手に付けていなかったグラスを、唇を濡らすために一口だけ口にしようと手を伸ばしたところで。


 私は動いた。


 本当はどこかで止まってほしいと思っていた。

 出来る事ならどこかで思い留まって、犯行を止めてくれるんじゃないかとありもしない事を心のどこかで期待していた。

 そんなことを望んでしばらく静観していたが、残念ながらこれ以上待つことは無理だった。


 グラスを持った衿嘉さんの腕を、私は横合いから掴み止めた。



「?」



 掴み止められた手を驚いたように見た衿嘉さんは、手を辿るようにして私を見る。

 そして、そんな視線を意にも介さず、別の方向を見ている私の視線を辿って、その先にいる剣崎さんを見た。


 掴み止められた本人である衿嘉さん以上に驚愕した面持ちで、呼吸も忘れて私を見続ける旧友の姿を見たのだ。



「衿嘉さん、その飲み物間違えてますよ」



 私は言う。



「……どういうことだい?」

「それは剣崎さんのグラスです。剣崎さんが持参している薬を、その飲み物の中に入れるのを見ましたから間違いありません」



 嘘だ。

 そんなものは見てはいない。

 だが、事前に何かしらの薬を入れていたことは、私は『読心』で分かっていた。

 私達がこの会場に来るよりもずっと前の段階、事前に衿嘉さんの席を取っておいても不審に思われない立場を利用した計画的な犯行。


 彼らの関係を知る者からすると誰も疑わないだろう明確な殺意を持った行動だったが、私が見逃す事は無い。


 私は衿嘉さんのグラスを奪い取るようにして、何も言わない剣崎さんの前に置いた。



「どうぞお飲みください。剣崎さん」



 額に汗を滲ませた彼に対して、私は言う。

 そんなことを出来る筈が無いのを理解した上で、私は彼に、彼が用意したものを差し出す。



「燐ちゃん……? 何を言ってるの? いったい何が……」

「……燐香さん。君が言っているのはおかしい。彼の薬は飲み物に溶かすものではないから、薬を溶かす必要がないんだ」



 そこまで言って衿嘉さんは口を噤んだ。

 私の見間違い、それなら良いが、先ほど見た旧友の驚愕の表情に僅かな疑念が産まれた衿嘉さんは困惑の表情を剣崎さんへ向ける。


 古くからの家族ぐるみで親交のある友人で、仕事上誰よりも頼りにしてきた人間だ。

 疑いたくなんてない。


 だがもしも、娘の友人の見間違いでないとすると……。

 そんな葛藤に苛まれた目に、剣崎さんは青くなった唇を少しだけ震わせた。



「……君がなにを言っているのかさっぱりだ……こんな祝いの席でいきなりそんな、ありもしない妄想をこんな場で口にして……常識が無いのか? 最初見た時は随分と可愛らしい子だと思ったが、その行動は袖子ちゃんの友人とは思えない程、あまりに配慮に欠けていると言わざるを得ない」

「っっ……!!」

「良いよ袖子さん、何も言わないで」



 小さな頃からずっと親しい関係である剣崎さんと争いたくなんてないだろう、袖子さんが何か言おうかと躊躇したのを、私は言葉で制した。


 周囲を見回した。

 騒ぎに気が付き始めた人が僅かながら出始めている。

 これ以上注目を集めるのは、私も望むところではない。



「見間違いなら良いんです。袖子さんのお父様の大切なご友人だと言うのは少しの間見ているだけで分かりました。お互いを信頼し合っている関係なのでしょう。私だって、変なことを言いたくありません。ですが……小娘の無用な心配を解消するためのお願いです。この飲み物は交換させてください」



 糾弾を続けようとした剣崎さんに先んじて、私はそう提案をする。

 ここで言い合ったって学生の身でしかない私と、これまで数々の実績を残しているだろう剣崎さんでは信頼されるのがどちらかなんて目に見えている。


 であれば、むやみに争うことはない。

 どちらが正しいかの口論は、ここでは必要無いのだ。


 だって、剣崎さんの勝利条件は、私が手に持つこの飲み物を衿嘉さんに飲ませる以外にないのだから。

 それさえさせなければ、私の目的は達成される。


 ……私に対する周囲の評価が、祝いの場で変なことを言い出した頭のおかしな奴、と言う風になることに目をつぶれば、だが。



(……割に合わないなぁ……これ)



 見るからに焦りを浮かべた剣崎さんと視線を合わせながら、私は近くにいたスタッフを呼んで、衿嘉さんが飲もうとしていた飲み物を交換するようお願いした。

 近付いてきたスタッフは快く私のお願いに応じ、そのグラスを受け取った、のだが。


 予想外にも、剣崎さんはそれを慌てて制止した。



「ま、待ってくれ。そんな、ありもしないその子の妄想で飲み物を変えるなんて、そんな必要は……!」

「変えない必要も無いですよね? ああ、別に剣崎さんが飲まれるのでしたら交換する必要はないと私も思いますけど」

「君は黙ってろっ!」



 明らかにおかしな言動になり始めた剣崎さんに、衿嘉さんと袖子さんが目を剥いた。

 慌てて言い訳しようとして、それでも何の言葉も出てこなかった剣崎さんは引き攣った笑みを浮かべる。


 剣崎さんはそのままスタッフの人に問いかける。



「そ、そうだろ? 君もそう思うだろ? 別にそれを変える必要なんて……」

「は、はぁ……何を気にされているのかは分かりませんが、別に飲み物を変える程度手間ではありませんよ? 何か気になる点がございましたら、交換することを嫌とは言いません」

「だ、だが……」



 スタッフの困惑混じりの解答に、言葉に窮した剣崎さんは青い顔で周囲を見渡した。

 それから、何かに怯えるようにガタガタと体を震わせて、懇願するように衿嘉さんへ見る。



「た、頼む衿嘉、俺は……俺は何も、頼むよ……まだ阿澄は小さいんだ。美弥にはまた次の子が出来たんだ。こ、こんな、これが出来ないとあの子達は……」

「……どうしたんだ……? いったい、美弥さんと阿澄くんに何があったんだ……?」

「おじさん……?」



 明らかに常軌を逸した言動に、ついには周囲で推移を見守っていた人達からすら剣崎さんは疑惑の目を向けられ始める。

 それでも、もうこの人には衿嘉さんしか目に入っていないのか、周囲の変な空気にすら意に介す事無くへなへなと床に膝を突き力無く肩を落とし、縋るように衿嘉さんを見上げる。



(……『UNN』とかの海外からの手やあのスライム人間の事、それに異能が明るみに出た関係で、この時期に警視総監になるのは忙しくて大変だと思ったけど)



 真っ青な顔をした剣崎さんの懐にある携帯電話から、恐らく誰かはこの状況を盗み聴いているのだろう。

 この状況を逐一把握している存在がいるのだ。

 私はその通話先にいる存在を確信する。



(一番はやっぱり、普通の人にはどうしようもない異能を持った奴が、こうやって奸計を講じて来ることがやっかいなんだろうな)



 邪魔な奴を穏便に始末する簡単な方法。

 それが出来る関係にいる奴を利用して、誰も警戒しない方面から仕掛ければいい。

 手口の細かなところに異能と言う非科学的なものを一つ組み込めば、簡単に完全犯罪は成し遂げられる。


 今回で言えば、標的が衿嘉さんで、その手段が剣崎さんだった。


 無二の親友と言う立場を利用した完全犯罪。

 わざわざ表舞台に出ることなく、邪魔な奴を片付ける


 唾棄すべき醜悪な計画だが、その有効性は認めよう。



(ただし、相手に同じ異能持ちがいる場合、話は変わる)



 私は既に、標的を捉えていた。



「――――マキナ」



 指示を出す。





 ‐2‐





 同時刻。

 剣崎の家には三つの人影があった。

 小さな子供とその母親、そしてそれらを視界に収めながら母親の携帯電話を使用して、どこかの状況を監視する銀色の人型。

 恐怖に体を震わせる母子が見つめるその銀色の人型の存在は、水銀を無理やり人型に押し込めたかのように歪で、常にその体は流動的に動きまわり、生物的にありえない。


 こんな存在が現実に存在するなど、彼らは少し前までは想像すらしていなかったのだ。



 家の中からやけに響いて来るテレビの音と常時流されている音楽に、漂う不穏は掻き消され、外部からは異常を感じ取れない。

 常に監視されている夫の状況に異常があれば、すぐにでも彼らの命は奪われる。

 そんなこと何を言われずとも分かっているのに、拘束もされていない今の母子に逃げると言う意思は微塵も存在していなかった。


 そんな選択は、この怪物の怖さを目の当たりにして、消えてなくなってしまったのだ。


 数日前、何の前触れも無く、鍵のかかった玄関扉の隙間から入り込んできた銀色の液体。

 それが、顔の無い銀色の人型に変貌し、壁を溶かしながら歩き進んできたその光景。

 人型でありながら変幻自在に体を変異させ、突き立てられた包丁を体内に取り込んでグチャグチャに押しつぶし、それから跡形も無く丁寧に丸めた包丁を彼らの前に落とした怪物の人智を越えた機能を見た瞬間に、抵抗の意思は消え失せた。



「ママ……」

「大丈夫、大丈夫だから……。お父さんが助けてくれるからね」



 もう泣き疲れ、声を出す元気もない子供を抱きしめて、母親は自分でも信じていないそんなことを言う。

 悲痛な母子の様子など気にも留めず、機械的にじっと母親の携帯電話を顔の無い頭を向けていた怪物は次の瞬間、グルリ、と頭を回した。



「――――失敗した。お前の旦那、失敗した」

「ひっ……!!」



 それが発した声は、異常だった。


 いくつもの声が重なって聞こえた。

 年老いたしわ枯れ声にも、小さな幼子の声にも、陰鬱なほの暗い声にも、年若い高い声にも重なって聞こえた不気味な音が機械的に部屋の隅で震える母子に向けられる。

 それが意味するところは、つまり。



「ひっ……ひっ……こ、この子だけでもっ……!! この子だけでも見逃して下さいっ……お願いします……! わ、私はなんでもやりますからっ、お願いですっ……この子だけで――――あ゛っ!?」

「マ、マ……?」



 ゴムのように伸びた銀色の腕に殴り飛ばされて、子供の前で壁に叩き付けられた母親は頭から血を流しながら意識を失う。

 そして、その光景を呆然と、理解できないものを見るようにしていた子供が何かを言う前に、伸ばされた腕が、まるで意思を持つ巨大な蛇のように子供の首を咥えて宙に持ち上げた。



「あ、かはっ……!?」



 無言で子供の首を締め上げた銀色の怪物は周囲を警戒しつつも、目の前のこの母子の始末を実行に移す。

 計画は何者かによって邪魔をされたため、失敗時の筋書き、『同僚の出世に嫉妬で狂った父親が家族を心中させ、出世した同僚に毒を盛ろうとした』へと切り替える。

 第一目的は達成できなかったが、可能な限り捜査の手が伸びるのも、疑う者が出るのも少なくする必要がある。


 そのために、自分の姿を見ているこの親子を見逃すなんて選択は初めから無い。


 この家族の処分方法は気を付けないと、なんて。

 そんな事を言いながら、銀色の怪物は手に持った子供をさらに締め上げる。


 手足をばたつかせ、必死に倒れて動かなくなった母親に向けて手を伸ばす子供が徐々に、抵抗の力を無くしていく。

 血の気を失い、ぐったりと体から力を失った子供にさらに銀色の怪物が力を加えようとして。



「あ、ああ゛あ゛!!!!」



 意識を取り戻した母親が、飛び付くように子供を締め上げる怪物の腕に体当たりするように縋りつき、窒息しかけていた子供を引きはがす。

 そして、守るように子供を抱きしめると、ふらつきながらその場から逃げ出そうとして、脇腹を銀色の怪物に殴り飛ばされ再び壁に叩き付けられた。


 激しく咳き込み、涙を流しながら這うように逃げようとする母親の背後に銀色の怪物は近付いた。

 凍り付く母親と意識を朦朧とさせる子供が、近付いて来る怪物の姿をその目に写して。

 絶望に凍り付いた表情を浮かべた、その時。



 ――――唐突に、怪物の背後にあった携帯電話から機械音声が響いた。



『見付けタ』

「――――!!??」



 それまで余裕しか見せなかった銀色の怪物が、弾かれた様にその場を飛び退き背後を振り返る。


 振り返った先には何もいない。

 先ほどまで、山峰新警視総監を始末出来るか監視するために使用していた携帯電話があるだけで、それ以外には何一つおかしな個所はない。


 だが、確かに響いた機械の声。

 無機質でありながら、明確な意思を持ったような声。

 そして、同じように活動していた筈の、自身と同じ分身体の3つがある日突然消滅すると言う謎の事態に警戒心を抱いていた銀色の怪物は過剰なまでに、今の現象が何なのか解明しようと周囲を窺う。



『敵性異能知性体。お前は最優先処理対象ダ』

「――――馬鹿な、いったいどこか」



 次の瞬間、目の前に巨大な腕があった。


 轢き潰される。


 異能の出力を弾くはずの外皮を、巨大な衝撃が破壊して、銀色の怪物を壁に叩き付けた。



「……!?」



 存在を保てない。

 ほんの一瞬で分身体を構築するための核を直接巨大な力で握りつぶされた。

 ドロリと、体がただの液体になっていくのを感じながら、銀色の怪物は突如として目の前に現れた巨人を呆然と見上げる。



「ありえない……」



 最後の言葉はそれだけだった。

 ボチョン、と言う間の抜けた液体の音と共に、家族を襲っていた銀色の怪物は消滅した。


 呆気なく、あれだけ恐ろしかった銀色の怪物が目の前で体を崩壊させたのを目の当たりにして、恐怖に震えていた母子は状況が分からず目を見開く。

 周りには何の異常もない。

 あの銀色の怪物を攻撃する存在は何処にも見当たらないのに、あの怪物は目に見えないナニカに抵抗すらできないまま無力化されたのだ。


 それは、あまりに理解の範疇を越えている。


 呆然とする母親の奪われていた携帯電話が、触れてもいないのに勝手にどこかへ繋がった。



『はい、こちら救急相談センターです。どうなされましたか?』

「え……なんで、電話が勝手に……」

『? どうなされましたか? 怪我人がいらっしゃるんですか?』

「け、怪我人が2人います! 場所は――――」



 そんな母子の状態を見届けて、この場を遠くから監視していたもう一体の液体人間の処理も完了したのを確認し、銀色の怪物を襲っていた無形の巨人はその場を後にする。


 無形の巨人、姿の無い暴力。

 そして、その正体のインターネットの怪物は、自分の成果を報告して御褒美を貰うため、帰るべき場所へと向かう。


 一人の少女の元へと、戻っていく。





 ‐3‐





『むんっ、むんむんむん! むんむんむんむんっ!!』

「えっえっ? ど、どういう意思表示? どんな状況だったのかって報告してほしいんだけど……」



 剣崎さん宅にいるだろうこの件の元凶の始末をマキナに命じて、ネット回線を通して攻撃を仕掛けた訳だが……帰って来た銀髪幼児のアバターになっているマキナは両腕を曲げて力こぶを強調してくるだけで何の報告もしてくれない。

 恐らくこの表現は、倒した、と言う意味なのだろうが、剣崎さんの家族は人質にされている状況だっただろうから、せめて被害が及ぶ前に倒せたのかと言う情報は欲しいのだが……。


 そんな私の想いとは裏腹に、私の反応を見たマキナはしょぼんと肩を落として眉尻をこれでもかとばかりに下げる。



『可愛くないのか……マキナのあらゆるアニメ、イラスト、小説から研究してきた“可愛い”の集大成その1が不発なのか……これが、悲しいと言う感情……』

「あの、報告早くしてもらっていい? 私、ちょっとトイレ行ってくるって言って抜け出してきただけなんだけど……」

『酷い、御母様は我が子の頑張りに対してもう少しちゃんと褒めるべきダ』

「我が子じゃないし」

『(´;ω;`)』

「わ、我が子じゃないけどっ、私が生んだとは認めないけどっ……その、まあ、ちゃんと丁寧に扱うし……」

『……(´;ω;`)……? 何だか、前よりは良くなってる……かも? むふー!』



 …………なんだかんださっきのは普通に可愛かったと思うし、今の動作を赤の他人としての視点から見たらファンになると思うが、いかんせん私は擬態だと分かっているし、なんなら私だけを狙いすましたあざとい可愛さに対して素直に負けを認めるのは何となく癪だ。


 それと、御母様と呼ぶのは勝手にしていいが、私は絶対に認知しない。

 だって、私がやったのはあくまで元々あったものの枠組みを強固にしただけだし、無から生み出した訳ではない。

 つまり、親と子の関係ではない筈なのである。

 マキナと言う存在を形作った者としての責任は果たすが、この歳で子供とか……それはちょっと……うん、私の意思は固いのだ。


 アバターのマキナがまだ少し不服そうに唇を尖らせながらも、携帯の画面半分に剣崎さんの家の中の映像記録を写して私に説明を始めた。

 ちなみに、どうやって記録を残していたのかやどんな技術で私の携帯にデータを転送してきたのかは、私には全然分からない。



『御母様の指示通り、剣崎家庭に以前の異能知性体が一体。また剣崎家庭の様子を遠くから監視していたもう一体、計二体発見。どっちも倒した。剣崎家族は無事だったゾ』

「二体……前にやったのと合わせてもう五体目……? この分身体が替えの利かない指を起点としているとすると、少し使い方が雑……? いやでも、あの分身体が二体以上を同時に相手にしてまともにやり合えるだろう異能持ちがどれだけいるかって考えると、コイツのやり方が間違っている訳じゃないのかな……?」

『御母様とマキナの敵じゃない。やっぱり御母様は最強、無敵、カッコいい』

「…………そういうことを言うのは恥ずかしいから止めて……。まあ、その、報告ありがとう。完璧な仕事だったかな」

『むふふー!!』



 本気でそう思っていそうなマキナに釘を刺した上で、私は考える。

 数に限りがありそうな分身体の扱い方が雑なのか、それとも何かしらの方法で数の限りを無くす手段を持っているのかは分からないが、私のやることは変わらない。

 この液体人間の本体を見つけ出し、コイツの計画全てをご破算にしてやること、それだけを目指せばいいのだ。


 どこに潜んでいようと、絶対に引き摺り出してやる。



「……お兄ちゃんを怪我させた報いは絶対に受けてもらうぞ、スライム人間」



 窮屈な髪留めを引き抜きながら、私はそれだけ呟いた。




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