診察室の窓にへばりついた美沙子は、しばらく呆然と自失していた。

 血の海に倒れ込んだ吉岡医師は、ぴくりとも動かない。その顔に泣き笑いのような表情をへばりつかせたまま、吉岡医師は絶命していた。


(あいつ……あいつ、本当に殺しやがった!)


 ようやく我に返った美沙子は、全身をわななかせながら身を起こした。

 そうして診療所の表に回ってみたが、野々宮静夫の姿はどこにもない。美沙子が自失している間に、殺人者は立ち去ってしまったのだった。


 美沙子は震える膝を励ましながら、炎天下の道へと足を踏み出す。

 本当は走って追いかけたかったが、ここまでの移動と三十分ばかりの待ちぼうけで、蓮田節子の肉体はすっかり力を失ってしまっていたのだ。そして薄っぺらい胸の内側では、心臓が早鐘のように鳴ってしまっていた。


(くそっ! 見も知らぬ人間が殺されるところを目撃したぐらいで、ビビってるんじゃないよ! あんなもん、葉月が殺される姿に比べたら、どうってことないでしょ?)


 美沙子はそのように奮起しているのだが、体のほうは言うことを聞いてくれない。それはただこの肉体が貧弱であるというだけでなく、蓮田節子の心の弱さも関係しているのではないかと思えてならなかった。


 美沙子はぜいぜいと息をつきながら、来た道を逆に辿り始める。

 そこにも野々宮静夫の姿はなかったが、北上したとは考えにくい。この道をこれ以上北に進んでも、延々と畑が広がっているばかりであるのだ。美沙子としては、野々宮の家や駐在所などが存在する南の側を目指すしかなかった。


(でも、あいつが警察に捕まったら……けっきょく施設に放り込まれて、同じことの繰り返しだ。その前に、あいつをこの手で始末してやる!)


 娘の葉月を守りたいという一心で、美沙子はひたすら道を進んだ。

 しかしどれだけ歩を進めても、野々宮静夫の後ろ姿は見えてこない。あちらも頼りなげな足取りであったのに、美沙子が呆然としている間にずいぶん距離を空けられてしまったようだった。


(それにしても、これはどういう騒ぎなんだろう。あの日記帳を読んだら、どうして祖母さんの自殺が父さんのせいってことにされちゃうのさ? どんな内容が書かれていても、自殺は自殺でしょ?)


 そこまで考えたとき、美沙子はひとつの事実を思い出した。

 由梨枝さんは、自殺するような女性じゃなかった――美沙子の母親である蓮田千夏は、かつてそのように語っていたのである。


(でも、だからって、あたしの父さんが自分の母親を殺したりするはずがない! あいつらは、いったい何を企んでやがるのさ?)


 さまざまな激情にとらわれながら、美沙子は長々と続く一本道を進み続けた。

 蓮田の家を通り過ぎ、さらに十分ほど進むと、ようやく野々宮の家が見えてくる。

 そうして美沙子が土塀に寄りかかって、息を整えようとしたとき――門から、長身の人影が飛び出してきた。


 その姿に、美沙子は思わず身を震わせる。

 とうてい声も届かないような距離であったが、そのシルエットにははっきりと見覚えがあったのだ。


(父さん……あれはきっと、父さんだ!)


 美沙子の父親、野々宮隆介である。

 野々宮隆介はただならぬ様子で左右を見回し、そしてそのまま川沿いの土手を駆け下っていった。


(待って……父さんは、どこに行くんだよ?)


 美沙子はほとんど衝動的に、自らも土手を駆け下った。

 野々宮隆介はこちらに背中を向けて、銀色に輝く川に沿って南下していく。その先に待ちかまえるのは、昼なお暗き雑木林だ。


(どうして、あんな場所に……? あそこには、ほったらかしのお堂しかないはずだ)


 美沙子は今にも倒れてしまいそうな肉体に鞭を打って、父親の背中を追いかけた。

 野々宮隆介のすらりとした姿は、すぐに樹林に隠されてしまう。美沙子もまた、ふらつく足取りで雑木林に踏み入った。


 心臓が、痛いぐらいに胸を打っている。

 全身がどっぷりと汗に濡れて、目の奥にはちかちかと白い星が瞬いていた。蓮田節子の肉体は、これほどに脆弱であったのだ。


 それでも美沙子がかすむ目をこすりながら、歩を進めていくと――行く手から、野々宮隆介のわめき声が聞こえてきた。


「静夫! こんな場所に俺を呼びつけるなんざ、どういう了見だよ?」


 野々宮静夫が、野々宮隆介をこの場に呼び出したのだ。

 美沙子は勇んで、そちらに近づこうとしたが――そのとき、何か不自然な具合に心臓が痛んだ。


 美沙子はうめき声を噛み殺しながら、目の前にそびえたつ樹木にもたれかかる。

 心臓が、酔っぱらった鼠のように暴れ回っていた。

 もしかしたら蓮田節子は、心臓に持病でも持っていたのかもしれない。美沙子にはまったく覚えのない、嫌な感じの脈動であった。


(くそ……ここが正念場なんだから、しっかりしておくれよ!)


 ほとんど樹木にしがみつくような格好で、美沙子は樹林の向こう側を覗き込んだ。

 お堂の前で、まったく似ていない兄弟が向かい合っている。美沙子はちょうど真横から盗み見ている格好であったので、彼らがこちらに気づく気配はなかった。


「隆介兄さんは、どうしてそんなに取り乱しているの? 何かこの場所に、嫌な思い出でもあるのかな?」


 先刻までと同じように、野々宮静夫は感情の欠落した声音でそのように言いたてた。

 その瞳も、真っ黒で虚ろなままである。そして彼は、右手に握りしめた赤い日記帳を背中のほうに隠していた。

 怒りの形相であった野々宮隆介は、虚を突かれた様子で口をつぐみ――それから、うろんげに眉をひそめた。


「おい、静夫。お前、どうしちまったんだ? なんだか様子が普通じゃないし……その顔とか服とかに付いてるのは、血みたいに見えるぞ」


「うん。これは、吉岡先生の血だよ。僕はさっき、吉岡先生を殺しちゃったんだ」


 野々宮隆介は、仰天した様子で後ずさった。


「ば、馬鹿な冗談はやめろよ。お前がそんな真似をするはずがないだろ?」


「ううん。吉岡先生は、僕を裏切ったんだ。だから、どうしても我慢できなかったんだよ。僕はきっと、まともな人間じゃないんだろうね。……でも、それは兄さんも同じことでしょう? 兄さんは、その手で母親を殺したんだからさ」


 怯みかけていた野々宮隆介の目に、怒りの炎が噴きあがった。


「お前、冗談でもそんなことを口にするんじゃねえよ。俺が母さんを殺すはずが――」


「でも、この日記帳にそう書いてあるんだよ。兄さんが母さんを殺すために、このお堂の前まで呼び出したんだってね」


 野々宮静夫は無感動な声でつぶやきながら、背中に隠していた赤い日記帳を眼前にかざした。

 野々宮隆介は怒りに燃えながら、どこか苦痛に耐えているような顔でそれをにらみ返す。


「なるほど、そういうことか。ああ、確かに俺は、あの夜に母さんを呼び出したよ。でもそれは、聞きたいことがあっただけで――」


「聞きたいことがあっただけなら、どうして包丁なんか持ち出す必要があったのさ? それじゃあ殺意があったと見なされてもしかたないんじゃないかな?」


「俺は包丁なんて持ち出してねえよ。お前、さっきから何を言ってるんだ?」


「この日記帳には、そう書かれているんだよ。ノイローゼだった兄さんが包丁を持ち出したんだろうってね」


 野々宮隆介は怒りと困惑の混在した顔つきで、口を閉ざした。

 野々宮静夫は感情の欠落した能面のような顔で、かすれた笑い声をこぼす。


「確かに先月の兄さんは、ひどい落ち込みようだったもんね。兄さんさえいれば甲子園を目指せるんじゃないかって期待をかけられていたのに、肘を壊して退部することになって……きっと千夏ちゃんは、あの頃からいっそう兄さんに心をひかれるようになったんじゃないのかなぁ」


「千夏ちゃんって、川向こうの蓮田の娘かよ? 俺とあいつは、そんなんじゃねえよ」


「うん。兄さんは野球ひと筋で女の子なんかに興味がなかったから、千夏ちゃんの気持ちにも気づかなかったんだろうね。でも、千夏ちゃんはあれこれ世話を焼いてくれたでしょう? それで千夏ちゃんが、僕なんかの面倒を見てくれたのは……大好きな兄さんの弟だったからなんだよ」


 そんな言葉を語りながら、やっぱり野々宮静夫の言葉に人間らしい感情は感じられない。それが、何より不気味であった。


「僕は、惨めだよね。千夏ちゃんの気持ちに気づきながら、それでも僕は自分の気持ちを止めることができなかったんだ。いつかは千夏ちゃんも兄さんのことをあきらめて、僕に振り向いてくれるんじゃないかってさ。そもそも千夏ちゃんは、兄さんのために僕の面倒を見てくれていただけなのに……惨めっていうか、滑稽だよね。僕みたいな人間が、人に好かれるわけがないのにさ」


「おい、いい加減にしろよ。そんな世迷い事を聞かせるために、俺をこんな場所に呼び出したのか?」


「うん。だって僕は、吉岡先生を殺しちゃったからね。これじゃあもう、千夏ちゃんのこともあきらめるしかないでしょう? でも、僕が人殺しとして警察に捕まって……その間に兄さんと千夏ちゃんが結ばれるなんて、僕には我慢がならなかったんだよ」


 そう言って、野々宮静夫は赤い日記帳を高々とかざした。


「だから僕は、兄さんを告発する。兄さんも、僕と同類の人殺しだ。これならきっと千夏ちゃんも、兄さんのことをあきらめてくれるはずさ」


「だから! 俺は母さんを殺したりしてねえよ!」


「知ってるよ」と――野々宮静夫は、半月の形に唇を吊り上げた。

 吉岡医師と、同じ笑み――そして、美沙子の知る未来の野々宮静夫と、同じ笑みである。


「だって、母さんを殺したのは、僕だからね」


「……なんだと?」


「母さんは兄さんに会うために、この場所に向かっていた。その途中で、僕が母さんを川に突き落としたんだよ。こっちのほうが上流だから、兄さんは母さんが流されていく姿を見ることもできなかったわけだね」


 野々宮隆介は、わなわなと肩を震わせ始めた。

 野々宮静夫は、そんな兄の姿を真っ黒な目で見据えている。


「まさか……本当にお前が、母さんを……?」


「うん、そうだよ。でも、この日記帳を読んだ人間は、そうは思わないだろうね。母さんを殺したのは、隆介兄さんだ。僕たちは、仲良く警察に捕まることになるんだよ」


「ふざけるな! 俺はそんなことしていない!」


「だけど、そうなんだ! この日記帳が、証拠だよ!」


 野々宮静夫はふいに白い咽喉をのけぞらして、哄笑をほとばしらせた。

 赤い血が点々とついた顔は、虚ろな笑みに歪んでいる。目もとにも口もとにも醜い皺が刻みつけられて、それは美沙子が知っている通りの醜貌に成り果てていた。


「母さんを殺したのは、兄さんだ! 兄さんは、僕と一緒に破滅するんだよ! これまで何の文句もない人生を送ってきたのに、残念なことだね! 僕の代わりに、母親殺しの汚名を背負うことになるんだからさ!」


「馬鹿を抜かすな! そんなデタラメな話、誰も信じるもんか!」


「どんな言い訳をしたって、もう言い逃れはできないよ! この日記帳に、みんな書いてあったんだからね!」


 野々宮静夫はおぞましい喜悦に震える声で、そのようにわめきたてた。


「隆介兄さんが、母さんを殺したんだ! 隆介兄さんは、人殺しだ! 隆介兄さんなんて――千夏ちゃんには相応しくない!」


「ふざけんな! そいつをよこしやがれ!」


 野々宮隆介が、野々宮静夫の小さな体につかみかかった。


「よこせ! そいつをよこすんだ!」


「嫌だ! 手を離してよ! 人殺し!」


 野々宮静夫は上ずった声で叫びながら、赤い日記帳を胸もとに抱え込んだ。

 野々宮隆介は狂乱の形相となり、そして――野々宮静夫の白い首に手をかけた。


「や……やめなさい! あんたがそんなことをしたら、駄目なんだよ!」


 美沙子はずきずきと疼く心臓の痛みをこらえながら、まろび出た。

 それと同時に、ごきりと鈍い音が響き――野々宮静夫の細い首が、あらぬ方向に折れ曲がる。


 美沙子の父親である野々宮隆介が、殺人者となってしまったのだ。

 美沙子は、目の眩むような絶望感を味わわされることになった。

 そして――弟の華奢な体を放り捨てた野々宮隆介は、狂気と憎悪に燃える眼光を美沙子に突きつけてきたのだった。


「見たな……?」


 野々宮隆介が、こちらに駆け寄ってきた。

 さしもの美沙子も恐慌状態となって、身をひるがえす。

 そうして美沙子が深い茂みをかきわけると、そのすぐ向こう側には銀色の水面が待ちかまえていた。


(しくじった……!)


 蓮田節子の弱りきった肉体は急停止することもかなわず、頭から川に水没した。

 陽光を透かした銀色の奔流が、痩せさらばえた体を容赦なく蹂躙していく。美沙子の本来の肉体であれば、このていどの川で溺れるはずもなかったが、蓮田節子の肉体は最初から死に瀕していたのだった。


(駄目だ……このままじゃあ、葉月だけじゃなく父さんの運命まで……)


 呼吸のできない苦しみが、それ以上の苦悶に塗り潰されていく。

 そして――銀色にきらめく奔流は、いつしかセピア色の奔流に変じていたのだった。

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